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66 拭いてくれるの?

「雨だねえ」

大きな窓から薄暗い空を見上げて呟いた。

ここに来た日から数えて初めての雨が、昨日から降り続いていた。

「長く降っていなかったからね。少しは降らないと何もかも乾ききってしまうよ」

ソファにもたれ新しい本を眺めていた兄さんが、誰へともない私の呟きにそう答えた。

雨の日はどうするのか、シバに確認していなかったなあ。


「まさか出るつもり?」

部屋の各所に散らばっていた本や筆記具などを集めていると、兄さんに笑顔で非難された。

「駄目だよ、ジュジュ。君、今日調子良くないだろう?」

確かに、昨日濡れた後すぐに着替えなかったせいか、喉が痛かった。

兄さんは先ほど終えた朝食で、私がご飯を飲み込み辛そうにしていたのに気付いたのだろう。

でもそれだけだ。

「何ともないわよ。濡れたくらいで体調崩したりしないし」

そう言うと、私と同じく出る支度をしていたジョエが笑った。

「確かにな」

「ジョエと同じ身体の作りのつもり?」

いや流石にそんな事は思わないけど、喉が痛いくらいで部屋に籠る使用人などいない。

まあ、仕事に行く訳でもないけど。

「傘を持って行くから大丈夫よ。屋根もあるし。しばらく待ってシバ達が来なかったら戻るわ。来ないにしてもきっと知らせはあると思うし」

「本当に言うこと聞かないね?ジュジュ。肌は出すんじゃないよ」

兄さんが冷たく微笑んで私に釘を刺した。

「はいはい」

適当に答えて、部屋を出た。


うーん、気持ち悪い。

長い裾をそのままに濡れた小道を歩いているので、勿論裾も靴も濡れた泥まみれになっていた。

ユールの人はどうしてるんだろう。雨の日用の服とか、靴とかがもしかしたらあるんじゃないのかな。

それか、雨の日は腰の所で滅茶苦茶端折って帯を締めるとか。

まあそうだとしても、足が出るのは兄さんが駄目だって言うから出来ないけど。

地面に足を付けるたびに不快な感触と音が生じる。

やっぱりこんな日にまで来なくても良かったかな。

ウィゴもシバも、この悪天候では私が東屋を訪れなくても責めはしないだろう。

でも、もし二人が来るなら会いたいもんなあ。

毎朝の勉強会が、自分でも気付かぬうちに余程楽しみになっていたようだ。

二人に会うのが楽しみなのだと認めるしかない。

明るいシバや可愛いウィゴと話していると、辛かったり悲しかったりする気持ちが癒される。

雨で暗い室内に、兄さんと一日閉じ込められるなんて、緊張と気づまりで窒息してしまいそうな気がした。

せめてジョエがいるなら良いんだけど、どうせいないもんね。

足元が気持ち悪いのは我慢して、やはり東屋を目指して歩き続けた。


「お早う、ジュジュちゃん」

読んでいた本から顔を上げると、肩を濡らしたお兄さんが立っていた。

少し照れくさそうな顔はしていたが、赤くはなかったので安心した。

「お早うございます。雨で大変でしたね。お城からは遠いですものね」

「うん。シバ様に確認しようと思ったんだけど、既にいらっしゃらなくて。一応来てみる羽目に」

お兄さんがベンチに腰を降ろしながらそう言って笑った。

「あ、タオル使われます?肩が濡れてますよ」

持って来ていた大き目の手拭いをお兄さんに差し出すと、嬉しそうに笑ってくれた。

「ありがとう」

「いいえ。大丈夫でした?」

「え?」

肩を拭っていたお兄さんが不思議そうに私を見た。

「昨日より、いらっしゃる時間が随分遅かったから。途中で何かあったのかなって」

お兄さんが困った様に目を泳がせ、お兄さんの訪れがゆっくりだった理由を悟った。

「あ、すいません。私の為ですね。ごめんなさい。気付かなくて」

きっと、昨日の今日なので、私がお兄さんと二人きりの時間に気まずい思いをするだろうと気遣ってのことだったのだろう。

「いや、謝らないで。君の為と言うより、僕がほら、ええと、また動揺して赤くなったりしたら、気持ち悪いだろう?」

お兄さんの慌てた顔がとても可愛く見えて、微笑む。

こんなに可愛いのに王子の教師に指名される程賢いんだもんなあ。

とっても魅力的な人だと思う。

「そんな事ないですよ。あれは全部シバ様のせいですから。本当に人をからかうのがお好きですよね」

笑顔で答えた私に安心した様に、お兄さんが身体の緊張を解いてベンチの背にもたれた。

「そうだね。でも、君凄いねえ」

「え?」

首を傾げると、私からさりげなく目を逸らされた。

「シバ様にあんなに接近されて平然としてるんだもの。見習いたいよ」

「そうですか?動揺はしてるんですけど、あまり表に出ないみたいで。でも、可愛い反応すると、シバ様もっとからかいたくなっちゃうみたいですから、お兄さんも聞き流した方が良いですよ」

お兄さんが情けない顔を私に向けた。

「無理だよ」

年上のお兄さんの正直な表情が面白くて、声を上げて笑ってしまうと、お兄さんが一層情けなさそうな顔をした。



シバとウィゴも程なくやって来た。

「ああ、来てるね二人とも。ジュジュちゃんは雨だから姫様に出して貰えないんじゃないかと思ったよ」

シバがにっこりとそう言う。

「はい。駄目だって言われましたけど、出て来たんで、怒ってます。戻るの怖いです」

シバが噴出して、私の頭をぽんぽんと叩いた。

「来てくれてありがとう。ウィゴ様も私も嬉しいよ。ね?ウィゴ様」

ウィゴがシバを睨みながらマントを脱ぎ、それをシバに押し付けた。

「ウィゴ様お早うございます。どうしてそんなに濡れてるんですか?」

すでに立ち上がっていたお兄さんから手拭いを受け取り、腰かけたウィゴの頭にそれをかぶせてごしごしと拭いた。

「ノエがお前に礼をと言っていた」

私の手の中で揺れている頭から、布を通してくぐもった声がする。

「いいえ。結局うろうろしたばかりで何の役にも立っていませんし。ノエ様はとても優しくて可愛らしいお方ですね」

そう言うと、しばらく間があった。

「…うん」

シバを見上げると、苦笑していた。

「ウィゴ様は、ノエが男だったら良い友になれていたのではないかと残念なんだ」

「成る程。性別は如何ともしがたいですね」

そうだなあ。可愛くて性格の良い女の子と仲良くしてたら好きになっちゃうかも知れないもんなあ。

ウィゴの近くにノエの様な優しい子がいて嬉しかったはずだったが、またウィゴの事がほんのりと不憫になって来た。


「馬車で来られなかったんですか?」

気を取り直して、布の隙間から覗いたウィゴの茶色の目に尋ねた。

頭と足元はずぶ濡れだけど、マントのおかげで身体は無事の様だ。

「馬で来た」

「脱走中に馬車で動いたら変でしょ?追いかける役の私が御者席にいる訳にもいかないし」

まだこの時間は脱走中扱いなんだ。

「そうなんですか。まあ走って来るよりはマシですよね。早く着くし」

ウィゴの頭から布を降ろすと、湿って色を濃くした髪の毛がくしゃくしゃになっていた。

可愛さに頬が緩む。

指で髪を梳いて、撫でつけた。

「熱を出さないで下さいね?ウィゴ様」


「出さない出さない、これくらいで。ウィゴ様は元気が取り柄だからね。ジュジュちゃん、次は私でしょう?」

背後からシバに腕を引かれ振り返ると、にっこりと笑む綺麗な顔があった。

「シバ様は大して濡れてらっしゃらないでしょう?足を拭いて欲しいんですか?」

シバが酷く濡れているのは足元だけだった。

ウィゴはマントのフードを上手くかぶれなかったのだろう。

「拭いてくれるの?何か興奮しそうだな。ジュジュちゃんがそのうんざりした顔で地面に跪いて私の足を拭うなんて」

面白そうに笑うシバが割と本気で変態に見えた。

「シバ!」

「僕が拭きます」

ウィゴとお兄さんの声が重なる。

「お兄さん。聞き流して良いんですよ。誰も拭かなくていいんです。ウィゴ様に叱られて、シバ様はご自分でなさいますから。ウィゴ様、ズボンも拭いておきましょうか。寒くないですか?」

完全にウィゴに向き直った私の背後で、シバが不貞腐れた声を出す。

「ジュジュちゃん、私の扱いが雑すぎるよ?一応王族なんだからね?」

ウィゴがシバに勝ち誇った顔をした。

「ジュジュは威張る奴が嫌いだ。お前もう駄目だな」

「ちょっとウィゴ様まで。何だよ。もう無礼講止めようかなあ」

シバが呟き始めた。


ウィゴの隣をお兄さんに譲り、シバの方を振り返った。

「シバ様。勉強始めますから大人しくなさってて下さい。今日は剣の鍛錬はなさらないでしょう?」

シバの頭に布をかぶせてから、濡れていない頭をぽんぽんと叩いた。

布をおろすと、シバが面白そうに笑っていた。

「これで良いですか?」

「良いよ。ありがとう、ジュジュちゃん。今日は君の勉強は私が見てあげるよ」

「え、結構です。お兄さんが良いです」

「駄目。私を邪険に扱った罰だからね」

「ちゃんと拭きましたよ。良いっておっしゃったじゃないですか」

「良かったね。ちゅうの刑じゃなくなって」

にっこり笑う楽しそうなシバから目を逸らし、お兄さんを見た。


「駄目でした。流そうとするともっと面倒になりますよ。気を付けてください」

お兄さんが真剣な顔で頷いた。

「そこ。こそこそしない。ウィゴ様。ジュジュちゃんとどちらが沢山問題を解けるか競争ですよ」

「ウィゴ様、席代わりましょうか」

ウィゴに訴えていると、シバに襟首を掴んで引かれた。

「往生際が悪い。さっさと始めるよ」


シバの授業は、心配していた甘いからかいなど一切なく、只厳しくて嫌味っぽくて意地悪だった。

わざとだとしても、優秀だとしても、酷い教師だ。

二度と教わりたくなかった。








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