3話 落ちこぼれ
授業開始時刻までの時間も、クラスのエルメスに対する噂が止むことはなかった。
曰く、恥知らず。貴族の風上にも置けない人間。トラーキア家の威を借る卑しい狐、等々。
それらは何の根拠もないものだったが、彼らはそれをあたかも真実であるかのように決めつける。
まるで、『そうでなければ困る』とでも言わんばかりに。
「……ごめんなさい、エルメスさん」
同様に噂を耳に入れていた隣の少女、サラが謝ってきた。
しかし彼女はそれから、申し訳なさそうにしつつも。
「……虫の良い話だとは分かっていますが……どうか彼らを──いえ。私たちを、許していただけませんか」
「はい?」
こんなことを言ってきたのだ。
「……分かるんです、あの人たちの気持ちも。鬱屈した、どうしようもない感情をぶつける先を求める心は。私はその……運よく、発言力のある方に守っていただけていましたが、あの人たちは──」
と、彼女が続けようとしたその瞬間、チャイムが鳴って。
「静かにしたまえ」
ほぼ同時に教室の扉が開かれ、一人の男性教員が入ってきた。
この学校は魔法学園ではあるが、かといって魔法ばかりを学習しているわけではない。
むしろ血統魔法が主流となっている今は、魔法の勉強ではなくそれ以外の基礎教養──つまりや歴史や言語等の総合的な教育を貴族子弟に施すことが主な目的となっている。
とりわけ重点的なのは、算術だろう。
何せ貴族は基本的に領地の経営者だ。よほど優秀な会計官を雇えば別だが、だとしても領地を収める当人が数字に弱いのはまずい。
そんな当然の理念のもと、今から始まる授業もその算術に関わることだったのだが──
「──では。今からテストを始める」
くすんだ灰色の髪に神経質そうな顔立ちをした、フレームの細い眼鏡が特徴的な男性。ユルゲンとは真逆の、どこか鋭利な印象を与えてくる。
聞いたところによると、彼はガイスト伯爵。この学年の算術を担当する教員だ。
そんな彼が発した一言に、クラスが騒めいた。
エルメスも微かな驚き──というか疑問を滲ませつつ、隣に座るサラに問いかける。
「その、テストというのは試験のことですよね? そういうものは基本事前に知らされるのでは?」
「……はい、基本はそのはずです。でも──」
「なんだね、君たち」
続くサラの言葉の前に、教室の喧騒を見かねた教員が声を発する。
「『いきなり試験をされても困る』とでも言うつもりかね? 全く──これだから君たちは落ちこぼれなのだよ」
その内容と表情には……一切隠す気のない、侮蔑と優越の感情が宿っていた。
「いいかね? そもそも常に学ぶ意思と意欲さえあれば、いつ試験を受けようと問題ないはずなのだよ。それなのに多少の抜き打ちを受けた程度で狼狽えるとは情けない。どうせ長期休みも遊び歩いていたのだろう? 気が抜けている証拠だ。それを私が直々に叩き直そうと言うのだ、感謝して欲しいくらいだね」
……言い分自体は、分からないでもないが。
そう思ってか、静まり返った教室を見て満足そうに教師が試験問題を取り出して配る。
エルメスの方にも回ってきて、それを見るが──
「……うわ」
思わず小さく声が出た。
エルメスはこの学園へ編入するにあたり、当然この学園で前期に行った授業内容は把握してきた。
そもそも、そうでなければ編入試験を突破できないのだから当たり前だ。
だからこそ、分かる。
この問題──前期の内容だけでは絶対に解けない。
問題傾向も実に悪辣だ。一見簡単に解けそうであるのだが、少し考えると複雑かつ悪意たっぷりに捻られた要素がこれでもかと飛び出してくる。俗に言う悪問と呼ばれる類のもの。
「制限時間は十分だ」
加えて告げられる、あまりにも無慈悲な時間制限。
既にこの問題の厄介さを見抜いた一部生徒から軽い悲鳴が上がり、そうでない生徒も解き進めていくうちに息を呑む。
そして生徒が悪戦苦闘する様子を見て、壇上の教員は嫌らしい薄笑みを浮かべていた。
そんな、生徒達にとっては地獄のような時間が十分続き。
「終了だ。速やかに回答を私のところまで持ってきなさい」
教員の残酷な宣言。けれどひどい問題とこれ以上向き合わなくて済む安堵も浮かんだ表情で、生徒達が答案を提出する──
──が。本物の地獄はここからだった。
「さて。それではこれから一人一人、私が直々に採点をして差し上げよう」
生徒達が青ざめた。
今の問題と自分の解答具合。そしてこの十分だけでも良く分かった教員の性格。
これから自分たちが何を言われるかは、もう誰もが予測できてしまって。
そんな生徒の予想に違わず──ガイスト教員が、口を開く。
「ではまず、アルバート・フォン・イェルク。……これはひどい。解けているところが全くないじゃないか。君は一体この学園で何を学びにきたのかね。どうせ君は魔法も大したことはないんだろう? ならば他のもので補ってやろうという気概が全く感じられない答案だ。論外だね」
言われた生徒、アルバートが俯いて唇を噛む。何か言い返したそうに、けれどできないと言った表情で。
「続いてベアトリクス・フォン・アスマン。君も論外だ。白紙の答案は気まずいからとりあえず何か書いておこうという魂胆が見え見えだよ。こんなものは見るまでもなく零点だ、採点するこちらのことすら考えられないのかい? これだから自分勝手な田舎貴族は」
回答に対する酷評、思考の決めつけ、極め付けは人格に対する批判。
その三拍子を採点した全ての生徒に対して、ある意味丁寧に行っていく。
当然ガイスト伯爵の顔に浮かぶのは、真摯さでも職務意識でもない──ただの、愉悦だ。
「……せ、先生!」
そんな更なる地獄に耐えかねたのか、もしくは単純に言わなければと思ったのか。
エルメスの隣で、サラが声を上げた。
「何かね? こちらの話を勝手に遮る常識知らずなハルトマン男爵令嬢」
「っ。お、お言葉ですが……この問題を今のわたしたちが解くのは不可能です……!」
流石に彼女は気づいていたか。勉学に熱心で前期の内容をきちんと理解しているものなら、そのことが分からない筈もない。
それでも、真っ先に声を上げたのはサラ。ひょっとすると前期の姿からは予想外だったのかもしれない、幾人かが驚いた顔で彼女を見ていた。
「明らかに前期でやる内容ではない。後期、或いはそれ以上、学園では習わないような内容まで入っています……っ! 現時点でわたしたちが解けないのは当然──」
そんな中、彼女は必死に続ける。
間違いなく妥当な抗議ではあったのだが、しかしガイスト伯爵は。
「──だから何だね?」
平然と、そう言い放った。
「……え」
「はぁ。全く、こんなことすら分からないとはね」
思わず呆けるサラに、ガイスト伯爵はわざとらしくため息をつくと。
「いいかい。どうやら全員自覚していないようだからもう一度言ってあげるけれど。……君たちは落ちこぼれだ」
きっぱりと、仮にも教員が、そう言い放った。
「そうだろう? 『Bクラス』の諸君。君たちはここに配属された時点で、この学校の中でも劣る存在であることが確定しているんだよ。なのに何だい、前期の内容じゃ解けないだなんて。むしろ魔法や家格で劣る分、長期休みのうちにそれ以上の内容を予習するくらいしてくるべきではないかね? 意識が低いなぁ、私が学生の頃はそういった生徒が沢山いたと言うのに。嘆かわしい」
あからさまな、悪意に満ちた言葉。
けれど、生徒達は言い返せない。
自分たちは落ちこぼれ。家格や魔法で劣るからこそ『Bクラス』に配属された存在。
その厳然たる事実を、突きつけられてしまったから。それに逆らうことを、この国の風潮は許さないから。
「サラ・フォン・ハルトマンの回答は……これか。ふん、他の生徒より多少は解けているが──最終解は全て不正解だ。それなのに随分と偉そうに。『二重適性』ともてはやされ、アスター殿下に見初められたからといって調子に乗っているのではないかね」
「っ」
「私に物申すなら、せめて一問くらいは完全正解してくれたまえ。それなら考えなくもないがね?」
嫌味たっぷりに返され、サラもそれ以上何も言えず黙り込んでしまう。
それに気を良くし、愉悦の表情を尚更深めて再度ガイスト伯爵が嘆息する。
「レベルも意識も低いな、このクラスは。もう少し私が教えたいと思うように努力をして欲しいものだね。……まぁ、落ちこぼれに過度な期待をするのも良くないか」
……そしていい加減、エルメスも分かってきた。
先ほど、授業が始まる前にサラが言っていた意味。このクラスのエルメスに対する扱いの理由。
──彼らも、ここでは虐げられる側なのだ。
きっと、今ガイスト伯爵から受けているような扱いが今だけでなく日常茶飯事なのだろう。
この極端な身分と魔法至上主義の王国、その縮図のような制度を取る学校で。
上のものに嘲笑され、優越感を満たす道具にされることだけが彼らが在籍する理由で。
……なるほど、その捌け口を求めてしまう気持ちも分からなくはないかもしれない。
まぁ、だからと言って同じことを平民であるエルメスにするのはどうかと思うし、彼とてそれを甘受するつもりはないのだが。
「また駄目だ。本当にうんざりするなぁ、私が必死に考えた問題の意図に全く気付いてくれないのは。君たち、本当に学ぶ気があるのかい? ……せめて一人でも全問正解者が居ればこのクラスを認めてあげてもいいんだけれど」
どうせ無理だろうけど、と言外に告げてから、ガイスト伯爵は次の答案を取り出す。
「次は……エルメス? 家名がないけれど……ああ、そうか」
そして、伯爵がまた深く嘆息した。
「そう言えば聞いていたな、平民が後期から一人このクラスに編入すると。……勘弁して欲しいよ、いくら落ちこぼれの溜まり場とは言え、曲がりなりにも高貴なる教育機関だよ? 最低限の格というものがあることを理解しているのかい?」
心底嘆かわしそうに、エルメスの答案の名前部分だけを見て首を振り。
「そもそもまともな計算ができるかどうかも怪しいものだ。……正直見たくもないんだけれど、一応生徒だからね。仕方ない、採点してあげよう」
そうして、口調からして貶す気満々の伯爵が、彼の回答に目を通し。
「………………は?」
たっぷり数秒固まってから、少々間抜けな声を上げたのだった。
……ちなみにだが。
エルメスは学校に通ったことがなかった。だがそれは、決して彼の教養がないことを意味しない。
むしろ、全くの逆と言って良いだろう。何故なら。
彼には、非常に優秀な赤髪の家庭教師がついていたのだから。
曲がりなりにも彼女はかつての第三王女、当然王族としての基礎教養は本人の地頭の良さもあって完璧に修めている。
彼女はエルメスに魔法を教える上で、それらの知識も余す所なく伝授した。
何故かというと、それが魔法を扱う上で必要だからだ。
魔法陣を理解するために言語能力が必要であり、術式を構築するために算術能力が必要であり、魔法の背景を把握するために王国史の理解が必要であったからだ。
つまるところ──彼は既に、この学園の前期の内容どころではない。
それこそ王族にも劣らないほどの基礎教養を、取得しきっているのである。
なので。
多分今のテスト、エルメスの自己採点によれば普通に全問正解だ。
恐らくそれは間違っていないだろう。必死に答案に目を走らせて、「ありえない……」と呟きながら血走った目で回答の粗を見つけようとしている伯爵の様子からも明らかである。
……さて。
まず間違いなく誰も解けないテストを出し、それを理解した上で生徒達に悪戦苦闘させ、それを貶しきることを楽しんでいたこのガイスト伯爵が。
予想外の完全正答者を出してしまった時、どんな反応をするのか。
正直あまり見たくないような、けれどある意味では少し気になるような。
なんとも言えない表情で、エルメスは返答を待つのであった。
次回、伯爵先生怒涛のフラグ回収。お楽しみに!




