88 終わりにしたいんだ
「やっぱり私、兄さんが居なくなっちゃうのは嫌よ。私だって耐えられないもの。ねえ、もう仕方ないよ。一緒に頑張ろうよ。一緒に生きよう?」
答えてくれない兄さんをぎゅうと抱き締める。
「兄さんが、生きてる限り私のせいで辛いんだろうなと思う。私が居なくなれば兄さんが辛くなくなるなら、すぐにそうしたい。でも、嫌なんでしょう?」
「だから僕が」
兄さんがようやく答えてくれた。話は聞いてくれていたようだ。
「嫌よ。それは許さない。兄さんがどれ程辛くても、兄さんが死んじゃうのは許してあげられない。絶対嫌。絶対に、嫌よ。分かった?」
顔を何とか浮かせて、兄さんの様子を窺おうとするが、隠れるように私の肩に顔を埋めてしまう。
兄さんの骨ばった背中に回した手で、肩を叩く。
「兄さん。顔見せてよ。分かったの?兄さんが死んだら私も一緒に死ぬからね?とにかくちょっと待ってよ?勝手に死なないでよ?良い?」
兄さんが唸った。
「良くないよ。どうして君に許可を取らなくちゃいけないんだよ。じゃあ、事故で死ぬよ。それなら良いだろう?」
馬鹿な言い分に呆れて溜息を吐いた。
「良い訳ないでしょ?もし事故でも私も死ぬわよ。事故にも遭わないでよ?老衰以外許さないからね」
兄さんが私の顔の脇に腕を立て身体を起こし、私を見下ろした。
心底嫌そうで、酷く辛そうで、なのにやっぱり笑っていた。
「勘弁してよ。生きているのが辛いんだ。君には悪いけど、僕はもう生きたくない。もう君も、僕が居なくても生活して行けるだろう?シバもウィゴも君を気に入っているし、彼に後見を頼んだから、経済的にも心配ない。ジョエと暮らしても構わない。とにかく、僕はもう必要ないはずだよ」
真上に居る兄さんを軽く睨む。
「兄さんが居ないと嫌だって言ってるでしょ。お金の問題じゃないわよ。兄さんは必要なの」
兄さんが綺麗な顔を歪めた。
泣くのかと思ったが、随分長く私を眺めて、また緩く微笑んだ。
「それならもう、僕が死んだ後は好きにして。君が先に死ぬのは絶対に嫌だけど、僕が死んだ後だったら良いよ。どうせ死んでしまえば何も分からないし」
え?
兄さんが冷たく微笑みながら、私から身体を離し始めた。
無くなっていく兄さんの身体の重さが酷く寂しかった。
「死んで良いよ?僕の後だったらね」
顔を背けながらもう一度確認するように言われ、その言葉に傷付くよりも、どう反応して良いのか分からない。
兄さんは何を思っているんだろう。本当に私がどうなろうと構わない?あんなに取り乱して縋り付いていたのに?
身体を起こし隣に座ると、両足に肘をつき虚ろに前方の床を見つめる兄さんが低く呟いた。
「君さえ居なければ、僕はこんな、穢れた、惨めで耐え難い生を送らずに済んだ。君も良く分かっているだろう?」
うん。分かってる。良く分かっていたけど、実際兄さんの口からそう言われると、あっという間に涙が零れそうになった。
兄さんは私から目を逸らしたまま、薄く笑んでいた。
「君が憎いよ」
耐え切れず、頬を伝った涙を慌てて袖で押さえる。
兄さんがそんな私の様子を横目で一瞥し、また冷たく笑む。
胸が痛かった。
「血の事はシバに聞いた?」
どきんと胸が脈打った。
「え?どうして?」
どうして私が知ってるって?それに、兄さんはいつから知っていた?
笑顔のままの兄さんが隣で顔を引き攣らせる私を見下ろした。
「胸が酷い音を立てていたよ。実の兄相手にあれはないよね?」
気付かれていたことに血の気が引き、同時に恥ずかしくて凄い勢いで全身が熱くなった。
兄さんの表情を窺うが、そんな私を見ても、冷やかな目のままだった。
悲しくて、お腹の中も胸の奥も痛かった。
「ごめんね。ジュジュ」
え?
酷く冷めた目を見せる兄さんがまた微笑む。
「君のその顔が、嬉しいんだ」
そう言われた瞬間の私は、とても辛くて悲しい顔をしていたと思う。
息を飲んだ私に、兄さんが続けた。
「君が僕の酷い態度に傷付くのをずっと喜んでいた。僕を意識して、僕の態度に傷付いて、僕の事で思い悩んで、苦しんで、そんな君の姿を見て喜んでいるんだよ」
小さな頃から兄さんに感じていた笑顔の裏の冷たさが思い出され、当時の寂しさがよみがえる。
この間謝られたことで、故意に傷つけられていたのだとは理解していたが、私の傷付く顔が嬉しい?
再び私から目を逸らした兄さんは、笑んでいたがとても辛そうだった。
本音だと思う。でも、兄さんの気持ちはきっとこれだけじゃ足りないのだろう。
だって、それでもずっと愛してたって言ってくれた。
「僕は君が思う以上に最低な人間だよ。僕の苦しみは僕自身が選んだことで、君が望んだことじゃない。それなのに僕は君を憎んで、君を傷付けて喜んでいる。僕が死ぬことで、君が苦しめば良いと思ってる。君も後を追って、死ねばいい。そう、思ってるよ」
これは、きっと。
「兄さん」
隣に腰掛ける兄さんの顔を覗きこむ様に呼ぶと、少しだけこちらに顔を向け私を見てくれた。
「それ、だから死なせてくれってお願いにしか聞こえないわよ?」
兄さんが一瞬目を開いた後、諦めた様に微笑んだ。
多分、冷たさはなかった。きっと、当たりだったのだ。
「兄さんが私に理不尽な酷いことをする最低な人間だから、兄さんが死んだことに苦しまないで、兄さんが死んだ後も気にせず暮らしてって、兄さんだけを死なせろって、そう言う意味?」
私がしゃべるのを眺めていた兄さんが、笑みを消して悲しそうな顔をした。
「違うよ。全部言った通りの意味だよ」
しぶといな。顔が正解だって言ってるのに。
「全部本音なのも分かる。でも、私が言ったことも思ってるでしょう?兄さんだけ死んじゃうなんて嫌よ」
私から背けられた兄さんの顔が歪んだ。
「勘弁してって」
兄さんが手の中に顔を伏せてしまった。
「もう、嫌なんだ。傷付いた君を見て喜ぶ自分が、そのために君を傷付ける自分が、もう嫌だ。終わりにしたいんだ」
ああ、やっぱり。兄さんはどこまでも私のことばかり。
「僕は弱くて最低だ。僕なんかの為に君が何かをする必要はない。僕の死に苦しんでくれるかも知れないって、もしかしたら君も死んでくれるかも知れないって、そう勝手に信じられるだけで良かったんだ。それだけで幸せだった。そのまま死にたかった。それで終わりに出来るはずだったんだよ。君を傷付ける自分から解放されるはずだった。君も僕から解放してあげられるはずだった。君が僕の為に自分で命を絶つところなんて見たくなかった。君に幸せになって欲しいんだよ」
今にも泣いてしまいそうな声を絞り出す兄さんが、無性に愛おしかった。
「幸せになって欲しいよ。その為に生きて来たんだ。僕が居なくなって、シバかジョエか、とにかく君が生き易いこの地で他の男と生きた方が君は幸せだ。でも、君の様に純粋に、ただ君の幸せを願うなんて、絶対に出来ない。君が僕を意識し始めた今この時に、君の近くで命を絶って、君を生涯僕の事で苦しめたかった。どうしようもない人間だよ。最悪だ。僕は生きていても、死んでも、君の為にならない」
兄さんの手の中に消え入りそうな切ない声に、涙が溢れそうだった。
結局、兄さんは優しいだけじゃない。
私の事は憎んで当然なのに、傷付けたいと思うことだって当然なのに、それでも愛してくれて、そして私を傷付けたくないと苦しんでる。
顔を伏せたままの兄さんの背中に手をあてた。
薄いローブを通して、兄さんの背中に浮き出る骨が感じられる。
私の為に子供の頃から今までずっと空腹だったはずだ。
こんなに優しい人が、最悪でどうしようもないなんてことがある訳無い。
お腹一杯食べて欲しい。
記憶の中の父さん程とはいかなくても、兄さんが痩せすぎじゃない健康的な身体つきになるまで側にいたい。
女性に見えるような美しさではなくなるだろうけど、きっと、今よりもっと魅力的になる。
私を憎んで、傷付ける兄さんが嫌いだった。
当然憎く疎ましい気持ちから、私を傷付けて胸がすくと言う思いもあったと思う。
でも、兄さんは、私が傷付く姿を見て楽しいとは言わず、嬉しいと言った。
私が兄さんの態度に傷付く姿を見て喜んでいたと。
面白がって傷つけられていた訳ではない。憎かっただけでもない。
きっと、兄さんは確かめたかったのだ。
私に必要とされていることを確かめ、それによって、自分の存在を肯定して欲しかったのだと思う。
私の為だけに生きて来た兄さんにとって、私に必要とされないことは、何よりも辛いことに違いなかった。




