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85 今になって食べてるのは

不安に気が遠くなりそうだった。全身が凍り付くような心地のまま激しく胸が鳴り、身体が震えて、走る足がもつれそうだった。

馬鹿だ。兄さんは馬鹿だ。

何が、『お腹一杯食べたいと思わない?』よ。

自分は生きたいとさえ思っていなかったくせに。

悲しくて、腹が立って仕方がなかった。

私の前から、予想以上に完璧に姿を消そうとしていた兄さんに、腸が煮えくり返る程腹が立っていた。

もしあの男が私に教えてくれなかったら、もし兄さんが望んであの男の下に行くのだと馬鹿な勘違いをしたままだったら。

もし、兄さんが既に居なくなってしまっていたら。

早く、早く、早く。


通路を駆けて、白いドアを大きく開く。居ない。居るはずのソファに兄さんが居ない。

血の気が引き、足ががくがくと震えた。血がないはずなのに動悸が更に激しくなり、頭ががんがんする。

まだ、大丈夫。

根拠のない戯言を自分に言い聞かせ、何とか足を進めた。

寝室のドアをゆっくりと開く。

居ない。

呼吸しようにも、息の吸い方が分からなかった。

まだ分からない。まだ大丈夫。

浅い息を吐き、気を失うことだけはしてはならないと、取っ手をギュッと掴んで体を支えた。

胸が何かに刺された様に痛い。

どうしよう。兄さん、どこ。


音もなく、寝室の奥にある浴室に続くドアが開いた。

濡れた髪を一つに縛り、適当にローブを羽織った兄さんが現れ、私に気付いて目を丸くした。

「イリ?どう、した、の」

滝のように涙を流し始めた私に、兄さんが言葉を詰まらせた。

「何でお風呂なんか入ってんの!兄さんの馬鹿!」

有らん限りの力を振り絞って兄さんを罵ったつもりが、情けないふるえた声しか出せなかった。

「何でって、いつもこの時間に。イリ。真っ青だよ」

暢気に私を気遣う兄さんの声に安心し、ドアに掴まりながらずるずると床に滑り落ちた。


全身の力が抜けてしまいドアに頭をもたせ掛け、息を吐いた。

良かった。暢気にお風呂入ってて良かった。

ああ、湯気と一緒に石鹸と兄さんの良い匂いが流れて来る。

目を閉じ、何度も深呼吸をした。

良かった。生きてた。



「どうしたの」

近くから聞こえた兄さんの声に目を開くと、兄さんが私の前にしゃがみ込んでいた。

手にしていた布で私の頬を押さえる。

乾いた感触に、さっき兄さんが手に掴んでいたものではなく、私の為に新しく持って来たのだろうなと思う。

目元から布が離れると、兄さんの薄青の目が正面から私を覗き込んだ。

素顔の兄さんが凄く綺麗で胸が痛い。

優しい兄さんにぎこちない笑みだけを返す。

「良くなったけど、真っ青だったよ。気分悪くない?」

「もう大丈夫」

首を振ってそう答えたが、まだ足が立たないみたいだった。

「立てないの?」

「もうちょっとしたら、大丈夫」

兄さんはそう言う私に呆れた様に笑い、脇に手を差し込んできた。

「何」

「ここにずっと座ってるの?」

そのまま持ち上げられ、ベッドの端に座らされた。

現れた時よりきちんとローブを着直していた兄さんが、私の前に立った。

胸の詰め物もないし、素顔だし、目も優しいし、自分の使命を忘れ緊張と動悸でどうにかなりそうだった。

「力持ちだね」

あっぷあっぷしながら声を絞り出すと、兄さんがまた呆れた顔をした。

「こんななりでも男だからね。まあでも、君の体重が限界だよ」

ご飯も十分に食べてこなかったしね。

「ねえ。兄さんがご飯食べてなかったのって。仕事の為?」

兄さんがしばらく私の顔を見ていた。


「そうかな。父さんの姿を憶えている?」 

いきなり父さんの話になり首を傾げる。

「多分。兄さんと同じ髪の色で、凄く大きな人?ジョエより」

兄さんが私を見下ろして微笑んだ。

「ジョエより大きかったかどうかは分からないけど、とにかく大きくて、逞しい体付きだったんだ。僕も成長期に好きなだけ食べていたら、きっとあんな身体になっていたと思う。それじゃあ客がつかないだろう?男娼として致命的だよ」

私の料理を食べていなかったのも、その為だったのだろう。

食べられるだけの収入が得られる様になったにも関わらず、食べるための職を失わぬよう空腹に耐えていたのだろうか。

片方の腰に手を置いて立つ、痩せた兄さんの姿を眺めて思う。

違うよね。自分の為で等あるはずがない。

私を食べさせる為に、職を失わぬよう空腹に耐えていたのだ。

仕事の為かと聞いた私に、変な答え方をした兄さんの気持ちが分かる気がした。

仕事の為じゃない、これも私の為だった。


「それで、何で真っ青になって腰抜かしてたの?風呂がどうのって怒鳴るし」

兄さんが腕を組んで私を見下ろした。

お風呂中だったためか、寝室のカーテンは閉められていて、居間に続くドアからの光だけが室内を薄明るく照らしていた。

昨日から既に、何かから解放された様にすっきりした表情の兄さんを見て思う。

こんなに綺麗で優しい人間が、自分で勝手にその命を終わらせようとしている。

終わってしまえば、何も残らないのに。

兄さんがして来てくれたことへの感謝も、兄さんの楽しそうな笑顔に対する切ない思いも、私を憎んでいた兄さんへの怒りも、苛立ちも、兄さんへの恋しさと愛しさも、向かうべき場所を失ってしまう。

私の感情は全ての行き場を失うのだ。


「今は?」

兄さんが怪訝な表情になる。

「今になって食べてるのは、最後の晩餐のつもり?」

兄さんの表情が消えた。

「後何回食べるつもり?いつ食べるのを止めるの?私が真っ青になってたのは、兄さんがもう、何も食べられなくなっちゃったのかと思ったから。腰抜かしてたのは、兄さんが生きてて安心したからよ」

兄さんがゆっくりと笑みを浮かべた。せっかくの綺麗な目がちっとも笑っていない、あの見慣れた笑みだった。






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