86 だからもう、良いんだよ
「何の話?」
「兄さんが私を見たくもないって話」
兄さんが嘘くさい笑みを消して、思い切り眉を寄せた。
「何だって?」
怪訝な顔をする兄さんに立ち上がって叫びたかったけど、残念なことにまだ足が言うことを聞かなかった。
大声も出しにくい。
代わりに精一杯兄さんを睨み上げた。
「そうでしょ?憎い私が幸せになる姿を見たくないんでしょ?だから自分が居なくなるの?私が幸せにならずに、ずーっとお腹減らしてたら、兄さん一緒に居てくれる?」
兄さんは唇を引き結び私を見下ろしていた。
兄さんを睨む気力もなくなる。全身の力がまた抜けてしまったようだった。
「そんな訳ないよね。私を幸せにしようって、生きていたくない程辛いのを我慢して、ずっと頑張ってくれてたんだもんね。早く私と離れたいんだよね」
自分の口から出た言葉に、勝手にだけど兄さんの胸の内を理解出来た様な気がした。
前触れもなく、涙が頬を伝う感触があった。
瞬いて次の涙を飛ばし、兄さんに頑張って笑顔を見せた。
兄さんは恐ろしく綺麗な顔で、私をきつく睨みつけていた。
「愛してくれてたのに、私のせいで苦しめてごめんね。簡単だったんだよ。私がいるせいで兄さんが生きて行けないのなら、私が居なくなれば良い。やっぱり最初のあの時に、死んであげられてたら良かったね」
強く両腕を掴まれる。
「イリ!馬鹿な事を言うんじゃない」
目の前で兄さんが酷い顔をしていた。
「そうだよ。馬鹿なことだよ。でも本気だよ。兄さんだってそうでしょう?」
本当に死んじゃうつもりなんでしょう?
兄さんがまた唇をきつく閉ざし、押し黙った。
愛する私を幸せにしたい気持ちと、憎い私の幸せを見たくない気持ちがあって、死んでしまいたいほど私のそばに居るのが辛いのに、死んでも良いと思うほど、私を幸せにしたいのだろう。
優し過ぎて、気の毒になる程愛おしい。
私を愛して等いなければ、兄さんは楽に生きていけたのだ。
私の幸せなど願わず、私の生き死に等構わず、自分の為に生きることが出来ていたなら。
大好きな兄さんの綺麗な目が、凄く近くにある。
私を見る目が冷たく澄んでいる間も、この薄青の空の色に焦がれていた。
その目で私を見ていて欲しかった。私にその目の色を見せて欲しかった。
いつも惹かれて、何度も吸い込まれて、命まで吸い取られてしまいそうだった。
私だって兄さんの為に命を使うことに、躊躇いなどない。
「ねえ。兄さんがもし先に死んじゃっても、離れてあげる気なんてないからね。私もすぐに追いかける。でもそれじゃあ、兄さんの命が無駄になっちゃうでしょう?」
私が居なくなるなら、兄さんはここに居て良いはずだ。
表情を失くした兄さんが私を見つめている。
楽しそうに、嬉しそうに、私に目を細めてくれる兄さんをもう一度見たかったな。
「私ね。兄さんは贖罪の気持ちで、憎んでる私の為に生きてくれてるんだと思ってた。でも、違ったんだよね?愛してくれてたからだったんでしょう?」
兄さんに首を傾げて見せるが、頷いてくれることはなかった。
でも、ちゃんと聞いた。ずっと愛してたって、僕のジュジュって、言ってくれた。
「だからもう、良いんだよ。私は良いの。兄さんに愛されてたって分かったから、もう幸せなの」
私にはそれが全てなのだから。
私の前に屈む兄さんの頭を抱き寄せた。
濡れたままで冷えてしまった柔らかい髪が頬にふれる。
引き寄せられるままに床に膝をついた兄さんを、ぎゅうと抱き締めて息を吐く。
私のものとは違う薄い生地のローブ越しに、兄さんの身体の熱と肩の感触が伝わって来る。
兄さんが私の身体の脇に両腕を突き、ベッドがきしんだ。
「ずっと、兄さんに申し訳なくて、後ろめたくて、私の為にしてくれてたことも押し付けられてるみたいで嫌だった。でも、愛されてたんだったら、今まで兄さんがしてくれたこと全部が嬉しい。ここで、兄さんと過ごせて良かった。兄さんが私に、楽しそうな笑顔を見せてくれたから、凄く嬉しかった。手を繋げて、頭を撫でて貰って、心配して貰えて、抱き締めて貰って、愛してたって言ってくれた。もう、これ以上ないくらい幸せよ」
私がこのままで幸せだって信じてくれたら、生きてくれる?
黙ったままの兄さんの肩に頬を寄せると、暖かくて、切なかった。
まだ生きてる。せっかく生きてたんだから、居なくならないで。
兄さんは私の幸せをずっと願ってくれていた。
私も同じよ。
一緒に幸せになれたら最高だったけど、兄さんは私のせいで辛かったね。
愛した私が幸せになって、憎んだ私が居なくなることで、兄さんが辛くなくなるのなら、是非そうしたい。
兄さんは私を幸せにしてくれた。
今度は私の番だよね?
「ごめんね。最後まで兄さんの邪魔をして。せっかく楽しそうだったのにね」
きっと、死ぬのが楽しみだったんだよね。
生から、そして私から解放されることが、嬉しかったんだよね?
「大丈夫。私からは解放してあげる。そうだ、あの人ももう兄さんを縛らないわ。ちゃんと約束してくれたから安心して。兄さんはもう自由に生きられる。縛られないけど、きっとあの人が友人として大切にしてくれる。今度こそお腹一杯食べて。ジョエもいるし、心配ないわ。これからはきっと楽しく生きて行ける」
何も答えてくれない兄さんの肩に、滲んだ目元を押し付けそっと息を吐いた。
もう一度だけ、兄さんの声を聞きたかったな。
イリって、兄さんがつけてくれた大切な名で呼んで欲しかった。
大好きな兄さんの良い匂いで身体を満たすことが出来るように、深く息を吸った。
ああ、とっても良い匂い。本当に、大好きだった。
「私も兄さんを責めてたけど、ずっと好きだったよ。誰よりも、父さんや母さんよりも愛してる。この世で一番大好きよ。兄さん。どうか、生きて、幸せになって」
思わず、兄さんに言われたことの繰り返しになっちゃったなと、可笑しくなった。
もう一度深く息を吸い込み兄さんで身体の中を一杯にして、暖かい兄さんの首元に抱き付いたまま、呼吸を止めた。




