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54 まさか忘れている訳ではないでしょう


この部屋に入って来た初日以来、初めて兄さんと並んで部屋を出た。

兄さん、この部屋から出るの初めてだね、と言うつもりだった。

「に」

手を物凄い力で掴まれ、驚いて兄さんを見上げた。

笑顔で物凄く怒っていた。

「まさか忘れている訳ではないでしょう?ジュジュ」

兄さんが壮絶に綺麗な顔で笑んでいる。

そうだった。部屋の外では兄さんは姫様だった。

「でも、誰も」

いないじゃないと言おうとして、掴まれたままだった手が更に強く握りしめられた。

「いたい」

兄さんが薄っすら笑んだまま私に顔を寄せて来た。

以前では考えられない近距離だ。

穏やかな状況ではないが、手を繋いでもいる。

胸がどきどきしだした。怒られるのは分かっているのに、兄さんとの距離の近さを喜ぶ自分の身体が情けない。

「言い訳も、部屋の外では無しだよ。誰かの耳に入ってからでは取り返しがつかない。君をここで死なせる訳にはいかないんだからね、ジュジュ?」

兄さんの唇が私の耳にふれそうな程の距離でそう囁かれる。

怒られているのに、耳にかかる兄さんの息に全身が粟立ち肩を竦めた。

慌てて耳を手で覆って兄さんから顔を放す。

ちょ、ちょっとこれは。びっくりした。

胸のバクバクと言う音が頭の中にまで鳴り響いて、押さえた耳の中が痛いほどだった。


兄さんがそんな私の様子に一瞬驚いた表情を見せ、すぐにそれを笑みに変えて私から視線を逸らした。

同時にぎゅっと握られていた手も、離されてしまった。

名残惜しくて目で兄さんの綺麗な手を追ってしまう。

取り落としそうになっていた勉強道具を抱えなおす。

初めて手を繋いだのに。正確に言えば繋いだ訳じゃなかったけど、初めてだったのにな。

兄さんの手は、ジョエやシバのそれの様に、固くて熱くてごつごつしたものではなかった。

細くて滑らかで、じんわりと暖かで、でも私の手よりずっと大きくて、懐かしくて胸が痛くなるようなものだった。

きっと、記憶を失う以前の幼い頃に、何度もふれたことのある手なのだろう。

つい今しがた、極近くに迫った兄さんから香った甘い匂いとともに、私の身体は兄さんの感触を憶えているのかも知れない。

その手にふれられたことが嬉しくて、好きな時にさわれないことが切なくて、一歩先を行く兄さんの後ろ姿を見つめながら、涙が出そうだった。


「ジュジュ?どっち?」

ふと我に返ると、兄さんが私に怪訝な顔を向けていた。

「あ、ええと、ここから外に出る」

少し通り過ぎてしまっていた外階段への出口を潜った。

外に出ると、丁度階段を吹き抜けた強めの風が、全身を撫でた。

爽やかな空気を思い切り吸い込むと、緑の清々しい匂いがして、身体の中がすっきり落ち着いた。

ゆっくり息を吐いて、階段を降り始めると、隣に並んだ兄さんが言った。

「まるで緑の迷路」

私には緑の海か緑の壁に見えるが、私よりずっと背の高い兄さんには緑の上に小道の筋が見えたのかも知れない。

「探検した?」

首を振る。

「どうして?」

「帰れなくなったら、に、ユリ様に怒られるから」

兄さんが私の間違いに目を細めてから、まあいいかとでも言う様に笑った。

楽しそうな笑みに見えて驚いた。

ユリとして演技しているからだろうか。

「まあ、確かに怒るけど。偉いじゃない。ジュジュ」

微笑まれて息が止まりそうになる。

可笑しい。太陽の光で物凄く明るいのに、兄さんの目が冷たく見えない気がする。

やっぱりユリだから?兄さんじゃないから?

「真っ直ぐ行ったら、大きい樹の下に東屋が有る、ます、よ。ユリ様」

また、兄さんが目を細めた。

「そう。じゃあ行きましょう、ジュジュ」


驚くべきことが起こった。

兄さんと歩く小道は、朝までのそれと景色が違った。

意外にも、兄さんは外が好きな様子だった。

数歩遅れて歩く私を気にせず、大樹を目指し歩く兄さんの足取りは、普段通りたおやかでありながら軽やかだった。

穏やかに花や木を眺め、時折眩しそうに空に顔を向ける。

日差しを直接受ける兄さんの姿は、後宮に上がったその日に見た以来で、目を細め空を見上げる兄さんをとても綺麗だと感じた。

形の良い額から細く通った鼻梁に柔らかな光が流れ、続く艶やかな唇は緩く弧を描いている様に見えた。

爽やかな風が吹き、兄さんの柔らかい衣装と編まれずに残されていた金の髪を舞い上げる。

本当に花の精か何かのようね。

兄さんが歩く緑の小道は、物語の中の世界の様だった。

角度によって時折見える、兄さんの恐らく楽しそうな顔を見つめながら、何故か胸が締め付けられるように痛んだ。






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