76 今ですか?
「ごめん。ジュジュちゃん」
図書館の棚の間から現れたシバが申し訳なさそうな顔をしていた。
「あ、シバ様。第一声がごめんって。どんな悪いことをなさったんですか?」
シバが私を手招いた。
窓際の人気のない場所に誘導され、首を傾げる。
「小声でね。使用人と親しくしてる所を人に見られると、私の頭が正常かを疑われるんだ」
「想像を上回りますね」
シバがにこっと笑った。笑う所じゃないし。
「ではどうしてこんな所に?私にお急ぎのご用ですか?」
シバが微妙な顔をして頷く。
「うーん。そうなんだよね。面倒臭いことになっちゃって」
シバが珍しく溜息を吐いた。
「面倒な奴がね、」
窓際の背の低い棚に、腰掛ける様にもたれて腕を組んだシバが、うんざりした顔で言葉を切った。
「城が不自由なあの方ですか?」
「…そう。感が良いね、ジュジュちゃん」
「が、どうなさったんですか?」
嫌な予感がするが、聞かない事には何も分からない。
「ジュジュちゃんを、部屋に戻らせろって言っててね」
眉を寄せる。
「今ですか?」
「そう。今」
腕を組んだシバが困った顔で私を見た。
「シバ様は戻らない方が良いと思ってらっしゃるんですか?」
「そうだねえ。きっと嫌な思いをするだろうから、戻って欲しくはないけど」
言いよどむシバがもどかしく、こっちから尋ねた。
「私と話がしたいなんて穏やかなことじゃないんですよね?」
「そうだと思うな」
シバが苦笑して頷く。
「今すぐ私が戻らないと、兄さんが長く辛い目に遭わされることになりませんか?」
シバが軽く目を見開いた。
「聡いね。しかも否定できないし。もしかして君、全部分かってる?」
シバの言葉が心外で、頬を膨らませた。
「分かってる訳ないでしょう?誰も何も教えてくれないんですから。そうかなと思っただけです。じゃあ、戻るしかなさそうですね」
「大丈夫?」
シバが私の顔を覗きこむ。仏頂面をしている自信がある。
「多分大丈夫です。後宮に入る以上、当然、覚悟して来てますから」
しばらく私を見ていたシバが、苦く笑った。
「そう。君は、私が思っている以上に強くて賢くて、愛情深い人だね。君に思われて彼は幸せだな」
シバの過剰な称賛に、顔を緩めて微笑む。
「本人はそう思っていないと思いますけど、嬉しいです。それで、どうして今日だったんですか?」
シバがもう一度申し訳なさそうな顔をした。
「ウィゴ様が誘導されて喋らされてね。君が勉強会で楽しくしてるのと、君らが仲良くお散歩しているのが伝わっちゃったんだよね。で、何故だか切れちゃって。何か胸のうちも複雑みたいでさ。彼への思いと、君への苛立ちとみたいな」
「そうですか。本当に大人げない方ですね。では、戻りますので」
シバが心配そうな表情を向けていたが、大丈夫だと目で返してその場を後にした。
内心身体の芯が凍り付く様な心地で、足が震えない様に歩く為必死だった。
シバの知り合いだと言う、兄さんを後宮に入れた人間と、城が不自由な奴はどう考えても同じ人間だ。
そして恐らく、あの男だ。
部屋に戻りドアを開けると、定位置のソファに兄さんの姿はなかった。
勿論あの男の姿も。
私をお望みの面倒な男は、私にここで待っていて欲しい訳ではないだろう。
一度立ち止まると、二度と勇気が出ない気もして、ここまで長い通路を走って来た勢いのまま部屋の奥まで進み、兄さんの寝室のドアを開け放った。
抵抗する叫び声の余韻が残っている薄暗い部屋には、大きな男の後ろ姿が、ベッドに片膝を乗り上げ傾いていた。
ゆっくりと身体を起こした男が、私を振り返った。
予想通り、図書館で私の髪色に目を見張り、『ジュジュ』の意味を教えたあの男だった。
「ああ、悪いな。取り込み中だ」
飄々とした顔のまま必要以上に身体をずらしたその男の前に、押さえつけられうつ伏せにされた兄さんの背中の色が見えた。
「見るな!出てろ!」
私と目が合った瞬間、聞いたことのない怒鳴り声を上げた兄さんが、クッションを投げつけて来た。
私の身体をかすめ後ろのドアにぶつかったクッションが、足元に転がる。
「出て行け早くっ!やめろっ!死ね、くそっ!」
私が外に出るのを待たず自分に圧し掛かろうとする男に、兄さんが暴言を吐いて次のクッションを叩きつけた。
男は大きな身体を傾け兄さんを押さえつけた。




