50話 だから、魔法を
「……ぅ……あ……」
視界が晴れ、意識が戻ってくる。
(一体──何が──)
未だ定まらない思考の中で呟く。
前後の記憶が曖昧だ、覚えているところから辿っていく。この場でアスター達と戦い、倒し、その後尋常ではなく強力な魔物が現れて。
「っ」
そのあたりでようやく靄がかった意識が完全に回復し、思い出した。
そうだ。あのケルベロスの猛攻にどうにか適応し、僅かな隙をついて有効打を叩き込み続けて。
ようやく勝ちが見えてきたと思った瞬間の──あの、三つの魔法。
一つ目の魔法で今までのダメージが全回復し、二つ目の魔法で唯一の有効打すら防がれて。
そして三つ目。あの、天から降り注ぐ雷撃。
あれが放たれた瞬間、エルメス達三人は咄嗟に全力の防御態勢を取った。
まず三人が一箇所に固まり、カティアが『救世の冥界』による幽霊兵全てを盾に回し。
その下にエルメスが手持ち最硬の魔法であるかつての亀甲龍の障壁、『外典:亀龍結界』を展開し。
更にその下、サラが『精霊の帳』で全方位を防御したはずだった。
けれどあの稲妻はそれら全てを一挙に貫通し、自分たちに殺到した。
だからエルメスは最後の手段として、身を挺して稲妻を受けたのだ。
「ぐ……っ……」
その判断は、正解だったと思う。
三重の防御で多少なりとも威力は減衰していたはずだ。それでも、前衛として魔法を受けることに慣れているエルメスで尚このダメージ。
もしこれが二人に直撃していたら──確実に死んでいた。
「──エルメスさんっ!」
サラが悲痛な叫びと共に駆け寄ってくる。
守った成果は出たようだ。流石に全てを受け切ることはできず無傷とはいかなかったが、彼に比べればはるかに軽症の様子。
「ひどい火傷……っ、すぐに治します!」
エルメスの様子を見て顔を青ざめさせたサラは、エルメスに抱きつかんばかりの勢いで身を寄せて『星の花冠』を全力展開、治癒の魔力を溢れんばかりに注ぎ込む。
しかし。
「なんで……っ、治らない!?」
いや違う。治癒自体は確実にしている。
ただ──治ったそばから再度傷ついているのだ。
原因は、未だ彼の体内を這い回る稲妻の魔力。
それが荒れ狂い、彼の体を灼き続けている。恐らく、この魔法の効果なのだろう。
これを解除するには解呪か封呪系統の魔法が必要になる。サラの血統魔法ではそこまでカバーしきれない様子だ。
一応、エルメスの手持ちの中にその系統の魔法は存在する。
ただ、受けた稲妻が多すぎた。使えるようになるまではもう少し魔法の効果が収まるのを待つ必要があり──
「ァオオ────ン!」
──敵が、それを待ってくれることなどあろうはずもない。
「……そん、な」
二人の前に現れた三つ首の巨狼。絶望の象徴が、あまりに矮小な彼らを睥睨する。
今の状態から復活し再び戦えるようになるまでの時間は、これを相手にしては長すぎる。
……いや。
仮に、復活してもどうなると言うのだろう。
手持ち最強の魔法を駆使しても与えるダメージは微々たるもので、それすらあの回復魔法を使えば一発で全快する。そもそも奴は結界系の魔法すら使ってみせた、あれで防がれてしまえば微々たるダメージすら通らない。
極め付けは、あの稲妻。
威力において──否、威力だけでない。範囲も射程も追加効果も、全てにおいてエルメスの『流星の玉座』をはるかに上回っている。
三人の全力防御すら易々と貫いたあの魔法をもう一度撃たれれば、今度こそ全滅だ。
連発は出来なさそうだが、それはなんの慰めにもならない。それ以前にこの推測すら怪しい、眼前の化け物に今まで培ってきた常識は全て通用しない。生き物としてのステージが数段違う。
これが、魔物の頂点。世界喰らいの体現者。
無理だ。勝てない。
目の前に広がる結果は、その絶望をエルメス達に突きつけるには十分すぎた。
自分の推測は、あまりに甘すぎたのだと思い知らされてしまった。
絶望を感じ取ったのか。
ゆっくりとケルベロスが近づいてきて、三つの顎を開いた。喰うつもりなのだろうか、自分たちを。
それが分かっていても。抗うだけの体の力も、或いは心の力も。もう、残っていない──
──でも。
ぱすっ、と。
あまりにも弱々しい一撃が、別方向からケルベロスの体に直撃した。
「……どこ見てんのよ……」
その一撃を放った少女──カティアが。
「あなたの敵は、まだここに居る。私が相手よ──かかってきなさい、駄犬」
恐怖に震えつつ、絶望に顔を歪めつつ。
けれど、瞳には尽きることのない戦意を宿して、言い放ったのだった。
……もちろん、勝ち目があって言ったわけではなかった。
でも、自分を庇って倒れたエルメスが。自分を守ってくれたサラが。
あの魔物に殺されそうになっているのを見た瞬間、自然と体が動き、言葉が出てきてしまったのだ。
微塵の痛痒もないとはいえ、敵意を込めた一撃。そして挑発を含んだ言葉を聞いて。
カティアを明確な敵手と判断したケルベロスが──飛びかかってきた。
「ッ!!」
ほとんど、見えなかった。
辛うじて躱せたのは、『突進が来るかも』という勘に身を任せて飛んだからに過ぎない。
そして当然、攻勢は終わらない。引き続きカティアを引き裂き、喰い裂くべくケルベロスが襲いかかってくる。
それは、先ほど以上の蹂躙劇だった。
当たり前だ。エルメス、カティア、サラの三人が揃ってようやく互角だった相手にカティア一人で抗しきれるわけがない。
攻撃は欠片も通用せず。唯一の頼みである防御力ですら規格外の膂力を前に紙切れのように粉砕され。
みるみるうちに、カティアの体に傷が増えていく。
むしろここまで直撃をもらっていないことが奇跡。だが関係ない、いずれは傷が積み重なってカティアも斃れるだろう。それは遠い未来のことではない。
幽霊兵たちの声が響く。
──だめだよ、逃げて!
──あいつは強すぎる、ぼくたちじゃ守りきれない!
──カティア様は、死んじゃったらおしまいなんだよ!
そんなことは分かっている。
けれど、引くわけにはいかない。
どこかから、覚えのある思念が聞こえてきた。
そこまでしなくて良いと。
確かに自分は立派な貴族になるように教えた。誰かの幸せを守れとも。
自分の生き様を真似てくれるのは誇らしい。でも──自分の死に様までは真似しなくていいんだと。
「……違うわ、お母様」
思念の正体が本物かどうかは分からない。けれど、カティアは答える。
確かに自分は母に憧れた。その在り方を追いかけたいと思った。
そう思った決定的な出来事が、強大な魔物の群れに立ち向かう母の姿であったことは間違いない。
加えてその誇り高い散り様にも──憧憬を抱かなかったと言えば、嘘になるだろう。
「私は。私はただ──!」
でも、今考えているのはそんなことではない。
あの日、母を見て抱いたもう一つの想い。きっと憧れと比べればどうしようもなくちっぽけでくだらない、単純な想い。
それが今、あの時と限りなく似た状況で、溢れ出る。
「ただ──もう、大好きな誰かに目の前で死んでほしくないのよ!!」
それは、悔しさだ。
立ち向かう母の姿を、あの時の自分は見ていることしかできなかった。
大好きだった母を。愛していた家族を──自らの手で守りたかった。
今まで頑張って来れたのは、憧れだけでなくきっとその想いもあったからだ。
だから、引かない。今度こそ、私が守る。
それを魔法に乗せて、あの日自らにした誓いを守るため、彼女は全力で抗う。
……それでも、敵はあの日以上に圧倒的で。
想いだけでは、どうしようもない領域は確かにあって。
遂に。魔物の突撃がカティアの体をこれまで以上の際どさで掠める。
「くっ」
直撃こそしなかったものの、あの巨体の突進だ。纏うエネルギーは尋常ではなく、体勢が崩れることは否めない。
その隙を一切見逃さず、まとわりつく幽霊兵を全て一振りで薙ぎ払うと。
避けようのないタイミング、角度、速度でもって。剛腕が、カティアに迫る──
──がきん、とそれが弾かれた。
弾き飛ばしたのは、光の檻。続いてカティアを包み込んで傷を癒す蒼の光。
自分の隣に立った少女の名を、カティアは呼ぶ。
「……サラ」
「……エルメスさんに言われました。自分のことはいいから、貴女の助けに、と」
そして、と彼女は真っ直ぐに呟いて。
「わたしも、同じです。こんな状況でも諦めていない──諦めずにいられる貴女のことを、助けたい。……きっとそのために、わたしの魔法はあるんです」
それに、とサラは軽く笑って。
「まだ、ちゃんと仲直りもできてませんから」
「……サラ、あなた」
──この子も、変わったと思う。
学校で見た時はひどく自己主張の薄い子だと思っていた。ただ立場の高い人間に従順で、良い子なのは間違い無かったけれど自分の意思があまりない少女なのだと。
でも、今はこうしてまっすぐ自分の言葉をぶつけてくれる。
……この変化を為したのはきっと、自分ではなくてエルメスなのだろう。
それが少しばかり、悔しいと思うけれど。
「ええ、助かるわ」
今は、それ以上に。
自分の想いに共感し、自分を助けてくれる人がいるのが──こんなにも誇らしく、頼もしい。
「そうね。──この戦いを生き残ることができたのなら、ちゃんと話をしましょうか。今まで出来なかった分も、ちゃんと」
「……はいっ」
カティアの返答に、サラは嬉しそうに可憐な微笑みを見せて。
そして、少女二人は戦場に向かう。
勝ち目がなくても、力が足りなくても関係ない。
大切なのは、立ち向かう意思。守ろうとする心。
そう言ったカティアの母親を証明するように、前を向いて。
そんな光景を、倒れたエルメスは見つめていた。
彼は戦いにおいては極めて冷静だ。生来と境遇により感情が薄いせいもあるのだろうが、常に客観的な判断を下し、気合いだけではどうにもならない部分があることも理解している。
その彼は稲妻の効果を解呪し回復した今、現在の戦況を見てこう判断していた。
──逃げるべきだ、と。
業腹だが、行動の判断だけならアスターが正解だった。あの魔物の強さは想像を遥かに超えており、勝つビジョンなどまるで見えないのが現状。
それなら撤退し、高確率であれを打倒できる人間を呼ぶ──王都の強力な血統魔法使いを総集させるか、それこそ師匠に助けを求めに行くのが最善の選択だろう。
「……」
あの魔物から、この場の誰一人死ぬことなく逃げ延びることは不可能。
……だが。エルメスだけなら、逃げることは可能どころか余裕だ。
何せ彼には空を飛ぶ血統魔法、『無縫の大鷲』がある。
いくらあのケルベロスが強力無比と言っても、流石に飛行能力までは有していないだろう。唯一撃ち落とせそうなあの稲妻にさえ気を付ければ逃走は比較的容易い。
少し無理をすれば、カティアと──もう一人二人くらいまでなら連れて逃げることも不可能ではないかもしれない。
自分は王者でなければ聖人君子でもない。生き残り、魔物の被害を抑えるにはこれが最も確度の高い選択だし、それを躊躇うほどの心も自分は持ち合わせることができない。
……と、思っていたのだけれど。
「……嫌だ、なぁ……」
彼は呟き、前を見る。そこには、絶望しても尚戦わんとする二人の少女の姿が。
──綺麗だ、と思ったのだ。
勝ち目がないことはきっと彼女たちも理解している。でも立ち向かうのは、守りたいものがあるのだろう。
それは自分以外の誰かであったり……あるいは、自分の中の譲れない何かであったり。
その姿を尊いと思った。その先の景色を見たいとも思った。
強く、強く願った。願うことが出来たのだ。
……でも。今の自分の力じゃ。
今自分が持っている魔法では、どう足掻いてもそれを成すには足りなくて──
「………………ああ、そっか」
想いは、綺麗だ。
願いは、美しい。
けれど、それを実際に成すためには途方もない隔たりがあって。
時には人の悪意。時には運の悪い巡り合わせ。時にはどうしようもない世界の仕組み。
様々な要因が、それらの成就を阻む。
輝くものを形にするには、この世界はあまりに不自由で──
「──だから、魔法を『創る』んだ」
そして遂に、彼は辿り着く。
魔法は想いの具現、願いのかたち。
彼が幾度となく語り、けれど言葉と既に在る魔法以上の実感を持たなかったものを、今、ようやく真に理解する。
──こういう時に、人は魔法を創るのか、と。
幸いにも。
その為の力は、既に彼の中にあった。
想起する。カティアと出会い、トラーキア家に来て語った彼の目標を。
その為に、師匠に魔法を教わった。
その為に、多くの血統魔法を目にし学んできた。
その為に──
「僕は、この魔法を身につけたんだから」
思い出せ。
彼が師匠に教わった魔法。魔法を再現する自由の魔法。血にも立場にも縛られない、誰もが使える最強の魔法。
それが一体、何のために存在しているのか。何魔法と、呼ばれているのか。
成功するかは分からない。
今までは出来なかったし、そもそも再現性があるのならとっくにやっている。
でも、全く根拠はないけれど。こんなことを言うなんて、自分もアスターのことを笑えないけれど。
それでも──笑って、彼は呟いた。
「……今なら、出来る気がする」
そして、少年は立ち上がる。
今までで一番強く、生まれた自分の想いを、確かな象とするために。




