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83 ごめんね


兄さんの食事の残りを物色しに立ち上がったジョエが、残念そうな声を上げた。

「なあんだよ。お前また全部食ったのか?」

兄さんは昨日の昼食から、今日のこの食事まで、何も残さず、全ての料理を食べていた。

兄さんが良く食べて、穏やかだ。

喜ばしいはずの兄さんの変化をどうしても喜ぶことができず、朝の勉強会でのことも殆ど憶えていない。

余程ぼんやりと過ごした様だ。

兄さんがジョエを無視して私に微笑みかけた。

「庭に行くなら僕も一緒に行って良い?イリ」

兄さんの目が何となく柔らかい。

確実に、何かが違っていた。

「どうぞ」

その変化を喜ばしいものだと期待させてもくれない、兄さんの排他的な雰囲気が悲しかった。



外階段の上で息を深く吸い込む兄さんは、とても綺麗だった。

眼下に広がる緑と遠く連なる緑、それからその上一杯に広がる自分の目と同じ青をうっとりと眺めながら、静かに呼吸を繰り返していた。

「ここの空気は気持ちいいね」

私を満足げな顔で見下ろし、目を細める。

嫌な感じの予感とは裏腹に、どくんどくんと胸が音を立てていた。

「緑が沢山あるのも、空が広いのも、人間の姿が見えないのも凄く良いね」

景色に視線を戻しそう言った兄さんの横顔に、高鳴っていた胸が痛んだ。

私は?私もいない方が良い?

兄さんは私から離れたい?その方が幸せ?

暗に自分の傍から離れて行けと仄めかされている気がした。

半ば無理矢理連れて来ておいて、随分勝手だ。

私の生きやすい土地に連れて来てやったから、後は勝手に生きていけと言うこと?

私は、こんなに兄さんを思っているのに。

こんなに、兄さんと共に居たいと願っているのに。

楽しげに空を見上げて微笑む兄さんの横顔に、切なくて苦しくてたまらなかった。

あの時、怒っていたけど、髪を男性らしくひとつに縛り、素顔だった兄さんは凄く魅力的だった。

女の髪型も、化粧も、裾の長い衣装も嫌だ。

ありのままの兄さんの近くに居たかった。

妹としてで良い。喧嘩しながら、ぎこちない関係のままでも、冷たくされ続けても構わない。

兄さんの顔を見られる場所に居たかった。

このままでは、それは叶わない。

きっと兄さんはどこか遠く、私の手の届かないところへ消えてしまう。

そんな嫌な考えが何度も脳裏をよぎった。


「こうやって、君と仲良く過ごせるようになるとは思わなかったよ」

腕がふれそうな程近くに座った兄さんが、ベンチにもたれ目の前に広がる緑の景色を眺めながら呟いた。

その口調に、自分の言葉で話すための距離だと分かる。

微かに腕に伝わる袖が触れ合う感触と、風に流されてくる兄さんの良い匂いに酷い動悸がしていた。

私の耳の上辺りでささやかれる低い静かな声と相まって、すごく緊張させられて何かの作業が出来るような状態ではなかった。

内心かなりの努力をして、同じく景色に見入っている様な振りをする。

「そう、ね。仲良しって言えるかどうかはともかく、前よりは随分ましよね」

兄さんが耳元で笑った。

今、兄さんの表情はどうなっているのだろう。目は?

確認したいけど、勇気が出なかった。

落ち込むことになるのが怖かったし、何より顔が近すぎて見上げることが出来なかった。


「あの、君の花はね」

兄さんが眺めているだろう薄紫の星の花に目をやる。

いくつもの星が、穏やかな風にゆらゆらと揺れていた。

「君が生まれた家の周りに、沢山咲いていたんだ。君が生まれて来るのを僕ら3人ともとても楽しみにしてた。僕も君の名を父さん達と一緒に考えたよ」

そうなんだ。

「僕が考えた名に決めたと言われた時は、凄く嬉しかった。今思うと、近くに沢山咲いていたと言うだけで短絡的な名付だったけど」

嬉しいのか残念なのか分からなくなって、苦く笑う。

「そんな事言わないでよ。せっかく考えてくれたのに」

幼い兄さんが黒い髪の赤子を抱いて喜ぶ姿を想像し、切なくなる。

「凄く嬉しかったのは憶えているけど、今となっては後悔しているよ。母さんに、君の名を残して貰えば良かったね。君が母さんの唯一の形見を受け取る機会も奪ってしまった。ごめんね、イリ」

小さな声が、更に潜められ、消え入る様な声で名を呼ばれた。

こんな状況でも、辺りに気を配っているのだと感じられた。

私も出来る限りの小さな声で呟く。

「兄さんが考えて、母さん達が選んでくれたんでしょう?立派な母さん達からの形見よ。私の家族皆からの幸せな贈り物だわ」

ジュジュの意ばかりに囚われていたけど、本名の方が、ずっと大切なものだったのだ。

教えてくれた兄さんに感謝した。

同時に、やはり近いうちに私の下から消えてしまのだろうなと、確信に近いものを感じた。


勇気を振り絞ってすぐ隣に座る兄さんの顔を見上げると、何とも言えず切ない笑みで私を見下ろしていた。

ぎゅうと胸の奥が絞られるように痛む。

「兄さん」

「うん?」

兄さんが切ないけど柔らかい顔で答えてくれる。

「あの人の所へ行ってしまう?」

兄さんが眉尻を下げ、ゆっくりと私の頭に手をのせた。

どくどくと耳の中までも動悸が鳴り響いていたが、兄さんの小さな声を聞き取ろうと必死だった。

兄さんの指が、編まれていない部分の髪を梳くようにして、そっと離れた。

「そうだね。これまでの生活を続けるには、年齢も外見も、限界が迫って来てたし。君も味方が出来てここで生きていける。良い頃合いだと思う」

堪らずに、目を伏せた。

「ここを出て、他の仕事に就いて暮らしてはいけない?」

兄さんが小さく笑う息遣いが感じられた。

「彼の下に行くと言う約束だからね」

本人が兄さんには来る気がないって諦めてたのに?

行かなくても許してもらえるんじゃないの?

それとも、あの男の所に行きたい?

涙が溢れそうだった。

こうやって一緒に外で過ごして、兄さんの穏やかな表情を見られるのは最後かもしれない。

そう思うのに、顔を上げれば耐え切れなくなりそうで、兄さんの顔を見上げることが出来なかった。


「イリ」

「ん」

今にも嗚咽が漏れそうで話すことも出来ない。

懸命に涙を堪えていると、不意に周囲が暗くなり伏せた顔が良い匂いに包まれた。

気付いた時には、兄さんに抱き締められていた。

兄さんの首元におでこがくっつき、両腕が遠慮がちに私の肩を抱きしめていた。

ジョエの遠慮のない力強い抱擁や、シバの優しくて自然なそれとは異なり、ぎこちなくて切なくて、苦しかった。

「イリ、今まで、ごめんね」

兄さんの腕の中で、びくりと自分の身体が反応したのが分かった。

どっどっどっと酷い音を立てて私の思考を邪魔していた鼓動が、突如一切の音を失った。

え?今、何?

兄さんが首を傾げる様に、私の髪に頬を寄せた。

「全て、自分で選んだことだったのに、君を責め続けてごめん。君は何一つ悪くないのに、君を憎んで、酷い態度を取って、ごめん。僕が弱いせいで、君を傷付けて来てごめん。もっと早くに手放してあげられなくてごめん。好きだと言ってくれてありがとう。嬉しかった。身勝手な僕は君を憎んでしまったけど、ずっと愛してたよ。僕のジュジュ。どうか幸せになって」

兄さんの緩い腕の中で、顔を覆って嗚咽を堪えたが、叶うはずもなかった。

声を殺して咽び泣く私の背中を、兄さんの手が抱き締め撫でてくれていた。


兄さんに手を引かれ、恐らく最後になる小道を歩いた。

もう今更、兄さんと別れるまでに少々時があったとしても、別れを宣言されたこの庭で楽しく過ごせる気等しない。

「君が散歩に誘ってくれて良かった」

とても近くを歩く兄さんが囁く。

「誘ったのはジョエだけどね」

不貞腐れる私を兄さんが笑っている。

きっと穏やかで楽しそうな本当の笑顔でいるはずだ。

どうして本当の笑顔を見せてくれるようになった途端別れなきゃいけないの?

私と離れられるから清々して、そんなに素直な笑顔なの?

結局あの男の下に行ってしまうことになったって構わない。

兄さんがこうして穏やかに過ごせるなら、その方が良い。

だけど、もう少し一緒に居てくれたっていいじゃない。

私との別れを急ぐ兄さんが恨めしかった。

「ジョエも連れて来て良かった。あいつがいなかったら、君とこうして話すこともなかっただろうね」

「そうね。私、ずーっと無視されたままだったかも知れないね。避けられ続けて、脱走してたかも」

「ごめんね」

苦笑交じりの声だ。

「嫌」

言葉とは裏腹に兄さんの手を力一杯握りしめる私に、兄さんが微笑んだ気がした。

「君が小さい頃を思い出すよ。我儘で、言うこと聞かなくて、可愛かった」

「今と一緒じゃないのよ」

「そうだね」

すごく近くに居る兄さんを振り仰ぐと、酷く優しい顔で私を見ていた。

だから。別れると決めてからそんな優しい顔しないで。

袖で流れそうになった涙を押さえる。

拭けば拭くほど溢れ出て来ようとするので、目元全部を腕で覆うと、兄さんが笑った。

「前見えないだろう?」

「腕退かしたって、見えないもん」

「泣きすぎだよ」

私の手を包む兄さんの手の感触と、兄さんの楽しそうな笑い声が、嬉しくて、切なくて、悲しかった。







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