90 取ると思う?
あの人、名前なんて言うんだっけ。
兄さんのこと心配してるだろうな。
取り敢えず思い留まらせてるって報告しときたいけど、連絡を取る方法も分からない。
一介の使用人が元王太子への中継ぎを女官さんに頼む訳にもいかないし。
明日の朝会えるかな。あ、明日シバに、あの人に会わせてって頼んだら良いんだ。
兄さんの自由は、苦しみを失くすことと引き換えだって言われたけど、兄さんまだ何か抱えてるよねえ。
私にどうにか出来るのかな。
「おい」
ぼんやりしたまま食事ののったカートを受け取って来ていたようだ。
気付けば既に部屋へ戻る道で、手にはカートを押していた。
あ、ジョエの分の食事がのってない。
うーん、どうしよう。
私、厨房の人に確認したのかしら。
「おいって」
頭を叩かれて、聞きなれた声に呼ばれていたことに気付いた。
後ろを振り仰ぐと、ジョエが私を見下ろしていた。
「あ、ジョエ」
「呆けっとして歩いてんなあ。壁に激突すんなよ?あ?俺の飯は?」
ジョエが私の上からカートを覗き込んでいた。
「ああ、ごめん。忘れた」
呆れた様に溜息を吐かれた。
「何だ。また喧嘩したのか?いつになったら終わるんだよ、お前らの兄妹喧嘩は。それぞれ勝手に悩んでねえで、ちゃんとあいつと話しろよ」
頭を掴まれてぐらぐら揺らされた。
ジョエの重たい手を振り払う。
「止めてよ。そうよね、ジョエの言う通りよね」
私達兄妹は会話が足りなかった。それは間違いない。
「今、初めての真剣な話し合いの途中なの」
「真剣な話し合い中に飯取りに来る奴が居るかよ」
馬鹿にするジョエに頬を膨らませると、すぐさま潰された。
「兄さんがお腹減ったからご飯取りに行けって言うんだもん」
ジョエがふうんと考える顔をする。
「最近飯食いだしたのと関係あんのか」
「あるよ。理由聞いたらジョエぶち切れること間違いないよ。後で教えてあげる」
最後の晩餐だったと知った時のジョエの姿が目に浮かぶ。きっと兄さんに拳骨でもしてくれるだろう。
「何で後なんだよ?」
面白くなさそうな顔のジョエが私に文句を言う。
「今ジョエに乱入されると困るのよ。何かまだ隠してることがありそうだから、この際全部喋らせとかないと。今なら話してくれそう」
ジョエに頭を小突かれた。
「じゃあさっさと行け。根暗は色々溜めすぎると爆発する時がやばそうだからな」
そう言ったジョエに、空気が読めないはずのこの幼馴染が意外にも兄さんの事を一番理解してるのかもなと、密かに感動した。
「もう食べたの?」
私が全体の三分の一も食べ終わらないうちに、椅子の背にもたれた兄さんのトレイを見て驚く。
綺麗さっぱり何も無くなっている。
「身体も慣れて来たみたいだし。君の分も全部食べられるよ?」
そうだよね。姫用の食事だもんね。元々、男の兄さんに足りる量ではないよね。
「要る?」
私を見下ろす兄さんの方に自分のトレイをずらして尋ねてみると、馬鹿にした様に微笑まれた。
「冗談だよ。僕が君から食べ物を取ると思う?」
「思わないです」
飢えていた頃から、私にばかり食べさせていた。
私にたらふく食べさせていたいと言うのは、兄さんの最高の願いの様な気がした。
「それにしても遅いよね。本当にこっちが食べられない時は苛々したよ」
忌々しげに、でも笑みながらそう言う兄さんに眉を寄せた。
「はあ?じゃあ、待ってないでさっさとあっちに行けば良いでしょう?食べもしない人にじっと見られてるのも、凄く食べにくいのよ」
私を見て冷めた顔で笑む兄さんを睨む。
あーあ。また女に戻っちゃった。
お風呂上りは完全に男で凄く格好良かったのに。
胸の詰め物は元から違和感に溢れていたが、似合っていると感じていたはずの紅もアイラインも最早奇妙にしか思えない。
「何?」
私の視線が不快だったのか笑みながら睨まれる。
「女装が気持ち悪いなと思って」
笑みが消え、本気で睨まれた。
「誰がこの胸糞悪い姿を僕に強いて、しかも引き延ばそうとしてるんだと思う?僕だってこんな滑稽な格好はさっさと終わりにしたいんだよ」
頬を膨らませ兄さんを睨み続けていると、理不尽な点に自分で気付いた様だった。
「そうだった。ここに来るのを決めたのも、こんな馬鹿げた格好をすることに決めたのも、僕だったね。君は何も悪くなかった。現状を引き延ばそうとしていること以外はね」
また薄っすらと笑みを浮かべて、私は悪くないと言いながら、私を責める。
まあでも、黙って笑っていられるより面と向かって責められる方がましだ。
反論も出来るし、謝ることも出来る。
「そんなに女装が嫌なんて知らないもん。聞いたことなかったし。じゃあすぐ止めれば良いでしょ。もうここから出ようよ」
謝り損ねたが、まあ気持ち悪いのは本当なので良いか。
「何処に?」
兄さんが笑みを消した面白くなさそうな素の顔のままで問う。
「私はシバが雇ってくれるって。私の仕事が決まればもうここに居る必要はないんでしょう?」
私の行く末を安定させる為の後宮入りだったんでしょう?
兄さんが私を眺めながらわずかに頷いた。
「そうだね」
「兄さんと一緒に住める所をシバに世話してもらえるよう頼んだの。そしたら、かまわないけど、兄さんの意向も聞いて来いって言われて、それであの人のとこに行くことになってるんだなって思ったんだけど。どうせ行く気もなかったんでしょう?あの人もそう思ってたみたいだし」
生きる気がないのなら、あの男の下に行くつもりなどある訳はない。
兄さんが目を伏せる。
あの男を利用していたことに後ろめたさでもあるのかも知れない。
確かに、私の目から見てもあの男は気の毒だ。
「あの人、名前なんて言うんだっけ」
兄さんが目を開いて私に呆れた視線を向けた。
「ザシャ」
「ああそうだった。聞いたことある」
「本当に君、学校行ってたの?」
私を馬鹿にする兄さんに腹が立ち、無視して食事に戻った。




