84 私が何を選ぶって?
「お早う。ジュジュちゃん。頭上げて構わないよ。手ぶらだね?」
シバの目が、頭を下げていた私の手元に注がれていた。
兄さんがそう長くここに居る気もしないので、その報告に来たのだ。
のんびり勉強会に参加する気も最早起らなかった。
「お早うございます。ウィゴ様。シバ様。今日はお早いですね。で?どうなさったんですか?」
何故かお兄さんの代わりにベンチに居座っている男は取り敢えず無視して、シバに尋ねた。
「機嫌が悪いな、ジュジュ」
気遣わしげなウィゴに、にこっと笑って見せる。
「ウィゴ様は大好きですよ」
ウィゴが怪訝そうに眉をよせて首を傾げた。
シバが小さく吹き出す声が聞こえる。
「まあ、座りなよ。セイは休み。ウィゴ様は先に、はい」
シバがウィゴに抜身の剣を放る。相変わらず受け渡しが乱暴だ。
「ジュジュを泣かせるなよ」
まだ私より小さな手で剣の柄をがっちりと掴んだウィゴが、シバに不審げな顔で注意を残し離れていった。
シバじゃない、問題はこっちよ。
「えらく懐かれたものだな」
狭かったのだろう。テーブルはベンチから遠く離され、書き物が出来る状態にはなかった。
ベンチの中央にどっしりと腰を降ろす大きな男が、私に向かって笑んだ。
「何か私にご用でいらっしゃいますか」
男の前に立ったまま見下ろすように尋ねると、肩に手が置かれた。
「よしよし。一回ぎゅうしてあげようか?」
シバが後ろから私に巻き付いて来る。
「結構です。大丈夫です。あっちに行ってて下さい。泣きませんから」
頭の上にあるシバの顔を見上げてそう言うと、優しい顔で笑みながら私の髪に頬を寄せてぎゅうっと抱き締められた。
「泣かされそうになったらすぐに呼ぶんだよ。いや逆に泣かせそうな気もするけど、今日は遠慮せずにやって良いからね。泣かされたらウィゴ様が黙ってないし。君に手を上げたら私とも絶交だって言い渡してあるから、反撃は任せて」
反撃?手を上げられた時点で私の命は終わっている気がするのだけど。
私の頭を撫でてウィゴの下に向かい始めたシバの後ろ姿に、嫌そうな顔の男が呟いた。
「気持ち悪いな。どうやって手懐けたんだ」
「座れ。お前に見下ろされると気分が悪い」
立ったままだった私に、男がまた嫌そうな顔をした。
笑ってみせる気はなくなった様だ。
ベンチの端に浅く腰掛け、いつもはシバが私を見ている場所から、男を見上げる。
腕組みをし足を大きく開いた男の威張り腐った態度が腹立たしい。
「何か御用でしょうか?」
男が鼻で笑った。
「何かも何も、俺とお前の共通の話題は一つしかなかろうよ」
ふん。
答えず黙っていると、男が心底嫌そうな顔で続けた。
「俺の愚行の代償は、お前の後見だそうだ」
は?
「今ここで斬り殺してしまえば済むが、それもするなと、アレとシバどちらからもしつこく言われている故、シバに一任する。お前もその方が良かろう。シバも了承している」
男への敵対心に張り詰めていた糸が切れ、なんだか一気に気が抜けた。
「左様ですか。結局一番信頼されておられるままではありませんか。よろしかったですね」
私の後見人が誰になるか等、どうでも良かった。
兄さんがそれをこの男に託したのが虚しかった。
一気に覇気を失った私に、男が顔を険しくさせていた。
「何だその腹の立つ顔は。アレがお前の為にしたことが不満か」
「いいえ。ではシバ様にお願い致します。兄を宜しくお願い致します」
うんざりと答えた私を、男の強い口調が蔑んだ。
「全てを犠牲にし、お前の為だけに生きていたアレの心を知れ。今更アレを見放し、アレが自分の身で築いたお前の為の道を、感謝の念さえ持たずお前一人でのうのうと生きて行くつもりか」
そんな事は分かっている。感謝している。見捨てるのは私じゃない。
「感謝しています。兄が私の為に自分を犠牲にしてきたことも分かっています。兄さんの人生を踏み散らして一人で生きて等行きたくない。私は大好きな兄さんと共に在りたい。でも、兄さんが私と離れる事を望むのなら。私には何も言えません。言えるはず等ないでしょう?これまで私のせいで散々苦しめておいて、兄さんの選択したことに何かを言う資格等ありませんから」
兄さんがあなたを選んでも、私には兄さんにすがり引き留める権利など無い。
兄さんを手に入れるくせに私を責める男の顔を目に入れる気にもならず、あらぬ方に身体を向けて視線を逸らした。
「お前も、兄が唯一か」
男の低い呟きに、視線を逸らしたまま、だとしたらどうなんだとうんざり笑いながら答える。
私がどう思っていようと、兄さんはあなたの下へ行ってしまうじゃない。
「左様ですね。記憶の始まりから、今の今まで、兄は私の唯一の人です」
随分間があった。
私の心も少しは平静を取り戻し、シバがウィゴをからかう声と、剣のぶつかる音が耳に入り始めた頃だった。
「ならば、」
低い静かな声に男を振り仰いだ。
何度か目にしてきた、私を射殺そうとするような鋭い視線があった。
「お前の事は気に食わぬが、アレを唯一とし、案ずる同志として伝える。あいつは元より俺の下に来るつもりなど無い」
また、この男の疑心に付き合わされるのかと苛立ちを感じたのも一瞬の事だった。
男の真剣な強い眼差しが、そんなくだらないことではないと告げている様な気がした。
「俺が信頼されているのは理解した。不本意ながらお前のおかげだ。だが、それだけだ。アレには、お前を手放した後に、生き続ける気概等無い」
男の言葉に耳を疑った。
男は未だ私を強く見据えていた。
「アレはお前の為だけに生きて来た。お前はまだそれを確と理解出来ておらぬ。お前の行く末に幸福の兆しと、揺ぎ無い守りを与える自らの替えの存在を認めたのだろうな。アレがお前を手放すことに決めたのなら、程なく自らを死に追いやってしまうだろうよ」
何?どういう意味?死?兄さんが?
血の気が引き、気分が悪い。
今にも思考を放棄してしまいそうになる意識を必死で引き留める。
眩暈を耐えて目を瞑ると、腑に落ち始めた事実が頭の中を駆け巡った。
「お前に資格がないのと同様、俺にあいつの望みを奪う資格等あるはずがない。しかし、分かっていながらその日をただ待つ等俺には耐えられん。お前がどうにかしろ」
男が必死で考えていた私の顎を乱暴に掴んで、上向けた。
「呆けている場合ではないだろう。俺がどうにか出来るものならお前に伝え等せぬ。俺は術を持たぬ。アレはお前を失くせば生きられない。これが、アレを犠牲にし、生きて来たお前への代償だ。アレの死を代償として大人しく受け入れるか。お前がそれを選べば、アレの命はここで尽きる」
私が選べば兄さんの命が尽きる?私が何を選ぶって?
「俺はもう遣り尽した。元より生に執着のないあいつをこの世に繋ぎとめる事は俺には出来ぬ。あいつの頭の中にはお前の事以外ありはしない。お前が出来ぬのなら、この世の誰にも出来ぬ。お前が、あいつを救え」
顎から下ろされた手が肩を強く掴み、私の身体を揺さぶった。
がくがくと頭が揺れる。
誰が兄さんの死を大人しく受け入れるって?
冗談じゃない。
「止めて下さい。揺らされずとも、命じられずとも、絶対にどうにかします」
肩を掴む大きな手を引き剥がす。
「お教え下さって有難うございます。死ぬまで、一生、いいえ、死んだ後もずっと、心から感謝致します。でも、あなたの浅慮な行いが!兄に私を手放す決意を早めさせたのではないのですか!?こんなに突然、こんなに簡単に、私の前から消えてしまうなんて」
兄さんのやけに清々しい表情が脳裏に浮かぶ。
怒りに任せ男の手に渾身の力を込めて爪を立て、振り払った。
きっと血がだらだらと流れているはずだ。
八つ当たりだ。分かっている。
さっきこの男が言った通りだ。
兄さんのかわりに私を守ってくれる、十分な力を持つシバとウィゴに出会った。
私はここで、苦しまずお腹一杯で生きていける。
この男の愚行がきっかけとなっただけで、遅かれ早かれ訪れていた現実なのだ。
「私の後見の件はお断り致します。その代りに、あなたへの代償として、兄に自由をお与え下さい」
睨みつける私の視線を静かに受け止める男が答えた。
「お前がアレをこの世に繋ぎとめ、苦しみから解放することが条件だ」
「しかと承りました。決して約束を違えられませぬようお願い致します」
私を呼ぶウィゴの声さえ無視して、兄さんの下に戻る道を駆けた。




