37 もう良い
「な、に?」
引き攣った顔でジョエに尋ねると、ベッドの隣をポンポンされた。
ジョエとの間に人一人分の間を開けて座ると、頭を小突かれた。
「色気づいてんじゃねえよ。襲うぞ」
「はあ?」
ジョエが私の非難を無視して続けた。
「アレも昔からよくうなされてたぞ。お前が夢でうなされてんのは初めて見たけどな」
「え?」
ジョエを見上げると頬を掴まれた。
「お前の悪夢はお前だけのもんじゃねえ。アレにとっても悪夢なんだよ。何度イリを苦しめればこの夢は終わるんだって、子供の頃良く泣いてたぞ。本当に辛そうだった」
「嘘」
一層強く頬が掴まれる。
「嘘じゃねえ。おおかたお前に冷たくされたのが堪えて夢に出たんだろ。お前もいい加減にしろよ。身体がこれであの怒り方じゃ、本気でその辺の女だぞ」
「その辺の女じゃなきゃ何なのよ?女だって言ってんでしょ」
ジョエが口ごもった。ばーか。
「大体冷たいのは兄さんの方じゃない」
そう言うとジョエが怪訝な顔をした。
「なんでだよ。ちゃんと話すようになっただろ?」
「なったけど、嫌われてるもの」
俯こうとするがジョエに顔を掴まれていて叶わない。
顔を覗きこまれた。
「何かそんなこと言ってたな。阿呆かお前は」
「何でよ」
不貞腐れてジョエを睨むと、頬を掴んだまま顔を揺さぶられた。
「痛いって」
「アレがお前を嫌ってる訳ねえだろ?死ぬ気で養ってきてんじゃねえかよ。お前恩知らずにも程があるぞ」
大好きなお兄ちゃんに睨まれてお腹が痛くなった。
「分かってる。感謝もしてる。でも、兄さんは私のこと嫌いよ。手を放してよ」
言いながらぼろぼろと涙が出て来た。
涙に滲む視界に、ジョエの灰色の目が私を見つめているのを感じた。
ジョエの方を向けられたまま固定された顔は解放されることなく、泣き顔を隠すためにジョエの邪魔な腕をよけて両掌で顔を覆った。
「泣くな」
ジョエが私の頬から頭に手を移し、分厚い胸に私の顔を押しつけた。
小さい頃から何度も、抱っこされたり、抱き付いたり抱き付かれたりしてきた、慣れ親しんだジョエの身体と匂いに、張り詰めた糸が切れ自分がばらばらと崩れ落ちるような気がした。
「アレはお前を嫌ってなんかない。心配すんな。な?」
優しい声が頭上から降り注ぎ、暖かい大きな手が頭を撫でる。
これでは泣くのを堪えろと言う方が無理だ。
「ジョエの方が、よっぽど兄さんみたいよ。私を慰めてくれるのは、いつだって兄さんじゃなくて、ジョエだもん」
嗚咽交じりにそう言うと、ジョエが呆れた様に小さく笑った。
「お前まだ駄目なのか?まあ、そう言うな。仕方がねえだろう?アレだってお前が辛がってたらこうしてやりたいに決まってる。それでお前がこの間うなされてた時も、俺に押し付けたんだな、あいつ」
理解出来ないジョエの言葉に、涙が止まった気がした。
僅かにのこる嗚咽を耐えながらジョエを見上げた。
「何が?今何て?」
しばらく私を見ていたジョエが、目を丸くした。
「お前。もしかして憶えてねえのか?アレにさわる度にガタガタ震えて気を失ってただろう?」
耳を疑った。
「え?はあ?私が?いつ?」
ジョエが自分を振り仰ぐ私の背中を支えながら、困ったように答えた。
「俺がお前らと出会った頃にはすでにそうだったし、その後も何度もあったぞ。お前、何も憶えてないのか?」
「何も」
ジョエの顔から視線をおろし呆然としたまま答えた。
じゃあ、兄さんが私にさわらなかったのは、私がさわれなかったから?
「まあ、あまりにも怯えて酷い状態になるから、お前が気付いた後その事について話題にしたりはしなかったからなあ。まさか憶えてなかったとはな。それで、懲りずにアレにくっついてってたのか」
「私が兄さんにくっついていってたの?」
私には、兄さんにふれた記憶がない。
羽交い絞めにされ、呼吸を止められたあの時以来、一度も。
「そこも忘れてんのか」
「忘れてるみたい。おかしいと思ったことはある。皆、断片的でも小さい頃の記憶ってあるんでしょう?私、6つになってたはずなのに両親が亡くなった時のことを全く憶えていないなんて、多分変よね?」
今まで何となく気になっていた疑問をジョエに明かすと、かなり妙な顔をした。
「お前、それじゃ」
兄さんの寝室のドアが開き、ジョエの言葉が遮られた。
「ジョエ。もう良い。イリ、寝間着で出るなと言っただろう。寝なさい」
何故か急激に血の気が引いた。どこから聞かれていたのだろう。
必要もないのに、自分が悪いことをしていたような、後ろめたい気分だった。
「何だよ、俺がイリになんかするとでも思ってんのかよ?」
ジョエがさも心外そうに兄さんに文句を言った。
兄さんがジョエに微笑む。
「するだろう?責任取るつもりもないのに、イリを丸め込んでそれ以上触ったりしたら殺すよ?気を付けてね」
「何だと?お前が俺に敵う訳ねえだろ?無茶言うな。お前が死ぬぞ」
ジョエが重要な前半を否定せずおかしな心配をしているが、兄さんがにっこりと笑んだ。
「力で捻じ伏せる以外にも方法は有るんだよ?ほら、イリ。早く部屋に入って」
兄さんに笑顔で睨まれ、部屋に戻った。
ふわふわのベッドに仰向けに倒れてもいっこうに眠気は訪れなかった。当然だ。
頭がぱんぱんで、何について考えればこの混乱を落ち着かせることが出来るのか分からなかった。
取り敢えず、最後に兄さんがジョエを遮ったのが故意だと言うことは確実だろう。
もう良いって?両親の話をもうするなって事?
どうして。
ジョエは私の知らないことを知っていると言うことだろうか。何を?
兄さんが私に手をかけたことを、ジョエが知っているなんて思ってもみなかった。
兄さんが話したのだ。
思っていた以上に二人は親しくしていたのかも知れない。
そのジョエが、兄さんは私を嫌って等いないと言った。
兄さんが、仲の良いはずのジョエに、私にふれたら殺すと言っていた。
私から兄さんが逃げて行くのは、私が兄さんに触れないから?
考えてはいけない無駄な期待が心の奥底を占め、大量に涙が溢れだした。
急いで手の平で目元を覆うが、後から後から絶え間なく流れ続ける涙は、頬を伝って髪までも濡らした。




