59 合ってる?
「今日も散歩に行く?」
食器を載せたカートに手をかけ尋ねると、ソファに移動していた兄さんがこっちに目を向けた。
「図書館にはいかないの?」
兄さんが私を図書館に追い払おうとしているのか、それとも確認をしているだけなのか、もう良く分からない。
「まだ全部は読んでないから。兄さんが新しい本を読みたいなら借りてくるよ?」
兄さんの薄い物語の本はもう少し残っているはずだけど、一人で読みすすめているかも知れない。
「僕は良いよ。今日中には読み終わると思うから、明日これを返却して違う本を借りて来てくれる?」
「うん」
散歩はどうするんだろう。もう一度誘うべきかしら。
でも断りたくて流したのかも知れないし。
緊張で動悸が早まって来たのを感じる。誘いたいな。昨日、兄さん楽しそうだったし。
外に出るのが嫌ってことはないよね。
無意味に部屋に向けていた視線を兄さんに戻す。
「シバ様が、」
既に本に目を落としていた兄さんが、顔を上げた。
「シバが?」
兄さんに笑顔で問われ、冷たい視線に怯みそうになる。
ああ、まだ堪えるなあ。やっぱり兄さんは外に出したい。視線が和らぐし。
「兵を残しておいてくれるって。後宮の衛兵は退かされているはずだから、昨日の様に人に会うこともないよ。ジョエも見かけたら誘って来る。一度食器返してくるから、兄さん準備してて」
喋りながらドアに近付き、返事を待たずに部屋を出た。
言い逃げだ。
後ろ手にドアを閉めて息を吐いた。緊張で胸がばくばくと音を立てていた。
手の平で額を覆うと、しっとりと汗ばんでいた。
最近おかしい。緊張するにも程がある。
とにかく、部屋に戻った時兄さんが外出の準備をしていてくれたら嬉しい。
していなかったら落ち込みそうだけど、まあ良いや。
誘えたことに満足しよう。ジョエみたいに、気にせず落ち込まず、能天気に楽しくかまえていればいい。
なんて出来る訳ないな。ジョエの馬鹿笑いを思い出し、溜息を吐いた。
ジョエは見当たらなかった。
兵舎の方へ行っているのだろうから、後宮内にいるとは思っていなかった。
兄さんだってそうだろう。
再び緊張しながら部屋に戻ると、兄さんが髪を編んでソファにもたれていた。
また兄さんと二人で歩けると思うと、凄く嬉しかった。兄さんが冷めた目で私を見て笑っていなかったら、くるくる回って喜びたかった。
兄さんのあの穏やかで楽しそうな表情を見られる。
小道を歩きながら空を見上げる横顔や、『読めた』と細められる目が思い出された。
「ジョエいなかった。本持って来るね」
兄さんが頷いていた様子だったが、顔が赤くなりそうで急いでソファの後ろを通り抜けた。
自室に入りドアを閉め息を吐いた。
胸がどっどっと音を立てて、頬が熱かった。
窮屈に締め付けられた胸を押さえ、呼吸を整えた。
「それは?」
勉強道具とともにカートに載せた布のかけられた籠を見て、兄さんが言った。
「お茶とお菓子。外で食べられる様に準備して貰って来た。昨日おやつ食べ損ねたでしょ?」
この時間から外でのんびりすると、お茶の時間を逃してしまうのだ。
私がおやつを食べたいと言うのもあったが、只でさえ食べない兄さんが少しでも物を口に入れる機会を減らしたくないのが一番の理由だった。
歩かせるし、少しでも食べさせなきゃ。
外階段へ通じる通路の脇にカートを残し、勉強道具と籠を手に取る。
「重くない?持ってあげられないけど大丈夫?ジュジュ」
兄さんが私を見下ろした。
疑いようもなく私を気遣う言葉が異常に嬉しい。
なのに緊張に笑顔が引き攣り上手く笑えなかった。
「大丈夫。ちょっとしか入ってないからそんなに重くない」
兄さんの顔が見られず、先に階段上のポーチへと踏み出した。
ふわっと暖かい風が吹く。
宮内とは異なる、緑の匂いが心地良かった。
大きく息を吸い込んで清々しい空気を堪能していると、兄さんの綺麗な手が私の胸元へ伸びて来た。
見上げた兄さんの優しい目にどきりとして、息を飲む。
「じゃあ、自分の分は持つね」
人気もないのに用心深くユリとして話す兄さんが、私の胸に抱えられた本を抜き取る。
兄さんの視線と身体が自分から離れ、ようやく息を吐くことが出来た。
確かに、姫がおやつの籠を持つよりは本の方がまだ自然だ。
それにやっぱり、外に出ると兄さんがご機嫌。
先ほどの細められた目を思い出し、嬉しいのと同時に何故か胸がきゅうと痛んだ。
兄さんが書き取った単語に説明を加えていると、手元に別の紙が滑らされてきた。
兄さんの指が添えられているその紙を見ると、ぎこちない文字がたくさん綴られていた。
読み終わった自分の本から、兄さんがたった今まで書き取っていた単語だろう。
兄さんの顔を見ると、私を見て笑んでいた。
優しげに澄む空色の目に吸い込まれそうになる。
「合ってる?」
尋ねられて我に返る。
「あ、うん。見てみる」
用紙を手にし、一字一字確認していく。
慎重深く丁寧な兄さんの字に誤りは見られなかったが、ずらりと並ぶ単語の片隅に、吸い寄せられた目が離せなくなった。
にくい
いとしい
かなしい
うれしい
ありがとう
ごめん
只、反意語を並べただけの意味のない言葉の羅列だ。
文字の練習のために、兄さんが本から書き取った言葉のほんの一部。
なのに兄さんのそのぎこちない文字は、重く、私の胸に響いた。
ああ、まるで、私の兄さんへの心を映したかのよう。
相容れないはずの裏腹な気持ちが混在するのだなと、常々感じていた複雑な思いが、単純な文字として目に入ったことによって、しっかりと受け入れられた気がした。
「合ってるよ」
微笑んだつもりで兄さんに伝える。強張っていたかもしれないな。
兄さんはちょっとだけ口角を上げると、すぐに手元の本に視線を落とし、真っ新な別の紙に書き取りを始めた。
兄さんのぎこちなくて切ない文字達は、私の手の中に残った。




