65 だって、今更
「ジュジュ、起きて」
身体を緩く揺すられて目が覚めた。
滑らかな肌触りのテーブルに頬をくっつけて寝てしまっていたようだ。
そのままぼんやりとしていると、視界に兄さんの顔が現れた。
綺麗。澄んだ空色の目を囲む褐色の長い睫毛一本一本まで良く見えた。
「ジュジュ」
間近で呼ばれ、一気に目が覚めた。
がばりと起き上がった私を、兄さんが呆れた様に見ていた。
「雲行きが怪しい。戻るよ」
空を見上げると、確かにどんよりと濁った色の雲が集まり始めていた。
テーブルの上は既に整っていた。
確かおやつを食べて、お腹一杯になって、うとうとしながら耐え切れなくなったのだ。
カップもおやつも勉強道具も出しっぱなしだったはずだが、兄さんが片付けてくれたのだろう。
考えていると、頬に柔らかい布がふれた。
兄さんがおやつの籠にかけられていた布で、私の頬を拭っていた。
「な、なに?」
仰け反ると、冷たく笑われた。
「よだれでべったりだよ」
う。恥ずかしい。慌てて袖で拭おうとすると、兄さんの手が私の腕を押さえてもう一度布で頬を擦られた。
どくんどくんと鳴る自分の中の音を聞きながら、私の顔を拭う兄さんの顔に見入っていると、兄さんが布をぽんと籠の上に載せた。
「はい。もう良い。行くよ」
「うん」
本を手に立ち上がった兄さんに続いて、籠を持って歩き出した。
東屋を出てすぐに、ぽつぽつと雨粒が落ちだした。
「ああ、間に合わなかった」
兄さんが私を振り返り、手を差し出した。
分からずに兄さんの顔を見上げると、ちょっとだけ口角を上げた兄さんが、私の手から籠を取った。
「本が濡れるから」
そう言って、空のカップの上に紙類を敷き、その上に本を置いて、最後に布をかぶせた。
「急ぐよ。ジュジュ」
立ち止まっていた私に向かってそう言うと、兄さんは籠を手に持ったまま、足早に小道を歩き始めた。
雨足はあっと言う間に強まり、濡れた土で汚さない様気を付けながら急ぐには、踵まで届く長い裾がとても鬱陶しかった。
「ああもう!濡れちゃう!」
前髪を伝い目元に垂れて来た滴を手の甲で拭っていると、少し前を行っていた兄さんがこっちを振り返って目を見張った。
「ジュジュ!」
私を呼びつけながら戻って来た兄さんは、私が片手に掴んでいた服の裾を強く引いて降ろさせた。
「服は汚れても良い!脚出さないで!」
拳骨されそうな勢いで雷を落とされると、強く手を掴まれた。
「さっさと歩いて!」
乱暴に手を引かれて、段々強くなる雨の中を歩いた。
建物の中に入り手は離されたが、兄さんは私を無視したままで部屋までの通路を歩いた。
部屋に戻った時には、私は頬を膨らませて、懸命に涙を堪えている状態だった。
笑いながら怒られるのも嫌だけど、怒りを顕にされるのも相当きつかった。
誰もいないところで足くらい何よ。
太腿までだしていた訳じゃない。ちょっと裾を持ち上げてただけじゃないの。
そんなに怒る事ないでしょ。
声を出すと泣いてしまいそうで、私を振り返り溜息を吐いた兄さんに心の中で文句を言った。
「ジョエの気持ちが分かるな」
兄さんが私に片手を伸ばし、膨れた頬をぷっと潰した。
ジョエにされるより痛くはなかったが、兄さんにやられたと言う衝撃が大きかった。
頬を掴まれたまま兄さんとにらみ合う様になっていると、兄さんが目を伏せてもう一度溜息を吐き呟いた。
「もう、いい加減にして」
心底疲れたと言う声だった。
「言っても言っても分からないなら、この部屋に閉じ込めるよ」
え?
「本は借りて来てあげる。この部屋で本を読んでご飯を食べてれば良いよ。もうそれでいいね?ジュジュ」
「良くない」
げんなりした様子の兄さんを見上げると、頬を掴んでいた手で私のおでこに張り付いていた濡れた前髪を乱暴に払った。
冷たさより苛立ちを色濃く映した兄さんの目が私を見下ろしていた。
「誰もいなかった」
声がふるえそうになるのを堪えて短く口答えすると、兄さんが低く答えた。
「シバの兵がいた」
一度唇を噛んで、呟く。
「膝も出てなかったし」
「イリ」
低い声で名を呼ばれ、びくりと身体が震えた。
兄さん怖い。
「しつこいと思ってるのは良く分かるけど、心配なんだよ。君は男を知らなすぎる。君の容姿は只でさえ目を引くんだ。もっと用心するべきなんだよ」
怯えた私に気付いたのだろう。
兄さんが口調を和らげてそう言ったが、目を見ることは出来なかった。
「怖がらせてごめん、ジュジュ。濡れたから着替えなさい」
兄さんが俯く私の頭を撫でて離れて行った。
着替える気にもならず、自室に入るなりベッドに寝っ転がった。
フワフワの布団に凍えていた身体の芯が少し癒される。
溜息が零れ、目元に両腕をのせた。
あーあ。あんなに私の事を心配するのは、私が男を知らないと思っているからだ。
ジョエの心配も恐らく同じなのだろう。
男の事を知らないから、危機感が薄くて油断をしていると思われているのだ。
それで、私の純潔が、その辺の馬鹿な男に汚されるのを二人とも恐れている。
まあそんな事だろうと思ってはいたが、折角の機会に事実を言えなかったな。
私は、自分の貞操などどうでも良いのだと。
兄さんの嘘が城の人間に知られることは生死に関わる大問題だけど、私の身体など、それに比べれば本当にどうでも良い事だ。
男がどんなものかは身をもって知っている。
極一部の善良な人間を除いて、他は皆、低俗で残酷でいやらしくて馬鹿だ。
分かっているが、兄さん程神経質になる必要も感じない。
ほどほどに気を付ければ良い。そう思っている自分は確かにいる。
だって、今更。
もうとっくに、私の純潔は失われているのに。
卑怯で下劣なあの馬鹿によって、数え切れないほどの穢れを受けている。
兄さんとジョエに、あんな風に心配して貰える資格も、必要もないのだ。
そう二人に言ってしまえば、しつこく怒られることもなくなるんだろうな。
でも、子供扱いされ心配される幸せを、もう少し味わっていたかった。
兄さんが心配してくれている。幸せ。嬉しい。
それ以外のことは考えたくないのに、どうしても頭をよぎってしまう。
兄さんにしたって、今更私を心配する資格なんてない。
今まで私の事等、放ったらかしだったのだから。
同じ屋根の下にいたくせに、私がどういう暮らしをしていたのかを知りもしないで、今更。
それでも、やっぱり、兄さんに心配されていたい。
無垢な身体も心も持たないくせに、我ながら図々しい。
酷く悲しかった。




