36 お前もか
シバに言われたことを反省して、無言のまま今日も兄さん用の単語集を作った。
これを渡す時、嫌でも言葉を交わすことになる。
私の様子が気になったのか、午後もゴロゴロと部屋にいるジョエにも勉強させよう。
書き終わった紙を本から外して立ち上がる。
ソファに座る兄さんの前に回ると、一瞬だけ驚いた顔をした後笑顔を見せた。
「はい」
紙を差し出す。
兄さんがそれをまた、この期に及んで指先で取った。
涙が出そうになる。
私が昨日から無視してたのも、全く無駄だったわね。
そう感じたことで、私は兄さんを無視することで、自分の痛みを兄さんに伝えたかったのだと気付いた。
我ながら何とも幼い行動だ。
苦笑してジョエの方に移動し始めると、兄さんが私を引き留めた。
「待ってジュジュ。説明の文章を一度読んでくれない?できれば昨日の分も」
兄として、妹の訴えに態度を変えようともしない兄さんに、腹が立ってならなかった。
「嫌よ」
無視ではないだけましだろう。俯いてしまったがはっきりと答えた。
私に嫌な顔をするジョエのベッドに近付き、ドスンと腰かけた。
横になったジョエのお腹にもたれる様に座ったにもかかわらず、ジョエは気にした風もなかった。
兄さんなら私が近付きはじめた時点で起き上がり、あからさまにベッドの端っこまで下がっていたはずだ。
「ほら、今日はここ」
ベッドに頬杖をつき起き上がる気配のないジョエの顔の前に本を置く。
ジョエが私の顔を睨んで見上げて来た。
「お前、何考えてんだよ」
何時にないジョエの厳しい顔に、兄さんへの酷い態度を責められているのだと分かる。
「だって。兄さん私のこと嫌いって言うんだもん。勉強教える気になんてならない」
下を向いているせいで簡単に涙が零れそうになる。
瞬いてそれを飛ばした私を下から見上げていたジョエが、軽く息を吐いた。
いつにない大人びたジョエのその表情が、私を責めている様に感じてお腹が痛かった。
「ジョエ、起きてる? 」
わずかな蝋燭で照らされた薄闇の中、自室のドアを開けてジョエに声をかけた。
仰向けでベッドに転がっていたジョエが目を開け私を見上げた。
「ねえ、なんか兄さんの部屋おかしくない?」
ジョエに言うと、移動式の簡易ベッドを盛大に軋ませて起き上がった。
「うなされてるな」
「だよねえ。起こして来てよ。どうして気付いてるのに行かないのよ」
ジョエを非難の目で見るが、馬鹿にしたような視線を返された。
「馬鹿か。男がうなされてるからってわざわざ起こしに行く訳ねえ。起こされた方も情けねえだろ 」
「そんな事ないわよ。悪夢に男も女も関係ないでしょ?早く起こして来て」
ジョエの肩を掴んで引っ張ると、その腕をがっしりと掴まれ持ち上げられた。
「何」
ジョエが私の胸元を凝視していた。
「お前何だこれ。腹はどこに行った」
あろうことか胸に伸ばされようとするジョエの手を叩き落して、胸元を腕で隠した。
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ。兄さん起こして来てってば」
自分のベッド脇の壁越しに聞こえるうめき声に気を取られ、寝間着一枚だと言うことをすっかり忘れていた。
何か羽織って来るべきだった。
「馬鹿言え。こっちの方が大問題だ」
私の腕を無理矢理開こうとするジョエの脛を蹴った。
顔を歪めもしなかったが、手は離れた。
「触らないなら見ても良いわよ。そのかわり、兄さん起こして来て」
ジョエがさっさと立ち上がり、兄さんの寝室へ入って行った。
ジョエは兄さんの声に気付いていた様だったが、ジョエのベッドから兄さんの寝室の音は全く聞こえず、起きたのかも、何か言葉を交わしているのかも、何も分からなかった。
大抵の人間より身体能力の高いジョエは、私なんかよりずっと気配に聡いのだろう。
ジョエのベッドに座って待っていると、程なくジョエが寝室から出て来た。
近付いて来たジョエが私の腕を掴んで引っ張り上げた。
また触ろうとするかも知れないので、さっさと自分で立ち上がってジョエの手から離れ、両腰に手を当てた。
さあ、こうなったらとくと見なさいと言う気分だった。
「誰なんだよ、お前は」
ジョエが、私の顔と細い紐で絞られた腰と強調された胸に視線を往復させながら呟いた。
「脱いだらすごいって言ったでしょ。ばーか。子供子供子供って散々馬鹿にして。思いしれ、ジョエのばーか」
「中身はガキだけど、確かに身体は女だな」
混乱した顔で自分の短い髪をぐしゃぐしゃとかき回したジョエが、ベッドに腰を降ろした。
「何で俺まで騙してたんだよ」
「知らないわよ。兄さんに強制されてたんだもの。ここに来る前だって時々会ってたじゃない。騙されてるジョエがおかしいのよ。あ、兄さんどうだったの?大丈夫?」
思い出してジョエに尋ねると、馬鹿にした様に鼻を鳴らされた。
「夢ぐれえで大丈夫じゃなくなる訳ねえだろ」
ムッとして反論する。
「大丈夫じゃなくなる夢もある」
そう言うと、ジョエが急に優しい顔で私を見上げた。
「お前もこの間大丈夫だって言ってたぞ。夢は夢だ。目が覚めりゃそのうち大丈夫になる」
口ごもった私を見て、ジョエがふざけて目の前にあった私の腰の括れた部分に手を伸ばした。
「大体こんなに腰締める服なんか着てたことねえだろうが。ほっせえなあ。何か巻いてたのか。だからなんか感触がおかしかったんだな」
「放してよ」
ジョエの大きな手を掴んでお腹から引きはがした。
「私が大丈夫って言ったのは、ジョエが来てくれたからよ。あのままあの夢が続いてたら、私死んじゃって」
言いながら固まった私を見て、ジョエが苦く笑った。
「お前もか」
「え?」




