エピローグ 解体屋が見つけた、再構築のできない唯一の宝物
あの日、僕が『プロジェクト』を完遂してから、十年という歳月が流れた。
彩葉という名のノイズを僕の人生から完全に『解体』し、僕は娘の詩と二人、静かな、しかし確かな日々を積み重ねてきた。
「ただいま、父さん」
「おかえり、詩」
玄関のドアを開けて入ってきた娘は、来年には二十歳になる。高校を卒業し、今は都内の大学で建築デザインを学んでいた。僕に似てか、物事を論理的に組み立てることに長けているらしい。その才能を、彼女は何かを『壊す』ためではなく、『創る』ために使おうとしている。それが、僕には眩しく、そして誇らしかった。
「今日は課題の提出日だったんだろう? うまくいったか?」
「うん、なんとかね。教授には『君の設計は、機能美は素晴らしいが、少し遊びが足りない』って言われちゃった。父さん譲りかな?」
詩はそう言って、悪戯っぽく笑う。その屈託のない笑顔は、十年前と何も変わらない。僕が全てを賭して守り抜いた、僕の唯一の宝物だ。
リビングのソファに腰掛け、コーヒーを淹れる。向かいに座った詩も、自分のマグカップを手に取った。
二人きりの生活にも、すっかり慣れた。思春期の難しい時期もあったが、僕たちは常に言葉を尽くして対話することを心がけてきた。それは、僕がかつて彩葉との間で決定的に欠いていたものだった。
「そういえば、今日、駅前で偶然会ったんだ」
詩が、ふと思い出したように言った。
「偶然? 誰に?」
「……母さんに」
その言葉に、僕の動きが一瞬だけ止まる。
彩葉。
離婚して以来、一度も会っていなかった。養育費の請求もせず、ただ姿を消した彼女が、今どうしているのか、僕はあえて調べようとはしなかった。僕のプロジェクトは、彼女を社会的に抹殺することではなく、僕と詩の人生から完全に切り離すことだったからだ。
「……そうか。元気そうだったか?」
「うん。すごく……普通だった。パート先のスーパーの帰りみたいで、疲れた顔はしてたけど。私のこと、最初は気づかなかったみたい」
詩は、冷静な口調で続ける。僕が驚くほど、彼女は落ち着いていた。
「少しだけ、立ち話したの。『元気?』って聞かれて、『元気だよ』って。それで、『お父さんは?』って聞かれたから、『相変わらず仕事人間だよ』って答えておいた」
「そうか」
「最後にね、『幸せにね』って言われた。すごく小さな声で。それで、すぐに人混みの中に消えていった」
僕たちの間に、沈黙が流れる。
十年という歳月は、人の姿を大きく変える。華やかだった彩葉も、今ではパート勤めをしながら、一人静かに暮らしているのだろう。彼女がかつて渇望した『特別な視線』を、今の彼女に注ぐ者は誰もいない。それは、僕が設計した通りの、彼女にとって最も残酷な罰だった。
「父さん」
詩が、僕の目をまっすぐに見て言った。
「私、小さい頃、本当は気づいてたんだよ。母さんが、嘘をついてるってこと。いつもどこか遠くを見ていて、僕や父さんを見ていないってこと」
僕は何も言えなかった。
彼女の賢さは、僕の想像を遥かに超えていた。
「離婚した時、父さんは何も説明してくれなかったけど、それでいいと思った。父さんが私を選んでくれた。その事実だけで、十分だったから」
「……詩」
「だからね、今日、母さんに会って、初めて分かった気がする。あの人は、ずっと満たされない人だったんだなって。そして、そんな母さんを、父さんはずっと一人で見ていたんだなって」
詩の言葉は、僕の心の奥底、分厚い氷で覆われた場所に、静かに染み込んでいくようだった。
僕は『解体屋』として、常に冷静で、非情で、合理的であり続けた。家庭という組織が腐敗した時も、それを一つの案件として処理した。悲しみも怒りも、全て思考のノイズとして排除した。
だが、本当にそうだっただろうか。
あの時、僕の胸を支配していたのは、裏切られた夫の、絶望的なまでの『悲しみ』ではなかったか。完璧な日常が崩れ去る音を、僕はただ一人、聞き続けていたのではないか。
冷徹な『解体屋』の仮面の下で、僕はただ、傷ついた一人の男だったのかもしれない。
「父さん。もう、いいんだよ」
詩が、僕の手にそっと自分の手を重ねた。温かい、優しい手だった。
「もう、一人で戦わなくていい。これからは、私が父さんの隣にいるから」
その瞬間、僕の視界が、不意に滲んだ。
十年という歳月をかけて、僕の心の奥底で凍りついていた何かが、ゆっくりと溶け出していくのを感じた。
僕は、企業のリストラはできても、一度壊れた愛情を『再構築』することはできないと知っていた。だから、全てを解体した。
だが、僕が見落としていたものが一つだけあった。
それは、血の繋がった娘との間に存在する、決して壊れることのない絆だ。僕が守ってきたつもりのこの宝物に、いつの間にか僕自身が守られていたのだ。
「……ありがとう、詩」
僕は、ようやくそれだけを口にすることができた。
声は、少しだけ震えていた。
鬼束牙城という男がどうなったか、僕は知らない。おそらく、社会の底辺で今ももがいているのだろう。
そして、彩葉もまた、過去の幻影を抱きながら、平凡という名の罰を受け続けていく。
彼らの物語は、僕の中ではもう完全に終わっている。
僕の興味は、ただ一つ。
目の前にいる娘が、これからどんな素晴らしいものを『創り出し』、どんな人生を歩んでいくのか。それを見届けることだ。
僕は、重ねられた娘の手に、そっと力を込めた。
『解体屋』としての僕の人生は、あの日に終わった。
これからは、神楽坂詩という一人の人間の『父親』として、ただ穏やかに生きていく。
壊すことしかできなかった僕が、唯一見つけた、再構築など必要としない、完璧で、かけがえのない宝物。
その温もりを感じながら、僕は十年ぶりに、心からの安らぎを感じていた。




