89 物凄く気分が悪い
「ねえ」
兄さんに顔を近付けて呼びかけるが、手の中から顔を上げてはくれなかった。
背中にあてていた手を滑らせて、兄さんの身体を腕ごとそっと抱き締めた。
強張る兄さんの肩に頭をのせる。
「兄さんって、本当に最低だね。でも、大丈夫だよ。もう大丈夫。兄さんにどんなに酷い態度をとられても、どんなに冷たい目で見られても、何を言われても、私はもう絶対傷付かない自信がある。兄さんは私のことを愛してるもんね。だから、私を憎んで酷い態度を取って傷付けようとするのは許す。でも、絶対傷付かないから。傷付かないけど、兄さんは必要よ。兄さんが居ないと嫌だ。だから、兄さんは生きてて良いの」
兄さんが身体を固くしたまま微動だにしない。
「私が兄さんのすることに傷付かなくなったら嫌?やっぱり、死んで、私を苦しめたくなる?」
尋ねてから随分間が空き、兄さんが私の腕の中で頷いた。
「素直だね。うーん、じゃあ、十年。十年生きてくれたら、その時まだ私を苦しめたかったら、死んでも良い。そしたら、うんと悲しんで、自分を責めて、苦しんでから、兄さんの後を追って私も死んであげる。どう?良い考え?」
兄さんが私の腕の中で顔を覆っていた手をおろし、小さく笑った。
「滅茶苦茶だよ。そんな事信じると思う?十年なんて長すぎる。君はその間に僕の事なんてどうでも良くなって、僕が死んだって苦しんでなんてくれなくなる」
兄さんにどきどきしてる今が、私が兄さんの死に酷く苦しむ絶好の機会ってことか。
「兄さんの事がどうでも良くなる日なんて来るとは思えないけど。きっと、十年一緒にいてくれたら、今よりもっと、ずっと兄さんの事を好きになって、今兄さんが居なくなっちゃうよりずっと苦しむと思うわよ?十年が二十年になったら、もっともっと好きになってるから、もっと苦しむ。そうでしょう?」
好きと言う恥ずかしい言葉も兄さんを生かす為の説得に使えるのなら、ぽろぽろと口から零れでる。
兄さんがまた黙り込んだ。考えているのかも知れない。
兄さんの身体から手を放し、顔を隠す指をこじ開けようと引っ張りながら覗き込んだ。
「絶対、今よりもっと好きになる。絶対よ」
「ちょっと、黙ってて。洗脳されそうだよ。ちゃんと考えられないから、静かにしてて」
怒られた上に、大きな手の平で顔を押されて兄さんから離された。
少し調子の戻った兄さんに嬉しくなって、えへへと笑うと、私の目元を塞いだままだった兄さんの手の平に頭を引き寄せられた。
離されたり、引き寄せられたり忙しい。
ぎゅうっと抱き締められ、兄さんの首筋に顔がくっついた。
ああ、また鼓動が凄い事になってる。
兄さんが私の頭に唇をくっつけて溜息を吐いた。
「もう、何だか良く分からなくなったよ。取り敢えず、今日死ななきゃそれで良い?」
「駄目だよ。良い訳ないでしょ。明日でも明後日でも駄目。じゃあ、私の居ないところで死なないで。それで良い」
「君の目の前なら良いの?」
兄さんの声が怪訝そうだ。
「違う。絶対説得する。絶対、死なせない。それか、絶対私が先に死ぬ」
兄さんがもう一度溜息を吐いた。
「ほんっとうに、しつこいね」
「分かったの?返事は?」
兄さんが返事をしない。約束しないことで誤魔化して逃げ道をつくるつもりだ。
私を囲う腕の中から無理矢理兄さんを見上げた。
薄い青の目が私を苛立たしげに見下ろしていた。
「私の居ないとこで勝手に死んだら許さないからね。ちゃんと約束して。約束破ったら、兄さんが死んでも嫌がる事してやるからね」
絶対に失くしたくない、大好きな兄さんの目を覗き込んでしばしにらみ合った。
「あ!」
突然叫んだ私に兄さんが眉を寄せる。
「何」
「良い事考えた!兄さんが勝手に死んだら、裸で兵舎のお風呂に入る!」
兄さんが目を剥いた。
「ジョエが言ってたみたいに子供には見えないって知ってるでしょ?きっと、慰み者になる」
「イリ」
腕が強く掴まれ、酷く怒った目が私を睨んでいた。
「じゃあ、約束ね。と言うか、約束してくれなくても、兄さんが私の居ない所で勝手に死んだら、私は裸で兵舎。勿論ジョエが居ない時にね。守られたら意味がないからね」
物凄く良い事を考え付いた自分を褒め称えたかった。
誰も見ていない場所で、脛を出しただけであれだけ怒ってたんだもの、確実だとは言えないが出来る範囲では兄さんを思い留まらせる一番有効な方法だろう。
睨まれているにも関わらず、にやついてしまった私を兄さんが突き飛ばした。
フワフワのベッドに身体が沈んだだけだったが、兄さんの仕草としては酷く乱暴だった。
私の良い考えが、相当兄さんを苛立たせたようだ。
「怒ってるね。兄さんが死んだ後なら何も気にならないんじゃなかったの?」
ベッドから立ち上がった兄さんの後ろ姿にそう言うと、振り返り私を見下ろした兄さんがにっこりと笑んだ。
「最悪だよ、イリ。好きだって言われて引き留められてる方が可愛かった。何か、物凄く気分が悪い」
傷付かないと言った手前そんな表情を見せる訳にもいかず、腹を立てた顔を作り皮肉を込めた。
「最悪でも何でも良いよ。兄さんが勝手に居なくならないなら良い。兄さんも最悪だし、私も最悪だし。兄妹で丁度良いんじゃないの?」
そう言うと、兄さんが笑んだまま私に背を向け、化粧室に続くドアに向かった。
「イリ、お腹減ったから、ご飯取って来て。食べながら話そう」
何かまだ抱えているのだろうなと思わせるその様子に、溜息が零れた。
「私がご飯取りに行ってる間に居なくならないでよ?」
「君が馬鹿だってことが身に染みて分かったからね。心配しなくても最悪な脅迫のせいでもう何も出来ないよ」
私が考えなしに死にかけたことで、口ばかりではないと信じて貰えたようだ。
私を見ない兄さんの背中にもう一度取り敢えずの安心の溜息を吐いて、厨房に向かうために立ち上がった。




