82 どうぞ頑張って下さい
「おいでだと存じませんで、失礼いたしました」
手にしていた昼食ののったカートを脇に寄せ、頭を下げてドアの近くに控えた。
「良い。入れ。ここに来い」
昨日兄さんに無体を働いた前王太子が、兄さんが座っているはずのソファからふてぶてしく命令した。
兄さんを後宮に入れたのがあんたでも、ここはあんたの部屋じゃないでしょう。
兄さんの務めの相手があんたでも、ここは王の後宮で王の部屋よ。
顔を伏せながら部屋の中に進むと、男が笑った気配が感じられた。
今日は爽やかな仮面を被る余裕が有る様だ。
「またその態度か。本当に腹の立つ娘だな。顔を上げろ」
案の定、以前図書館で見た通りの真意の見えない精悍な笑顔があった。
「斬られるのが不安か。では、使用人ではなく、シバの友人として話せ。それなら良かろう?」
恭しい態度と顔を作ることを止めて、男を見下ろし答えた。
「分かりました」
「シバと同類か。素直な兄とは似ても似つかぬな」
笑んだままの男がソファの背に両腕をかけて偉そうだ。
「素直な兄を傷付けたことを謝りにいらっしゃったんですか?ご空腹でいらっしゃいましょう?こちらに使用人と陛下以外の食事を用意することは出来かねます故、兄との話がお済でしたらお引き取り下さい」
「済んだと思うのか」
男が鼻で笑った。
「すぐにお済になったでしょう?兄があなたに援助を受けている以上、あなたは兄に何をしたとしても許されるに違いありませんから。兄が胸の内で何を思っているのかは知りませんけれど」
男が馬鹿にした目を私に向けている。いくら笑みを浮かべていようとその位は感じ取れる。
私がどれだけ兄さんのあの笑みを見て来たと思う。
「ご心配には及びません。兄だけではなく私や幼馴染親子までもがあなたに援助を受けて来たのも分かっています。今もここで何不自由なく過ごさせていただいています。昨日のことで敬意は失いましたけれど、あなたに感謝はしています」
男が面白くなさそうに笑った。
「俺はあいつの妹を養っていたんだ。お前のはずではなかった」
「それは申し訳ありませんでした」
図書館で私の髪色に目を留めていたのは、嫌悪ではなく驚きからだったのだろう。
この男は話に聞くだけの妹が、兄さんと血の繋がりがないと、あの時初めて知ったのだ。
兄さんが私の為だけに自分を犠牲にして生きていると知っていたのなら、本当の兄妹ではないと気付いてさぞ複雑な心境だっただろう。
「血について知ってはおるようだな」
シバに聞いたと言って良いものなのか判断がつかず、ただ頷くにとどめる。
ジュジュの意を教えられた時を思い出す目で、真っ直ぐに私を見た男が低く呟いた。
「どうせ兄とも思っておらぬのだろう」
男として見ているのだろうと言う意味に違いなかった。
自分が兄さんを好いているからと言って、何とも嫉妬深い事だ。
「大切な兄です。何度昨日と同じものを見せられようと、何も変わりません」
白々しくとぼける私に、微笑みを浮かべる男の目が苛立ちを滲ませた。
「己の為にその大切な兄が苦しんでいる姿を目の当たりにして、露も動じぬとはな。何が大切だ。お前の非情さには虫唾が走るわ」
誰が無駄に苦しませてるのよ。馬鹿じゃないの?
「見せられずとも私の為に兄が苦しんできたことは分かっていますから、今更何をどう動じれば良いのです。あなたと兄が寝室に居たからと言って、あなただけに特別に腹を立てることも有りません。兄を抱く男はあなただけではないでしょう?」
笑みながら目元を引き攣らせた男に胸がすく。
「私があなたに腹を立てているのは、あなたが兄の信頼を裏切ったからです。昨日もお伝えしたでしょう?」
腹立ちで自分がとんでもない笑みをこぼしている気がした。
「黙れと言ったはずだ」
「おっしゃいました?申し訳ありません。大切な兄のことで取り乱していたので忘れてしまいました。私なんかに言われずともご自分が一番良くお分かりでしょうね。失礼しました」
男がついに笑みを歪め、ソファの背から腕を降ろした。
斬られるかもな。
まあ、良いか。兄さんはこの男に愛されてるし、この男も反省しているとシバが言っていた。
この男が今後兄さんの信頼を裏切る事はない気がした。
私が居なきゃこの男も落ち着いて、兄さんにもまずまずの平穏が訪れるのかも知れない。
お金持ちで、権力者で、兄さんを愛している。
兄さんが男に対して抱く気持ちが恋情ではなくても、少なくとも、信愛の情はあったはずだ。
それを自ら台無しにするような愚行を演じたこの馬鹿な男に腹が立って堪らなかった。
「兄はあなたと穏やかに暮していけるはずではなかったのですか。あなたの思いに兄が応えるのかどうかは知りませんけど、あなたはそのままの兄を受けいれるつもりでこちらに移されたのではないのですか」
シバに匂わされるまで気付かなかった私もこの男と同じく馬鹿だった。
兄さんがあの荒んだ地のあくどい娼館をあっさり出られたのも、この男のおかげに違いない。
兄さんがこの男を選び、この男が兄さんに応え身請けをしたのだろう。
兄さんがあの生活を終え、ここにこの男が居る。それ以外に考えられなかった。
「黙れ。あいつがここに居るのはお前の為だ」
低く私を威圧する男に睨み上げられる。
「知っています。ですが兄はあなたに頼り、あなたを信じてここに居た。それを裏切ったのはあなたです。兄のこれからをどうしてくれるのです」
そして兄さんのその行為の全ては、私を王都へ連れて来る為だったのだろう。
男が言い返さず、笑みも浮かべずに私を見据えていた。
その間に努めてゆっくりと息を吸うと、少しだけ落ち着いた。
「まあ、私が思うほど、兄が昨日の事を気にしていなければ、きっとあなたも信頼を取り戻せます。そうですね、気にしていたのは結局私の方かも知れません。兄の幸せの為にどうぞ頑張って下さい」
本人に確認した訳ではないが、昨日の様子からはどう考えても、兄がこの男を恋情を向ける相手として愛しているとは思えない。
兄さんから友情以上の思いが返ってこないのはあなたには苦痛でしょうけれど。
頼る相手として兄さんに選ばれたのだから、そのくらい耐えろと嫉妬とも言える嫌な気持ちで見下ろしていると、男が笑った。
「取り戻せる程の信頼など元からあるはずもない。あいつは元より俺の下になど来るつもり等ない」
そう思いながら自ら利用されてきたのだろう。本当にとんだ阿呆だ。
溜息がこぼれた。
「大丈夫ですよ。今はもうどうだか知りませんけど、兄はあなたを信頼して好いてました。あ、友情以上のものが有るかどうかは知りませんよ。それは本人に確認してください」
馬鹿らしくなってそう言うと、男がまた苛立ちを見せた。
面倒臭い。しつこくて暗くて、自分を見ている様で非常に嫌な気持ちだ。
シバやジョエの明るさと足して分け合えればいいのに。
なおも反論しかける男を邪険に手で制した。
本当にいつ斬られてもおかしくないな。
「シバ様の事を兄に話した時、あなたの信頼する人間だから大丈夫だと言っていました。あのしつこく用心深い兄が、見たこともない人間をそれだけで信用しているのです。あなたに絶大な信頼を寄せていなければ絶対に出ない言葉です」
男が口を噤んだ。
私は何をやっているのだろう。この男を喜ばせて何か良い事がある?
ああ、兄さんを幸せに出来る可能性がこの男に有るからか。
「何年も前のことですが、妹からの手紙を読んで欲しいと頼まれたことはありませんか?」
無言のままの男は私を見据え動きを止めていた。有りそうだな。やっぱりこの男の事だった様だ。
「優しい人に読んでもらっていたと言っていました。兄が客の話をしたのはあの一度きりです。どう見ても、優しいと口にした兄にあなたへの嫌悪感はなかったし、兄の口をついて思わず漏れ出てしまったあなたは、大好きな友人か兄の様な印象でした」
男は未だ口を開かない。
そのくらい理解して兄さんを受け入れたのだろうと思いたかったが、やはりそうではなかったようだ。
ただ利用されているだけだと感じながら、兄さんを愛してきたのだろう。
呆れるほどの愛なのかも知れない。
完全に表情を失くした馬鹿で可哀想な男に、もう一度溜息を吐いた。
「兄は辛い生活の中であなたの存在に救われていたと思います。その事でもあなたには感謝しています。どうぞ、昨日のような兄の望まぬ行いは二度となさいませぬよう。兄が数少ない信頼のおける人間を失くしてしまわぬよう、お願い致します」
感謝の意を込めて、深々と頭を下げてみた。
寝室に立てこもっているのだろうと思っていた兄さんは、驚くことに外から戻って来た。
「あれ!?そっち?え、何処に居たの、兄さん」
男が部屋を出て行った後も閉ざされたままだった寝室と、兄さんが入って来たドアを見比べていた私に兄さんが笑った。
「彼が出て行かないから、僕が庭に出てた」
比較的柔らかな表情に、庭のおかげかと納得する。
「そう。庭までついて来なくて良かったね」
「君とも話したいみたいだったからね。謝ってた?」
ぶんぶんと首を振った。
私と二人で会わせようと思うくらいだし、男は完全に兄さんの信頼を失ったと言う訳ではなさそうだ。
あんな事をされて、あれ程嫌がっておいてたった一日でこの表情だ。兄さんがあの男に恋情ではなくともある種の好意を持っているのは疑いようがない。
それか、もしかしてあの男に斬られてしまえば良いとでも思われていた?
頭をかすめた暗い考えを振り払う様に、努めて明るい声を出した。
「いや、全く?態度悪かったよ?こんな感じで」
丁度ソファに座っていたので、男の真似をして背もたれに両腕を掛け、足を組んだ。
「イリ、背が足りてなくて何か変だよ。そして行儀が悪いから止めなさい」
組んだ足を、ぽいと払って降ろさせた兄さんが、私の隣端に腰を降ろした。
「ねえ、イリ。食べ物残ってる?流石にお腹空いた」
外の空気が身体の中に残っているのか、やけに素直だ。
「置いてあるわよ。準備する」
部屋の端に寄せてあったカートを取りに行く為に立ち上がった。
「ありがとう、イリ 」
兄さんに背を向けてから震える息を吐く。
どうして『ジュジュ』を止めちゃったのかな。
何かが変だ。
何かが変わってしまう気がして、何故かとても悲しかった。
「ご飯の時間には部屋に居てよ。これ以上お腹減らしたら兄さん死んじゃうわよ?」
兄さんが食べているのを眺めながらソファから呟くと、こちらを見もしない横顔がいつもの様に微笑んだ。
余計な事を言ったせいで、せっかくの外出後のご機嫌も終わりの様だ。
「散歩もしたし、いつもより少しは食べてよ」
返事は期待してもいなかったが、予想に反して兄さんが小さく答えた。
「そうだね。そろそろ食べても良いかも知れないね」
相変わらず笑みながら、酷く冷たい声だった。
兄さんはこれまで口にしていなかった肉も魚も一切れとして残さず、全ての料理を平らげた。




