23 私さえいなければ
「まだ早えぞ。起きるのか?」
私の自室ドアの近くにある自分のベッドに仰向けに寝転んでいたジョエが、部屋から出て来た私を見上げた。
「うん」
まだ外は暗かったが、寝られそうにないので身支度を済ませて本を手に居間に出て来たのだ。
予想に反してソファには兄さんが座っていた。
目が合い、思わず先ほどの苦しさがよみがえり立ち止まってしまう。
兄さんがいつもの様に薄く笑み、私から視線を逸らした。
兄さんがここにいるのなら自室で起きていた方が良かったな。
あの夢の直後じゃ普通に接するのにかなりの努力を要しそうだ。
それでも兄さんをあからさまに避けて自室に戻る気にはならず、明かりを持ってテーブルの前の椅子に腰かけ本を開いた。
本の内容は全く頭に入らなかった。
同じ文章を繰り返し目でなぞっても、脳裏に兄さんの悲しい目がちらつき息苦しくて集中できない。
兄さんはあの時13で、今の私より幼かった。
私達の両親は流行り病で亡くなったと聞かされているが、私自身は両親の事をおぼろげにしか覚えていない。
私と同じ黒い髪の母と、兄さんと同じ金の髪の父だった。
自分の半分ほどの年の妹の命を背負わされ、兄さんがどんなに辛かったかは計り知れない。
兄さん一人だったのなら生まれ育った地に残り、優しい誰かに頼って生きていけたのだろう。
幼いとは言え13になっていれば何かしら仕事も出来たはずだ。
私さえいなければ、兄さんはそうして生きていけたはずだった。
兄さんは何も語らないけれど、両親の死後移り住み育った街で受けた私への扱いから、兄さんの生き辛さと苦労は窺い知ることが出来た。
私が生まれた年は、丁度この国とロウエンとの争いが終わりを迎えた時期だったようだ。
私の育った街はロウエンとの国境に近くその戦場ともなっていた。
そのため友好国となった後もロウエンの人間への恨みが強かった。
ロウエンの特徴的な外見を持つ母の血を色濃く継いでしまった私への差別は酷いものだった。
王都に来て初めて、その差別意識に地理的な格差があることに気付いたが、私の生まれた地はさらにロウエンに近接した村だとジョエが言っていた。
育ったあの街よりも、もっと酷い差別を受けていたのだろうと容易に想像できた。
私が母からこの髪色を受け継いでいたせいで、私達兄妹は差別され、生きにくかったのに違いなかった。
兄さんを追いつめ、あんなに悲しい目で妹に手をかけさせたのは私自身だ。
私がいなければ、兄さんはきっと身売りなどしていない。
私がいなければ、兄さんにはジョエと同じくあの街で国兵学校に入り、国に養われ生きていく道もあった。
貧しくても他に生きていく道があった。
そうだ。私さえいなければ。
兄さんの決死の覚悟に報いて死んでやることも出来ず、更に追いつめて身売りまでさせた。
あの頃の兄さんは今の私よりずっと幼かったのだ。
考えるたびに子供だった兄さんが可愛そうで、申し訳なくて、どうしようもなく辛くなる。
金で少年を買い虐げる様な最悪な男達に身体を弄ばれるなど、考えるだけで身の毛がよだつ。
それを私は、幼い兄さんに強いてしまった。
以来兄さんは私を養う為、学校に通わせ教育を受けさせる為、自分を犠牲にし続けてきた。
それなのに幼く馬鹿だった私が自らの残酷さに気付いたのはほんの数年前で、学校など必要ないから仕事を止めてくれと訴えた時には、兄さんは既に何を今更と言う様な冷たい態度だった。
兄さんは高級娼館まで登りつめ、私が住む家もそこから世話されていた。
食べるものにも着るものにも困らない生活をさせてもらっていた。
今まで兄さんがやって来た事を無駄にするのかと言われれば、引き下がるしかなかった。
私に兄さんを非難する権利はないし、そのつもりも今ではない。
でも、馬鹿だった過去に、髪色の差別に加え兄さんのことでも一層酷い苛めを受けていた私が、人に蔑まれる兄さんの職や適当で不誠実な女性との関係を汚らわしく感じていた事実は取り消すことが出来ない。
汚れた仕事をしているくせに、ジョエに庇われ私より綺麗だと言われる兄さんが大嫌いだった。
そんな最低な私は、兄さんに、憎まれ、冷たくされて当然なのだ。
本にぽつりと涙が落ちて我に返った。
ぼんやりと考え込んでしまっていたようだ。
瞬いて涙を散らしそっと二人を窺うと、ジョエは私を真っ直ぐ見ていて、兄さんはソファの背に頬杖をつき表情の読めない顔で余所を見ていた。
「大丈夫か?」
ジョエが心配そうに立ち上がったのを、手で制した。
「まだ駄目だね。部屋に戻ってる」
ふるえる声を懸命に押し殺してそう言うと、急いで立ち上がって自室に飛び込んだ。
ベッドに突っ伏すと涙が止まらなくなった。
「イリ!飯食え!」
ジョエの声に目を覚ました。
泣きながら寝てしまっていたようだ。
幼い兄さんのことや、兄さんに対しての幼い自分の非情さを考えて辛くなるのは良くあることだったが、こんなに酷く泣いたのは久しぶりだった。
私に兄さんを憐れんで泣く資格などないし、一度兄さんに訴えた後は極力考えないようにしていた。
小さい頃は兄さんが帰って来なくて良く泣いていたけど、そう言えばしばらく泣いてなかったな。
起き上がると、腫れぼったく熱い目に反して気分は意外にスッキリしていた。
「うん」
ベッドから立ち上がり顔を洗いに洗面所に向かった。
窓の外は朝の光に溢れ、洗面所も明るく爽やかだった。
冷たい水で顔を冷やし、息を吐く。
息もふるえない。もう大丈夫だ。
髪と服を整え居間に出ると、今日も兄さんがカートから料理のトレイをテーブルに移していた。
「兄さんがやったら私の仕事なくなっちゃうでしょ。座ってて」
兄さんが私の顔をしばらく見つめ、いつもの顔で微笑んだ。
「じゃあ、ご飯の時間には起きて」
そう言って、椅子に腰をおろす兄さんは普段通りだった。
私だってもう子供ではない。兄さんの様に本心を隠し振る舞うことぐらい出来る。
「ご飯取りに行く前に起こしてよね」
ジョエにそう言うと、ジョエが笑いながら私の方に近付いて来た。
「俺のせいにすんなよ。豚みたいな顔になってるな」
両頬をぎゅっとつねられる。
「痛い!ジョエ!」
「イリ。冷める前に食べるよ」
ジョエの脛を蹴ろうとして頭を押さえられている私に兄さんが言った。
いつも通りだ。
「はーい」
ふくれっ面を作り椅子に座った。




