51 君とだよ
目を腫らした私を見ても、兄さんは一度目を止めただけでいつも通り微笑んでいた。
何を考えているのかさっぱり分からない。
「お早う、ジュジュ」
「おう、お前また目え腫らしてんな。兄妹喧嘩もいい加減にしろよ。子供じゃねえんだからよ」
ベッドに座って剣の手入れをしていたジョエが、私を見上げて馬鹿にした顔をした。
「兄さんにも言ってよ」
ジョエに向かって小声でそう言ったが、兄さんに聞こえてしまっていたようだ。
「僕が何かした?」
不貞腐れて声の方を窺うが、相変わらず微笑む兄さんが憎らしく軽く睨んだ。
「機嫌が悪いね、ジュジュ」
何かしたって言われたってどれの事を答えれば良いのか分からない。
今まで兄さんがどれだけ私を悩ませてきたと思っているのだろう。
大部分が私の勘違いによる要らぬ悩みだと言われても、私に真実を伏せていたのは兄さんだし、それも兄さんのせいだ。
しかも結局、私が兄さんを嫌いじゃなくなっただけで、兄さんは私のことを嫌ったままだ。
一層悩みが深くなってるじゃない。
こんなことなら、私も兄さんにイライラしている状態のままの方がマシだったかも知れない。
今日も綺麗にお化粧済みの兄さんを見ながら溜息を吐くと、兄さんが笑んだまま明らかに嫌そうな表情を浮かべた。
「何?イリ」
私を嫌がるその表情にお腹が痛くなりそうで、目を逸らす。
「何でもないです。さあ、洗濯室に行くから、汚れ物出して」
兄さんが椅子に畳まれて重ねられた布類を指差すので、取りに移動する。
「ジョエは?」
ジョエがベッドの下から大きなバッグを引き出し、その上に載せられた衣類を私に放った。
「ほら」
濡れた様な気配に受け取る気にならず避けると、それが床に落ちて行くのと同時に汗臭い匂いが部屋を漂った。
「臭い!」
「ジョエ、臭いよ」
兄さんも顔を歪めている。
ジョエが大笑いする。
「汗かいてんだから臭えのは当たり前だろ」
「せめて夕方までに汚したのはその日のうちに出してよ。一日放置されると一層臭いのよ」
「側が女なのは分かったけどよ。中身がガキかお袋か分かんねえな!」
ちっとも反省しないジョエががははと笑うと、兄さんも笑った。
「このままじゃ数日後には絨毯にジョエの汗が染みついて、部屋中がすえたゴミ溜めの様な臭いになるよ」
「嫌よ。絶対嫌」
私が言うと、ジョエが見慣れた能天気な笑顔を渋面に変えた。
「二人してうるせえなあ。分かったよ」
ジョエと兄さんの笑顔は、並べてみると明らかに種類が違った。
私は兄さんが本当に笑っている顔を見たことがないのだと、この年になってようやく気付いた。
「それにしても兄さんの服って良い匂いだよね」
さっき洗濯物を運んだ時も、ジョエの汚れ物とは対照的な良い匂いだった。
食事中の楽しい話題があるはずもなく、残すものは残しさっさと食べ終わっていた兄さんに何の気なしにそう言った。
「それにしてもって?何にしても?」
わだかまりはちっともとけていなかったが、昨夜の事で少しだけ、ほんの少しだけ距離が縮まったような気がしていた。
目が冷たいのは悲しいことに相変わらずだったが、以前の様な不自然な避けられ方は感じず、物理的な距離だけは随分縮まっていた。
「ジョエが臭いのに、同じ男にしても?分かんないけど、とにかく兄さん凄く良い匂いするよね。何の匂い?香油?」
兄さんが微妙な顔をした。
「今は匂いがついている様なものは使っていないよ。君が家に買い置いていた石鹸を使ってるだけだけど?同じ匂いじゃないの?」
「何と?」
分からずに聞き返すと、兄さんが呆れたように微笑んだ。
「君とだよ」
え!?
いやいや、絶対同じじゃないし。私も兄さんの言っている石鹸を使っているが、絶対に兄さんの服からする良い匂いは私の服からはしない。
「違うよ絶対。だってほら。匂い違う」
一度自分の服の袖を鼻にくっつけて匂ってから、兄さんの方に差し出した。
「何?匂えって?」
兄さんが笑って、片手で私を制して袖を降ろさせた。
「じゃあ、きっと洗濯用の石鹸の匂いだろう?」
「違う、洗濯後じゃない。洗濯前の服の匂いだもん」
兄さんが今度は引いた顔で笑んでいた。
「イリ、前も言っただろう?変態みたいだから止めなさい。どうしてそんなに匂いにこだわるんだ」
「だって、良い匂いなのに何も使ってないなんて言うから」
「本当の事だよ。一日じっとして汗もかかないし汚れもしないんだから、それでジョエみたいに臭い方が異常だろう?」
兄さんが笑みながらも、呆れた様な面倒そうな声だった。
「まあ、そりゃそうね。でも、石鹸の匂いじゃないんだもの」
頬をふくらます私に兄さんが溜息を吐いた。流石にしつこかったかも知れない。
冷めた目の色もずっと見えているし、溜息まで吐かれてお腹も痛い。
でも、私から近づいても逃げて行かないと思うだけで幾分気が楽だった。
「じゃあ、体臭なんじゃない?」
「体臭!?あの甘い良い匂いが体臭だって言うの!?」
投げやりに答えた兄さんに、箸を握りしめて叫んでしまった。
兄さんが一瞬何とも言えない嫌な顔をして、私から目を逸らした。
「ああもう、止めてくれ。良い匂いだって思うんだったら、親しんだ匂いが好ましいだけなんじゃないの?」
兄さんに言われたことを考えてみた。
確かに、抱っこされていたころの兄さんの匂いを身体が憶えているのかも知れない。
「でも、それにしたって、あんなに良い匂いなのに体臭だなんて、自分だけずるいわ。香油とかなら分けて貰おうかと思ったのに」
兄さんがお茶のカップをテーブルに置き、肘をついた片手で顔を覆った。
「イリ!もう本当に止めてくれ。汚れ物の匂いを嗅ぐのは止めなさい。分かった?」
顔を伏せたままの兄さんがそう言うので、文句を言った。
「えー、だって良い匂いだし、別にジョエの臭い服を嗅ぎたいって言ってる訳じゃないんだし」
「イリ!言うことを聞かないと、君の洗濯前の服の匂いを嗅ぐからね?」
突如兄さんに酷く冷たい声で変態宣言をされて、頭が冷えた。
私が変態だ。
「嫌だ」
そう言うと、兄さんが手の平から少しだけ顔を浮かせ、私を見た。
昨夜を彷彿とさせる冷たい目だった。悲しい。お腹痛い。
「だろう?人の服の匂いを嗅ぐのは止めるんだよ?良いね?ジュジュ」
余りにしつこかった自分をかえりみて返事をした。
「はい」
でも、本当に、香油だったら冷たい兄さんに頼み込んででも分けてもらいたいぐらい好きな匂いなんだけどな。
困ったな。あの匂いを堪能したくなったら、取り敢えず隠れて洗濯物を匂うしかなさそうだ。
兄さんの冷たい目を押しのける自分の思考に気付き、実際変態なのではないかと不安になった。




