60 知らない
「あの花の名を知っている?」
ベンチの背にもたれ緑の景色を眺めていた兄さんが、静かな声でそう言った。
兄さんは小さなお菓子を一つだけ口にして、私だけがおやつを食べ続けていた。
こんなにおいしいのに。
お茶を一口飲んで、兄さんの視線の先を見る。
細い茎が健気にピンと立つ、薄紫の星形をした、可愛らしい花が群生していた。
柔らかくそよぐ風に、たくさんの星がゆらゆらと揺れていた。
「知らない。初めて見た」
兄さんが私をちらりと一瞥して、また花に視線を戻した。
「良くある花だよ?見たことはあると思うけど」
ユリの言葉ではなかったので、一瞬兄さんでも注意を怠ることがあるのかと思ったが、小さく静かな声はその為に意図的なものなのだと理解した。
「ここに来るまで、花を眺めることなんてなかったもの」
行きたくもない、でも兄さんの為に行かなければならない学校に通うことに精一杯で、そんな心の余裕もなかった。
「それもそうだね」
兄さんも花を眺める余裕等なかったのは同じだったのかも知れない。
花を眺める横顔は、酷く懐かしそうなものだった。
胸がどくんと音を立てる。
動悸が激しくなる合図だ。
「何という花なの?」
気を紛らわせる為に話しかける。
「知らない」
はあ?知ってるような口ぶりだったのに。
兄さんが眉を寄せる私を横目で見て、面白そうに笑った。
その珍しい兄さんの自然な可愛い笑顔に、努力もむなしく、あっという間にどくんどくんと体中が鳴り出した。
「知ってるんじゃないの?」
花に目を逸らし、一生懸命平静を装って声を出す。
「この国の言葉では知らない。君の名と同じだよ」
「え?」
思わず兄さんを見やると、まだ私を見て笑んでいた。
兄さんが視線を下げたことで初めて、また兄さんの細められた薄い色の目に見入ってしまっていたことに気付く。
瞬いて息を吸った。
落ちつけ私。いくら兄さんが綺麗でも、流石に見惚れ過ぎだ。
息をそっと吐きながら兄さんの手元を目で追うと、お茶のカップを脇に寄せ、代わりに紙とペンを引き寄せていた。
「あの花の名だよ」
テーブルを滑らされたその紙には、私の知らない短い文字と、その下に、『イリ』と書かれていた。
私の名の由来など初めて聞いた。
これはロウエンの文字なのだろう。
兄さんは私の名をロウエンの文字で書けるのだ。
兄さんを見上げると、もう私を見てはいなかった。
飽きずに、揺れる星の花を見つめ続ける兄さんの綺麗な横顔が眩しかった。
私の名を綴り、同じ名の花に穏やかで優しい目を向けてくれていることが嬉しかった。
でも、その眼差しで私を見てくれれば良いのにと、無性に切なかった。




