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80 別に構わんぞ

洗濯室に布類を運び、寝具の交換をお願いして部屋に戻ると、兄さんは寝室のドアを閉めてしまっていた。

まあ当然か。私の顔なんか見たくないよね。

兄さんがいないソファにべったりと身を静めて息を吐いた。

兄さんがいつももたれている方じゃない肘掛けに顔を埋めて、もう一度溜息を吐く。

私の為にしてくれた優しすぎる行いの為に、兄さんが穢れることなんかないって言いたかっただけなのにな。

だけど、落ち着いて考えてみれば、兄さんが自分の事を綺麗だと認めない気持ちは、良く理解出来た。


さっき頑なな兄さんに対して、今回の事に限って言えばあの男は兄さんを愛しているのだから大して汚くもないでしょうと、ちらりと頭をかすめた。

兄さんがあれ程自分を蔑む必要はないと。

けれど、私だって同じだ。

あいつも私に対して好意を持ってはいた。

幼く、傲慢で、身勝手で卑怯だったが、あれも好意ではあった。

相手が好意を持っていたとしても関係ない。自分自身が望んでいない人間にさわられ良い様にされた身体を、今更綺麗だなどと、私だって思えない。

良く分かっていた事だったのに。

兄さんに考えを改めさせることに躍起になるべきではなかった。

それより必要だったのは、私が兄さんを穢れた者として見ていたと、兄さんがそう信じて傷付いていたことに対して、ちゃんと謝る事だった。

思い出した腹立ちまぎれに、本当に余計な事を言ってしまった。

兄さんが物の様に扱ってきた女達の事を思い出して、我を忘れてしまったのかも知れない。

我知れず、当時から嫉妬の様な感情も持っていたのかも知れない。


自分の失敗に対するやるせなさと、もう一度思い出した腹立ちに、溜息を吐く。

私がここで男にどうにかされることを異様に心配していたけど、自分が馬鹿男の代表じゃないのよ。

辛い生活に捌け口が必要だったのだろうと思う。だからこそ嫌悪しながらも見て見ぬ振りをしてきた。

暇な女達が私を罵り蔑みにわざわざやって来なければ、私を苛める奴らの口に兄さんの蔑みがのぼらなければ、兄さんの荒んだ女関係を知ることなどなかった。

会話もせず、顔を合わせてすらいなかったのだから、兄さんの生活など他人から聞く以外に知り様がない。

まさか私が知らないとでも思っていたのかしら。兄さんも女達から私が罵られていたと知らなかったのかしら。

そんな事はないだろうな。やっぱり、シバや私が感じる様に、そのくらい耐えろと思われていたのだろう。

現にさっき私がそう責めた時、兄さんは酷い顔をしていた。


もし、ここに来る前の1年ほどの間私があいつから受けていた暴力のことを、兄さんが知っていたら。

学校内では周知の事実だったとしても、あいつが無い事としていた苛めの対象である私との性的な行為を、将来を潰される覚悟で外で言い触らす馬鹿な人間もいないはずだ。

兄さんが知っていたということはないと思う。

現に、伝われば即座にあいつを殴りかねないジョエが知らない。

でも、もし兄さんが知っていたとしても、放置されていたのだろうか。

目頭が熱くなる。

そうだとしたら、耐えがたく辛いな。

慌てて瞬いて、闇に落ちて行きそうなそのどうしようもない疑問を振り払おうと、無理矢理意識を他にやろうとするが、やはり頭に浮かぶのは兄さんの綺麗な顔だった。


化粧のない兄さんの素顔を久しぶりに見た気がする。本当に恰好良かった。

息が止まりそうだった。

いつもの嘘くさい笑顔じゃない表情も沢山見られたな。

本当の表情を見せてくれて、凄く綺麗で、凄く魅力的だった。

本物の笑顔はなかったけれど、笑ってなくたって、嘘くさい顔ばかりよりマシに違いない。

兄さんがいつももたれている肘掛けをぼんやりと眺めながら、そう自分に言い聞かせては見たが、散歩中に見た切なくなるような楽しそうな笑みや、私を見て細められた綺麗な薄青の目を思い出し、堪え切れず涙が頬を伝った。




「また喧嘩か」

目を腫らして不貞腐れる私を見てジョエが呆れていた。

兄さんはジョエが声を掛けても部屋から出てこなかった。

「お前の方が簡単だな。飯持ってくれば出て来るからな」

失礼なことを言うジョエを無視して、兄さんの食事をのせたカートを押しやった。

「これ中に入れて来て。兄さんこれ以上食べる物減らしたら病気になる」

「ってお前が言ってるってことは、お前がアレに腹立ててる喧嘩じゃねえんだな?」

「兄さんが立てこもってるんだから当然そうでしょ」

ふくれっ面でそう言うと、ジョエが私の頬をつねった。

「お前らは喧嘩の原因をしゃべんねえから、分かり辛れえんだよ」

眉を寄せた、いつも能天気なジョエらしくない表情に、少し寂しくなる。

「良いのよジョエはそんな事気にしないで。…ここに居てくれたら、それで良い」

そう。それで馬鹿笑いしてくれてたら良い。

優しい顔で笑ったジョエが、私の頭をぽんぽんと叩いた。

「居るだけで良いなら簡単だな」

「嘘ばっかり。殆どいないじゃん」

ジョエが膨れる私の首を脇に締めて、がははと笑った。

暗く淀んで今にも破裂しそうだった胸の内のもどかしさが、ジョエの熱い身体に吸い取られ溶かされながら澄んでいく様だった。



普段兄さんの席となっている私の向かいに腰を下ろしたジョエが、食事を取る私を眺めていた。

「兄さんどんな感じだった?」

「どんな?まあ、苛々してんじゃねえか?」

そうなんだ。

「ふうん」

テーブルに頬杖をついたジョエが、相変わらず私を眺めている。

「何よ?」

何時になく静かなジョエを怪訝に思い尋ねると、変な顔をしたまま答えた。

「何かおかしなことは言ってたぞ」

「え?」

「お前を女として見られるなら、引き取って出て行けだとよ」

飲み込もうとしていたご飯が喉に詰まり、むせた。

「は、はあ?」

「汚えなあ。無理なら良いとは言われたけどよ。何だありゃ。近いうちにここから出る気か?そんならそれで仕事見つけなきゃならんからな」

「そ、そうね」

ジョエに私を押し付けようとしてる。


ジョエがこっそり落ち込む私を、またじっと見ていた。

私が眉を寄せると、身体を起こして腕を組んだ。

「俺は別に構わんぞ」

「え?」

「お前が良いんなら一緒になっても良い。女に見えん訳じゃねえし」

は!?

仰け反って驚きを顕にした私を、ジョエが笑った。

どう見ても求婚を断られて落ち込んでいる人間の笑顔ではない。

「やっぱそうだよな!まあ俺も起たねえことはねえけど、どっちかと言えば妹だしな。お前もそうならわざわざ俺らが一緒になる必要はねえな!」

大声でがははと笑うジョエを遮った。

「うるさい。大笑いするとこじゃないでしょ。じゃあ何でそんな事言いだしたのよ。びっくりするじゃないのよ」

「アレがあんな事言うから、お前が俺に惚れてんのかと思ったんだよ。まあ、それならそれで、お前でも良いし」

溜息が出た。こんなのに惚れてたなんて、自分が情けなくなる。

「適当ねえ。そんなんで良いの?」

「他の女よりは好きなんだから良いだろ?まあ妹だけどな。それにお袋とお前、相思相愛だから面倒がねえだろ」

呆れるけど、まあ嬉しくもあった。一応、一生を添う相手が私でも良いって言ってるんだもんね。


「私も好きよ。おばさんもジョエも大好き。まあ、お兄ちゃんとしてだけどね。後、私はジョエには興奮しない」

ジョエが再び馬鹿笑いした。

ジョエの大声に呆れながらも安心した。

間違いない。これも私の兄だ。幼馴染で大好きな優しい兄。

好きの種類で言っても、もたらされる半端じゃない安心感から言っても、こちらの兄の方が、本当の兄さんみたいだと思った。

じゃあ、そこで私を拒絶し、立て籠もっている兄は。恋しくて恋しくて、堪らない方の兄は、私の何だろう。






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