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92 ごめんね、イリ


「落ち着いた?」

嗚咽の落ち着いた私に兄さんが尋ねる。

「ううん」

まだ抱き締めていて欲しくて、兄さんの首元で唸った。

「嘘ばっかりだね」

笑った兄さんは、それでもまだ私を抱いていてくれた。

今、顔はどうなってるのかな。冷たい目じゃない様な気がするんだけど。

覗いてしまえば、やはりあの目に戻ってしまうのかな。

思わず、小さく溜息が漏れた。まだその息が震えていた。

「泣かなくて良いって言っただろう?」

「だって、何が本当で何が嘘なのか、全く分からないじゃない。兄さんは、兄さんじゃないの?」

兄さんが軽く笑った気配が感じられた。

「違うよ」

どうして笑うのだろう?

「じゃあ誰なの?私は何?」

兄さんの顔を見ようと身体を離そうとしたが、兄さんに強く身体を締め付けられて叶わなかった。

嬉しいけど、もどかしい。顔が見たい。

兄さんがなかなか答えてくれないので、こんな状況だと言うのに兄さんの固い身体と、良い匂いとが嫌でも意識されてきた。

私の胸に当たる兄さんの詰め物が気持ち悪い。

余計な事を考え始めていた頃、兄さんの低く静かな声が耳元に届いた。


「僕らの両親だと君が思っている彼らは、間違いなく僕の父親と、君の母親だけど、彼らは夫婦じゃない。友人だったんだ」

ああ、そうなんだ。そうだとしたら、本当に私達は、家族ではない。

兄さんの落ち着いた声は、静かに胸の中に染み込んでいく様だった。

「家族ではない。君が生まれる前に君の母親と僕らが出会ってから、家族の様に助け合っていたけど、一緒の家で暮らしたことは無いし、言わば隣人だよ」

助け合う隣人だったのならば、とても近しい他人だ。

「家族の様なものだった?」

「どうかな。そうかもね。僕の父は君の事を自分の娘の様に見ていたよ」

はっきりとしない兄さんがもどかしい。

「夫婦ではなくても、父さん達は愛し合っていたんじゃないの?それなら私達は家族同然でしょう?」

例え有るか無いか分からないような弱いものだったとしても、今まで信じて来た兄さんとの絆が断たれるのは嫌だった。

そう思うと、急に怖くなった。

他人だと突き放されたらどうしよう。

血も繋がらず、家族でもないのなら、私は何を根拠に兄さんの傍に居たいと言えるのだろう。

この優しい抱擁は、次に私を拒絶する準備だろうか。

最後に別れを告げられる?

他人だから、一緒にいる義理もない。これまで十分に面倒は見たから、もう勝手に生きて行けと?

ああ、兄妹でも家族でもないのに、何故私はこの人に頼り切って、酷い苦労をかけて生きて来たのだろう。


「何でまた泣いてるの?イリ。どうした?」

兄さんが私の背中を叩いてくれる。

優しくて、怖い。次に何が起こるのかが怖い。

「聞い、てる。私達、どんな関係だったの?」

「君の母親と僕らが出会った頃、まだあの辺りではロウエンの兵との小競り合いが続いていてね。君の両親は、ロウエンの軍医として働いていた医師だったんだ」

兄さんの腕の中で、しゃくり上げながらおとぎ話を聞かされている様な気分だった。

「父と僕は旅の帰路で、戦禍を生き残って森で倒れていた君の母親に出会った。僕の母の故郷で、お産で共に死んでしまった母と妹を葬ったばかりだったんだ。父は身籠っていた君の母親と、亡くしたばかりの愛した妻が重なって見捨てることが出来なかったんだろうね。ロウエン人を街に連れ帰ることも出来ず、父は打ち捨てられていた森の小屋に君の母親を匿った。僕たちも、少し離れた狩小屋を見つけて、そこから毎日通って君の母親を世話した。君の母親が回復して、君が無事生まれたのは奇跡だと思うよ。本当に、皆が嬉しかったんだ」

兄さんの話を聞きながら、物凄く胸が痛くなってきた。多分、母さんと父さんの最後の時を想像してしまったせいだと思う。

兄さんの服をぎゅっと掴むと、兄さんが髪を撫でてくれた。

「父が弓の名手で、森での生活でも薬を手に入れる元手や食べる物に困らなかったことと、君の母親が医師だったことが幸いしたんだ。君の母親は気丈な人だったよ。酷い怪我をしていたのに、自ら父に指示して傷を縫わせたりね。言葉も通じなくて大変な作業だったけど、父が何とかした。僕も手伝わされたけど、血が怖くて何度も吐きに外に出た」

笑いながら語っている様だけど、かなり壮絶だ。


「兄さんが、私の名を書いてくれてた」

そう言うと、何の事か分かりかねたのか、兄さんが首を傾ける様に私の顔を見下ろしたのが感じられた。

鎖骨あたりに顔を伏せている私のこめかみに、兄さんの顎がふれた。

思わず反対側の頬を兄さんの身体に擦り付ける様にすると、ぎゅうと抱き締められた。

「ああ、そうだね。あれはロウエンの文字だよ。彼女はとても賢い人だったから、すぐに僕らの言葉を理解してくれるようになって、僕にも向こうの言葉を教えてくれた。もう殆ど忘れてしまっているかも知れないけど、当時はロウエンの文字でなら簡単な読み書きは出来てたんだよ」

驚いて兄さんを見上げる。抵抗なく腕が緩み動きを阻まれることはなかった。

私を見ていた兄さんが苦笑した。

「ロウエンの文字だけだよ?彼女もこっちの言葉を話せる様にはなってたけど、読み書きは出来なかったよ。肝心の父さんが出来なかったからね。教える人がいないだろう?」

納得した。顔を伏せるとまた兄さんの胸に抱き締められた。



「ごめんね、イリ」






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