第二話 泳がされたピエロは、甘い嘘の蜜を吸う
あの日を境に、僕の世界は二つに分かたれた。
一つは、これまで通りの穏やかで完璧な家庭を営む『夫』としての世界。もう一つは、冷徹な『解体屋』として、裏切り者たちへの制裁計画を練り上げる、水面下の世界だ。
「あなた、今朝のネクタイ、素敵ね。似合ってるわ」
「そうか? ありがとう」
朝のダイニングで、彩葉が僕の胸元に結ばれたシルクのネクタイを褒める。その声には、後ろめたさを隠すかのような、不自然な明るさがまとわりついていた。僕は彼女の嘘を見抜きながらも、気づかない夫を完璧に演じる。
「ああ、そうだ。昨夜、君の友人ご夫婦の話を思い出してね」
「え? 陽子のところの?」
「いや、確か最近、新しくできた友人とか言っていなかったか。IT関係の仕事をしているとか」
僕はコーヒーカップを口に運びながら、何気ない世間話のように切り出した。彩葉の目が、ほんの少しだけ見開かれる。彼女の頭に、鬼束牙城の顔が浮かんだことは間違いない。
「あ、ああ……。そんな話、したかしら」
「したさ。最近のIT業界は競争が激しいだろう? 僕の専門分野とは少し違うが、興味深いと思ってね。どんな会社なんだい?」
僕の問いかけに、彩葉の表情がみるみるうちに綻んでいく。警戒心が解け、優越感に似た光がその瞳に宿るのを、僕は見逃さなかった。夫が自分の交友関係、特に『特別な友人』に関心を示した。彼女にとって、それは自分の女としての価値が認められた証のように感じられたのだろう。
「すごいわよ、彼の会社。今すごく伸びてる中堅企業で、彼はそこの営業課長なの。すごくやり手で、会社でも一目置かれてるんだって」
「ほう、それは大したものだ」
僕は相槌を打ちながら、PCの画面に表示された鬼束牙城の勤務先――『サイバーフロント・ソリューションズ』の企業情報を頭の中で反芻する。設立十五年、急成長の裏で歪な拡大を続け、内部統制は脆弱。特に営業部門のコンプライアンス意識の低さは、業界内でも囁かれていた。牙城のような人間がのさばるには、格好の土壌と言える。
「新しいプロジェクトも彼が中心になって進めてるみたい。なんだか、大きな契約が取れそうだとか言ってたわ」
「そうか。それは楽しみだね」
僕は微笑みながら、心の中で冷たく呟く。
――泳がされているとも知らずに、よく喋る。
この数日間、僕は『解体屋』としてのスキルをフル活用し、鬼束牙城という男を丸裸にしていた。SNSの裏アカウント、ギャンブルサイトへの登録履歴、複数の女性とのメッセージのやり取り。そして何より、彼の仕事における危うい手法。部下の手柄を横取りし、上司には大げさな報告で取り入る。グレーな経費の使い方も散見された。見栄っ張りで自己中心的、そして驚くほどに脇が甘い。まさに、僕が最も扱いやすい種類の人間だった。
復讐の青写真は、すでに完成している。
第一段階は、牙城の社会的信用の失墜。
第二段階は、彼の経済基盤の完全破壊。
そして最終段階は、彼のプライベート、つまり家庭の崩壊だ。
その全てのプロセスにおいて、駒として最も有効に使えるのが、僕の妻、彩葉だった。彼女自身が破滅への引き金を引くことになるなど、夢にも思わずに。
その週末、彩葉は「友人とランチ」という名目で出かけていった。僕がGPSで確認した彼女の行き先は、牙城の住む隣町の、ラブホテルが密集するエリアだった。
僕は娘の詩を連れて、少し遠くの大きな公園へ出かけた。
「パパ、見て! シロツメクサの冠!」
「上手だね、詩。とても綺麗だ」
芝生の上で、詩が作った小さな冠を僕の頭に乗せる。その無邪気な笑顔を見ていると、胸の奥が鋭く痛んだ。この子から、母親を奪うことになる。その事実に、僕の唯一残された人間的な感情が揺さぶられる。だが、腐った組織は、たとえ痛みを伴っても切除しなければならない。それが僕のやり方であり、長い目で見れば、それが詩のためにもなると信じるしかなかった。
「ママは、どうしてお友達と会うのが多くなったの?」
不意に、詩が尋ねた。その声には、子供ながらの不安が滲んでいた。
「……ママにも、パパと同じように、お付き合いがあるんだよ」
「ふーん……。でも、パパと一緒の方が、ママ、楽しそうだったのにな」
詩の言葉が、重く僕の心にのしかかる。
そうだ。かつては、そうだった。三人で笑い合う、温かい時間が確かに存在した。それを壊したのは、彩葉自身だ。
その夜、帰宅した彩葉は上機嫌だった。昼間の情事を反芻しているのか、その頬は紅潮し、目元は潤んでいる。僕の顔を見ると、一瞬だけ罪悪感に似た表情を浮かべたが、すぐに取り繕った笑顔を貼り付けた。
「ただいま。詩はもう寝た?」
「ああ。疲れたのか、すぐに眠ってしまったよ」
「そう……」
リビングのソファに腰掛けた彩葉は、何かを言いたそうに僕の顔を窺っている。僕はあえて何も言わず、彼女が口を開くのを待った。
「あのね、あなた」
「なんだい?」
「この間、話したでしょ? 私の友人の……」
彼女が口ごもる。まさか夫に、浮気相手の名前をフルネームで告げるわけにはいかないだろう。
「ああ、IT企業の?」
「そう! その彼がね、言ってたんだけど……。今度、会社の新規事業で、海外の新しいセキュリティソフトを導入するんだって。それがすごく画期的で、これから業界のスタンダードになるかもしれないって」
来た。
僕は内心でほくそ笑みながら、興味深そうな顔を作る。彩葉からその情報を引き出すために、僕は二日前の夜、彼女のスマホに遠隔でアクセスし、『セキュリティソフト 最新動向』という検索履歴をわざと残しておいたのだ。彩葉はそれを見て、僕がその分野に関心を持っていると錯覚したに違いない。そして、牙城との会話の中で、その話題を振ったのだろう。
「ほう。それは興味深いな。どこの国の、何というソフトなんだい?」
「ええと……たしか、イスラエルの『ガーディアン・アイ』とか言ってたわ。まだ国内ではほとんど知られていないらしいんだけど、彼の会社が独占契約を結べそうなんだって」
完璧な情報だ。
『ガーディアン・アイ』。僕もその名は知っていた。非常に高性能だが、まだ実績が少なく、多くの日本企業が導入をためらっている代物だ。サイバーフロント・ソリューションズのような中堅企業が独占契約を結ぶというのは、大きな賭けであり、同時に大きなリスクも孕んでいる。もし契約が失敗すれば、会社に与えるダメージは計り知れない。そして、そのプロジェクトの責任者が牙城ならば――。
「彼、すごいわよね。そんな大きな仕事を任されてるなんて」
「そうだな。素晴らしい手腕だ」
僕は彩葉を褒め称える。彼女は、まるで自分が褒められたかのように嬉しそうだ。まさかその情報が、愛しい男を地獄に突き落とすための弾丸になるとは、微塵も想像していない。
愚かな女。
夫の前で、間男の武勇伝を得意げに語る姿は、滑稽なピエロそのものだ。甘い嘘の蜜を吸い、自分が世界の中心にいるとでも思っているのだろう。
「そういえば、その契約、いつ頃決まるかとかは聞いてるのかい? 純粋な興味でね。成功すれば、その会社の株価も上がるかもしれない」
「さあ、そこまでは……。でも、来週の役員会議で最終決定が下されるって言ってたかな。彼、すごく自信満々だったわよ」
来週の役一員会議。
――リミットは、そこだ。
僕は満足げに頷くと、立ち上がって書斎へと向かった。
「少し仕事の整理をしてくる。先に休んでいてくれ」
「ええ、分かったわ。おやすみなさい、あなた」
その声が、やけに甘ったるく聞こえた。
書斎のドアを閉め、僕はPCを起動する。
彩葉から得た『ガーディAアン・アイ』と『来週の役員会議』という二つのキーワード。これらを組み合わせれば、牙城を社会的に抹殺するシナリオは、より完璧なものになる。
僕は匿名で利用できる海外のサーバーを経由し、一つのメールアカウントを作成した。
そして、サイバーフロント・ソリューションズの親会社である大手総合商社の、監査役室宛にメールを作成し始める。
件名は、『貴社子会社における、コンプライアンス違反及び、背任行為の可能性について』。
本文には、牙城のこれまでの不正行為を示唆する情報と、今回の『ガーディアン・アイ』導入計画がいかに無謀で、会社に多大な損害を与えるリスクを孕んでいるかを、専門家としての視点から冷静に、しかし鋭く記述していく。彩葉から聞き出した「彼が中心になって進めている」という一言も、巧みに盛り込んだ。特定の営業課長の独断専行であるかのように印象付けるためだ。
これで、親会社は子会社の暴走を看過できなくなる。役員会議を前に、緊急の内部調査が入るだろう。焦った牙城は、必ず証拠隠滅に走る。そこを叩く。
メールを送信するクリック一つで、破滅へのカウントダウンが始まる。
僕は椅子に深く身を沈め、冷え切った指先を組んだ。
偽りの夫婦の会話が奏でる破滅への序曲は、今、最終楽章へと向かおうとしていた。
泳がされたピエロは、まだ甘い夢の中にいる。
その夢が、悪夢に変わる瞬間は、もうすぐそこまで来ている。




