55 うん、綺麗
「いいね」
東屋のベンチに腰掛けた兄さんが、景色を眺めながら呟いた。
兄さんの前のテーブルに勉強道具を並べながら答える。
「ね?気持ちいいし、綺麗でしょ?」
兄さんは満足そうな表情で前方の景色を眺めたままだった。
景色と言っても、いつもシバとウィゴが剣を振っている開けた場所と、その周りに木々が生い茂るばかりなのだが、大樹の木漏れ日が煌めく部分と、柔らかな日差しが差す明るい緑と、陰にある暗いそれと、緑だけでも額に入れられた絵画の様な美しさだった。
そして上を見上げれば、兄さんの目と同じ色の吸い込まれそうな空が広がっている。
「うん、綺麗」
兄さんが私を見て、ふわっと笑んだ。
どきんと胸が音を立てる。
すぐにいつもの笑顔に落ち着いたが、今の表情は兄さんの素の笑みだったのではないだろうか。
動揺し、慌てて視線を逸らしてベンチに腰掛けた。
いつもはウィゴとシバに挟まれて座るベンチに、今は兄さんと二人で並んでいる。
ここで兄さんと勉強出来たらいいなあと、初めて来た日に感じたことを思い出した。
実際兄さんと来られるなんて。
風がそよぎ、兄さんから大好きな良い香りが漂ってきた。
黙っていると、緊張と動悸が酷いことになりそうで、慌てて手を動かしノートとペンを手繰り寄せた。
誰かがシバの指示でウィゴの為に運んできたに違いないテーブルの滑らかな天板の模様をみつめながら、兄さんに言った。
「じゃあ、えっと、私は書き取りのお手本作るから、にい」
兄さんも好きなことをして。と言おうとして、ノートの上に置いていた手がぐっと掴まれた。
驚いて目をやると、私の手をすっぽり包む様に、兄さんの手が重ねられていた。
憶えのある感覚に、また失敗したのだと気付く。
「あ、ご、ごめ」
繰り返した失敗と兄さんの手の感触とに動揺し、謝ろうとすると、もう一度手が握りしめられた。
兄さんの顔を見上げると、笑みながら目が私をきつく咎めていた。
兄さんがまたお説教の為に、内緒話をする様に顔を寄せて来る。
思わず仰け反ってそれを避けた。
「分かりました!あの、えーと、ユリ様も好きな事して!」
兄さんが冷めた表情で私の手を放し、自分の本を手に取った。
ああ、せっかく兄さんが楽しそうにしていたのに、台無しだ。
お腹の痛みを感じながら、ノートに向かった。
「ジュジュ」
兄さんに呼ばれて顔を上げる。
落ち込んでいた割に集中して作業に取り組んでいたようだ。
柔らかい風を受けながら、ここで勉強する癖がついているからかもしれない。
「ん?」
兄さんに首を傾げると、何故か苦笑された。
「何?」
兄さんがテーブルに開いていた本を少し私の方に押しやって、指差した。
「これは?」
読めない単語の質問だった。
「あ、これなら読めるでしょ?」
そう言うと、兄さんが頬杖をついて不服そうな顔をした。
態度の悪い姫様だなあ。
「ええとね、こことこことここで切ってみて、一つ一つは似てるの憶えたでしょ?」
兄さんが、私が紙に書き写して線で区切ったその単語を眺め出した。
まあ、不貞腐れた綺麗な姫様に見えるわね。と言うか、そうとしか見えない。
外で勉強しているけれど、頭の悪い姫様と言う体で大丈夫なのだろうか。
考える兄さんの横顔を眺めていると、俯いたままちらりとこちらに視線を流された。
どきんと胸が鳴り、息を飲む。
美人の流し目は威力が凄い。
兄さんの透けるような眼に囚われ固まっている私に、その目が細められた。
「読めた」
再び現れた素を思わせる兄さんの笑みに、ばくばくと動悸が酷いことになった。
「よ、良かったね」
無理矢理笑顔を作り、すぐにノートに顔を戻した。
もう、止めてほしい。
兄さんの本当の笑顔を見たことがないのかも知れないとは思ったが、見せられる度にこんなに動揺するのでは、見ていられない。
きっと私達兄妹は一緒にいる時間が短すぎて、尚且つ兄さんの嘘くさい笑みに慣れ過ぎていて、本当の兄さんを受け入れる準備が出来ていないのに違いない。
まだ駄目みたい。時期尚早だ。
外にいるせいか、ユリを演じているせいか、いつになくご機嫌な兄さんの表情にあっぷあっぷしている自分を感じた。
帰り道の兄さんの足取りは来た時ほど軽やかではなかった。
名残惜しそうに草花を眺め、ゆっくりと静かに歩いていた。
兄さんの邪魔をしない様に、離れて後ろをついて歩く。
こんなに外が好きだなんて思わなかったなあ。
人目につきたくないはずだから了解するかは分からないけれど、毎日誘ってみよう。
外に出たいのを我慢して閉じこもってるなんて、苦痛に違いない。
「ねえ、君」
不意に若い男の声がした。
兄さんの後姿から脇の小道に視線を移すと、以前この庭で見かけた衛兵の様だった。
「ユールの姫のお付の子だろう?この間ここで会ったの憶えてる?」
笑顔で話しかけて来るその男は、近くで見ると若く、私と同年ではないかと思われた。
まだ細身ながら均整の取れた身体に合った立派な装具姿は精悍だったが、軽薄な印象の顔つきだった。
「はい」
「ほんと?嬉しいな!ねえ、君のとこの姫様って物凄い美人なんだってね?初日に見た連中がとても騒いでたよ」
彼は前を行く兄さんの存在に気付いていなかった様だ。
見張りとして大丈夫なのだろうか。
曖昧な笑顔を浮かべていると、相手も軽そうな笑顔のままぐいと距離を詰めて来たのでさりげなく一歩下がる。
「だけど、君も凄く可愛いよね」
やはり馬鹿男だった。しかもどこが胸だかお腹だか分からない子供相手に変態だ。
「急ぎますので」
さっさと兄さんの後を追おうとすると、腕を取られた。
「待ってよ。じゃあ、明日またここに来てくれない?君と仲良くなりたいんだ」
自分の容姿に自信があるのだろう。私の目を覗き込んで訴えかける様な恥ずかしい表情をした。
残念ながら、たった今まで恐ろしい程の美形と顔を合わせていた私には、全くもって無意味だった。
面倒臭さに思わず溜息を吐くと、男が苛立った表情を浮かべた。
ああ不味い、怒らせるのは良くない。
身分を偽っている以上敵を作るのは避けなければならないと分かっていた。
どう取り繕おうかと、取り敢えず神妙な顔を作った。




