28 大嫌いだった
せめて何か食いながらやりたいと、ジョエが厨房に軽食を取りに行った。
その間に、兄さん用に歴史の本から簡単な単語を拾い、持参していたノートに書き出した。
「勉強道具、持って来てたんだね。ジュジュ」
兄さんがテーブルに向かう私をソファから眺めている様だった。
視線は手元に落としたままで答える。
「当然よ。家が人手に渡るのに残して来られる訳ないじゃない」
「そう。本は読んでたみたいだけど、勉強なんて嫌いなんだと思ってたよ。そう言ってたじゃない?」
手元に視線を落としたまま、溜息を吐いて首を振った。
「言ってない。私は学校が嫌いだって言ったのよ。勉強は好きよ」
子供の頃の私の気持ちは、兄さんに正しく伝わっていなかったようだ。
一緒に過ごした時間が少ない分、色々な勘違いやすれ違いが有るのかも知れない。
「そう」
言葉少ない兄さんの返事に、何かを考えているのかなと思う。
言葉に出して貰えないと、何を考えているのか全く分からないのだけど、それは私も同じなのかもしれない。
「私、兄さんが文字を読むのが難しいなんて知らなかったわ」
「そう?僕が教育を受けたことがないのは知ってるだろう?」
書き出した単語の横に、説明を書こうとして思いとどまる。
読めない兄さんに文字で説明を書いて何になる?
ああでも、簡単な説明文はそのうち文章を読む助けになるかもしれない。
その単語を表す絵とともに、短い説明文を付ける。
「知ってたけど、考えたことなかったもん。私より何でも出来ると思ってたし」
兄さんが笑った。
「僕は何も出来ないよ。君が小さい頃書いてくれてた手紙も、嬉しかったけど戸惑ったよ。読めると思ってたんだね」
文章を書きかけていた手が止まる。
文字を書けるようになった頃嬉しくて、帰りの遅い兄さんに手紙を書いていたことを思い出した。
返事は一度として返されることなく、悲しくなってしばらくしてから止めてしまった。
悲し過ぎて心の底に封印していたようだ。
思い出は当時の悲しさと胸の痛みをよみがえらせたが、読めなくては書けるはずもない。
兄さんには返事が書けなかったのだ。
それならそうと、直接言ってくれていればあんなに悲しい思いをすることもなかったのだが、兄さんにしてみれば、読めない自分に手紙を書かれることが当て付けの様に感じたのかも知れない。
「どうしたの?ジュジュ?」
「ううん。あれ、喜ばれてないんだと思って止めたのよ」
「そうだったんだ。嬉しかったよ?優しい客の時に持って行って、読んでもらったり、してた。ごめん」
客の話を出したことを謝ったのだろうか、笑みながら酷くどこかが痛む様な声を出した兄さんに、何とか笑って答えた。
「何で謝るの?読んでもらえてて嬉しいよ。喜んでくれてたんなら止めずにずっと書いてたら良かった。はい、出来たよ。今度こそ毎日作るから急いで憶えてね。分からないところがあったら聞いて」
ノートから紙をはずし、兄さんの前まで行き差し出した。
笑顔のまま一瞬躊躇した様に見えた兄さんが、指先でそれを受け取った。
「ありがとう、ジュジュ」
兄さんの不自然な指先に胸が痛んだ。
フワフワのベッドに寝転び天井を眺める。
兄さんが娼館からの手当として与えられていた家の私の部屋で、よくこうして寝る前に天井を見つめていた。
高さも装飾もこことは比べ物にならない天井だったけど、兄さんのことを考えているのは同じだ。
夜明け前にしか戻らない兄さんを諦めているのにも関わらず、階下でドアの軋む音が聞こえないかと無意識に耳を澄ませてしまうのだ。
兄さんが私と顔を合わせたくないのは当然だ。私のことを憎んでいるのだから。
憎まれて当然だと自覚した後、一度は軽蔑やくだらない嫉妬心からの嫌悪感がなくなっていたのに、結局また兄さんのことを嫌いになってしまった。
どうしたら許されるのか分からなかった。
美貌の男娼として名の売れた兄さんは、私に十分なお金を与えてくれていた。
それを切りつめて、無駄遣いはしていないと密かに訴えるくらいしか出来ない自分が情けなかった。
滅多に顔を見せず、見せたとしても、私が気まずそうにしていても、申し訳なさそうにしていても、兄さんはいつも嘘くさい笑顔で飄々としていた。
そのくせ冷たい目で私を拒絶する兄さんに、次第に腹が立ち始めた。
生かしてもらったこと、今も養ってくれていることには感謝してる。
でも頼んだわけじゃないし、学校を止めて私も働くから今の仕事を止めてくれとも訴えた。
それでも続けているのは自分の勝手じゃないの。
私の為なのは分かっているけど、私は望んでいない。
それなのに、私のことを嫌わないで。私を憎む兄さんなんて、大っ嫌い。
恨まれていると自覚し、落ち込み、冷たい視線が悲しくて、自分のせいだと諦めて、でも私が望んだことじゃないと腹を立てて、それを一人胸の内で繰り返すうちに何だかよく分からなくなっていた。
とにかく、私を悩ませ、嘘くさい顔で笑う兄さんのことが、大嫌いだった。




