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87 困ったねえ


「イリ!」

私を呼ぶ声が聞こえる。

胸が痛い。何?

「イリ!」

また悪夢を見たのだろうか。

「イリ!」

ジョエが起こしに来てくれた?でも、この声は。

「イリ!」

激しく身体を揺さぶられて、目が覚めた。

「イリ!」

ぼやけた視界に薄青が飛び込んだ。兄さんだ。

ちゃんと目を開くと、私の真上で兄さんが酷い顔をしていた。

あれ?

身体が全く動かないので、首だけを回して周りを確認した。

兄さんのベッドの端で足を床におろしたまま仰向けになっている様だった。

あ、足は動く。

多分殆ど時が経っていない、つい先ほどの出来事を思い出した。

「イリ!笑ってる場合じゃないだろう!何考えてるんだよ。やめてよ」

徐々に怒鳴る声に力を失った兄さんが、顔を歪めて私に覆いかぶさって来た。

両方の腕が首の下に差し込まれ、息苦しいほどにぎゅうと抱き締められた。

どうやら、隣にいる兄さんに横から肩を押さえつけられ身体に圧し掛かられていたせいで、身動きが取れなかったようだ。

まあ、肩から手が離された今も、上半身は全く動かないままだけど。

ああ、良い匂い。兄さんの身体の重さも、感触も、凄く気持ちいい。得したなあ。

心配してくれている兄さんを余所に、そんな不謹慎な事を考えていると、兄さんが私の上でわずかに身体を起こした。


間近から物凄くきつく睨まれる。

「何、考えてた?何した?さっき」

真上にある兄さんの目を見上げる。

陰になって色が見えないな。でも綺麗。睫毛が長い。

未だぼんやりする頭でそんな事を考えていると、怒られた。

「イリ!」

びくっと身体がすくみ、兄さんの身体がまだ私の上にあることを意識させられた。

「う、あの、息、」

「何」

低く続きを促す兄さんが怖い。

「息止めたら、もしかしたら死ねるかなあ、なんて。いや、本当にそのくらいで死ねるとは思ってなかったけど、舌噛んで血だらけになったら兄さん可哀想だし、なんか今すぐやらないと、決心が鈍る気がして。というか、今ならこれでもいける気がして」

兄さんがまた顔を歪めた。綺麗な顔が勿体ないな。

「やっぱり息止める位じゃ無理だったね。ちゃんと方法考えなきゃ、兄さんに無駄に心配かけちゃうね。ごめん」

ぽとりと、頬に水滴を感じた。

兄さんの目から、零れ落ちた様だった。

ぶわっと、記憶の中の幼い兄さんの泣き顔がよみがえる。

全く同じだった。辛くて悲しくて、見ているこちらの胸が切なさで破れてしまいそうな顔をしていた。

「ごめん。ごめんね。兄さんの前ではもう絶対やらない。約束する。考えなしだった。ごめんね。泣かないで」

真上からぽつぽつと降って来る涙の出所に、指を這わせる。

兄さんが目を閉じてくれないので、拭うに拭えなかった。

「ごめん。嫌な事思い出しちゃったよね。ごめんね」

兄さんの涙の雨が止まないし、拭かせてもくれないので、兄さんの頭に手を伸ばし、よしよしと撫でてみた。

兄さんが頭を傾けて来たような気がして、そうっと引っ張ってみると、簡単に引き寄せられてきた。

さっきみたいにまた、兄さんが私の首に腕を回してくる。

しっかり目が覚めてしまったせいか、身体が裏返るんじゃないかと言うほど、どっくんどっくんと胸が鳴っていた。

どうしよう。密着している兄さんに伝わらない訳がない。

そう思うと、兄さんの薄いローブ越しの胸が、私の胸と接している事を意識してしまい、どう考えても逆効果だった。

やけに生々しい胸を押し潰される感触に、お腹周りの布が抜き取られていることにようやく気付いた。

気絶していたので、呼吸を楽にしようと外してくれたのだろう。

余計な事をしてくれた兄さんが恨めしい。

兄さんの後頭部と肩に置いていた手を、そっと外してベッドに置いた。

さわってられないよ。胸に合わせて、頭の中が破裂しそうなほどどくどく言っている。

このままでは頭がどうにかなってしまう。


「馬鹿じゃないの?信じられないよ」

兄さんが私の耳元で文句を言う。

うう。耳に兄さんの肌が。首に息が。

呼吸が困難になってきた。このまま兄さんにくっつき殺されるのが私にとっての一番の幸せかも知れない。

もうちょっとくっついてくれたら、胸と頭が破裂して死ねるかも。

馬鹿な事を考えていると、兄さんが私の上で身動いだ。

「イリ?」

「聞いてる」

ホッとしたように、もう一度私の首に巻き付けた腕でぎゅうと締められた。兄さんどうしたんだろう。


「僕は無理だよ」

「え?」

「信じられないよ。自分で息止める位で死ぬ奴なんかいないよ」

「そうだね。死ねる訳ない」

「違う」

私の言葉を遮った兄さんの顔を窺おうとしたが、兄さんの頬に自分のそれが押し付けられそうで叶わなかった。

「馬鹿だよ。本当に、呼吸が止まってたんだ」

兄さんの声が震えている。ああ、本当に死んだかと思って、また死ぬかと思って怖いのかな。

「そうなんだ。じゃあどうして私」

今、生きてるの?

「知らないよ。馬鹿だよ。いい加減にしてよ。怖かった。倒れた君の顔が真っ青になってて、唇が変色して、君が、あのまま居なくなってしまうかと、思って。僕は、耐えられない。絶対に、駄目だ」

今にも泣き出してしまいそうな優しい兄さんが、愛しくて、可哀想だった。

私に縋り付く様にしている兄さんの骨ばった肩をぽんぽんと叩く。

「そう。ごめんね、兄さん。せっかく私から解放されても、私が死んだせいでまた兄さんが辛くなっちゃうんなら意味がないもんね」


じゃあ、一緒に死ぬしかないのかなあ。でも兄さんが死んじゃうのは嫌だな。

兄さんが苦しみ続けるのも嫌だし。どうすれば良いのかな。

「どうしようか。困ったねえ」

相変わらず私を締め付けて離れてくれない兄さんの身体が暖かい。

胸はドクドクと音を立て続けていたけど、くっついている兄さんの胸に吸い込まれる様で、もうどちらが発している音なのか良く分からなくなっていた。

「あったかいね」

そして良い匂い。首元に埋まっている兄さんの顔が、くすぐったくて恥ずかしくて、どうしようもない気分だ。

私も少し顔を横に向ければ、兄さんの首筋に口付けられそう。

良い匂いの誘惑に抗うのが大変だった。

思わず兄さんの肩に置いていた手を背中に滑らせると、兄さんの身体が一瞬強張り、それからまたきつく抱きしめられた。

ああ、気持ちいい。

私はもうこのまま終わっても全く構わない。

でも、私の死が兄さんの苦しみを増やすことに繋がるのなら、私は絶対に兄さんを残しては死なない。

ならば、二人とも生きるしかない。





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