48話 器の底
「…………、は?」
目の前の光景。
自分が渾身の力で振るったはずの炎剣が、ケルベロスに傷一つ与えないどころか体毛の一房すら焦がせていないという光景を見て。
(ありえない、間違いだ)
アスターがまずしたのは、お得意の否定だった。
もう一度剣を振るう。されど結果は変わらず、返ってくるのは欠片の手応えもない感触のみ。
「──」
ぶわり、と冷や汗が伝った。
いくらアスターでももう分かる。この魔物は、今の自分の全力でも毛程の痛痒も与えられないほどに硬い守りを持っている。
(そ──そんなはずがない! この俺の最強の魔法が、魔銘解放までしたんだぞ! そうだ、きっと特別硬いところを偶然叩いてしまったんだなら別のところを攻撃して──)
それでも尚、事実を認めないため逃避の思考を紡ぐアスター。
だが、今回の敵はエルメスやカティアとは違う。そんな思考の隙を、待ってくれるほど優しくはなかった。
ぞわりと背筋が粟立つ。見上げると、三対の瞳がもれなく自分のことを睥睨していた。
悪寒に従うままに、その場から飛び退こうとするアスター。だがそれより早く、
「──ッッ!!」
前足が、払われた。
──例えるならそれは、流れ星を直接その身に受けたかのような。
「ご──ッ、ばッ、がァッ!!?」
ひとたまりもなかった。
直撃し、冗談のような勢いで吹き飛ばされ、森近くの木々に数回バウンドしてようやく止まる。
「ぉ……あ……」
痛い。
痛い痛い痛いいたいいたいイタイイタイ。
視界が明滅する。吐き気が止まらない。今にもバラバラになってしまいそうな感覚が総身を苛む。
生まれてこのかた味わったことのない痛み。悲鳴をあげることものたうち回ることも出来ず、ただ襲い来る地獄の感覚に身を焼かれて動けないアスター。
そんな彼の前に、ケルベロスの大きな影が止めを刺すべく現れて。
アスターは魔法に覚醒して以降、数多くの魔物を討伐してきた。
その全ては、恵まれた血統魔法の力をもってすれば大した労苦もなく倒せるものばかり。彼は自身の力と周りの賞賛に従うまま、彼にとって順当に倒せる魔物ばかりを倒し続けた。
故に彼にとって魔物とは、自分よりも圧倒的に弱い『戦闘』ではなく『狩り』の対象で。
弱いものを倒すことしか知らなかった彼に、彼我の戦力差を正確に把握する技量などあるはずもなく。
──自分が狩られる側に回るなど、夢にも思わなかったのだ。
ケルベロスが、倒れ伏すアスターに六つの目を向ける。
そこに慈悲も憐憫もあろうはずはなく、宿す意思は純然たる殺戮のみ。
「──ひ」
目があったアスターは、ようやく理解した。
敵わない。勝てる気がしない。
それにこいつは、これまでの相手とは違う。自分の立場や力を慮って、及ばなかったとしても『言い訳の余地を与えてくれた』人間とはちがう。
何があろうと、どんな要因が介在しようと。理由など案じてくれず、言い訳など聞く耳も持たず。
敗北の後に待つものは──死、只それだけだと。
ケルベロスが、前足を振り上げた。
「うぉおおおおおあああああああッ!!?」
或いはそれは、生存本能と呼ばれるものだったのかもしれない。
欠片も動けなかった体を強引に捻り、落岩と見紛うような踏み付けを紙一重で回避。
軽い地震が起き、再度吹き飛ばされる体。
転がりながらも立ち上がり、なりふり構わず逃亡する。
よろめきながら、この上なく無様な格好で。激痛で動けなかった体を無理やり動かしているのだから、当然痛みは更に増す。
苦痛に耐性のない彼にとっては地獄にも等しい。でも、ただ今は、一歩でもあの化け物から距離をとりたかった。
けれど、当然ながらそんな稚拙な逃走を背後の怪物が許してくれるはずもなく。
徐々に足音が、死の気配が迫ってくる。
まさしく死神に追いかけられる恐怖に、いよいよ彼の中で何かが切れ。
アスターは、叫んだ。
「──た、助けろぉおおおおおお!!」
この後に及んで尚。
懇願ではなく、命令であったことに彼の性根が現れていた。
「早く! 誰か、誰かいないのか! この俺を助ける栄誉だ! こういう時のためにいるんだろう兵士たちは何をやっているッ!!」
先ほどその兵士たちを自らの魔法で使い潰したことも忘れ、アスターは喚く。
「分かるだろう俺は王になる人間、こんなところで失ってはいけない存在だと! 俺を助けろ! 俺のために身を挺せ! この上ない栄誉を得る機会を俺が与えてやっているんだッ!! いいから早く──」
聞いているものからすれば助けてもらう気があるのかと疑いたくなるような言葉の数々。
しかしその呼びかけも虚しく、ついにアスターの頭上にケルベロスの影が落ち。
「──ひ」
振り下ろされ、アスターを跡形もなく踏み潰す、その寸前だった。
「……正直、心底やりたくはないんですが」
間一髪。
横合いから飛び込んできた影が、アスターを掻っ攫う。
再び空振る前足の一撃。発生する地鳴りも軽く飛んで交わし、一挙にある程度距離を取ると。
「貴方を今死なせるわけにはいかないと、カティア様に言われたので。……感謝してくださいね?」
冷たい瞳でアスターを見下ろし、エルメスは告げたのだった。
「……え、エルメス……」
首根っこを引っ掴まれ、自分を見上げるアスターの目に──まず、不満が宿った。
なるほど、『お前にだけは助けられたくなかった』と分かりやすく書かれた顔だ。……今すぐにでもケルベロスの前に放り投げてやろうか。
その衝動を割合苦労して抑え込み、自分を睨みつける幻想種の魔物を見据える。
さてどうするか──と考えたその時、手元のアスターがまたも喚き始めた。
「よ、よくやったエルメス。──さぁ、逃げるぞ!」
「……は?」
何を言っているのだろうか、この男は。
そう表情で告げたエルメスを同様に読み取ったのか、アスターが不満げな表情で続ける。
「当たり前だろう! この俺が敵わなかった相手を、貴様らに倒せるわけがない! だから逃げるのが正解だ、逃げて王都で援軍を呼び、総力を賭してあの災害を打倒するのが正しい選択だろう。そんなことも分からないのか!」
「……」
どうやらこの男は、まだ自分の方がエルメスたちより上だと信じているようだ。
「……撤退の案自体には、一理ありますがね」
そこを指摘しても無駄だといい加減悟ったので、エルメスは別の点を指摘する。
「無理ですよ、あの魔物は規格外すぎる。逃げることすら許されず全員やられるのが落ちです」
「な──」
「それに、ここから王都までは相当に距離があります。恐らくは援軍を呼ぶまでに……いえ、援軍を用意できたとしてもあの強さ。相当の被害が出ることは想像に難くありませんが、その辺りはどうお考えで?」
静かなエルメスの問いに。
アスターは一瞬逡巡する──ことすらせず、答えた。
「何を言っている、俺の命が第一だ! 俺さえいれば国は回る、そのための犠牲など知ったことではない! いちいち気にしていては王者など務まらんわ!!」
その声は、この上なく大きく。
エルメスは勿論のこと……この場にいる全ての人間が、きっと今の言葉を聞いただろう。
我が身が可愛いのは人としては当然。それ自体をエルメスは責めようとは思わない。
──人の上に立ち人を守る王者、それを目指そうとする者でなければの話だが。
「……へぇ」
エルメスは、呟く。今までよりも尚低く、どこまでも冷たいトーンで。
「つまるところ貴方は、この場であの魔物と戦う気は無い、と?」
「あ、当たり前だ! さあ、分かったならいいからさっさと俺を連れて──」
「じゃあ、もういいです」
確認すると、彼は無造作に。
襟後ろを掴んでいる腕を振り、アスターを後方に投げ飛ばした。
「な──!?」
「カティア様には『助けろ』とだけ言われましたので。助けた後どうするかは知ったことではありません」
アスターの魔法は強力だ、戦う意思があるなら使えるとは思ったが──無いのなら、最早ただの足手纏い。丁寧に扱う気も起きないので、戦場から離れたところで適当に転がっていれば良い。
吹っ飛んで地面に叩きつけられるアスターを無感動に見送ると、振り向いてケルベロスを見やる。
(……さて)
今しがた言った通り、これを相手に撤退は難しい。特にこの場の全員が無事に逃げおおせる確率はゼロと言って良いだろう。
だから犠牲を出さないためには──今、この場で、こいつを倒すしかない。
「ウォォオ────────ン!!」
明確にエルメスを敵手と認めたのだろう。ケルベロスが一際高く嘶き、凄まじい殺気をぶつけてきた。
それに呼応するように、エルメスも文字盤を出現させて魔力を高める。
出し惜しみは、しない。これを相手に出来るわけがない。
故にこちらも躊躇なく──もう一つの『禁じ手』を、使わせてもらう。
「【天地全てを見晴るかす 瞳は泉に 頭顱は贄に 我が位階こそ頂と知れ】!」
それは彼の師匠の代名詞のもう一つ。だがあまりに有名になりすぎたため、人前での使用を禁じられた魔法。
けれど、もうそんなことを言っていられる状況ではない。その判断と共に、彼は全力で魔法を解き放った。
「術式再演──『流星の玉座』!」
直後。
ケルベロスの頭上より、光の雨が降り注いだ。
「ウァオオオオオオン!!」
唐突な予想外の方向からの攻撃に、ケルベロスが悲鳴を上げる。
『流星の玉座』。流星の如き光線を天から撃ち放つ魔法。
師匠である『空の魔女』ローズの代表的な攻撃魔法にして、師と初めて会ったときに見た魔法。
彼が再現に成功した、二つ目の血統魔法だ。
それが今、解き放たれ。完璧な不意打ちとして全弾ケルベロスに直撃したことを確認し。
そして。
「……一応今の、僕の手持ちの中では最高火力の魔法なんだけど」
砂煙が晴れ──そこから、ケルベロスの姿が露わになって。
「倒れてすら、くれないかぁ。……これは参った」
わずかに血を流しつつも、文字通りかすり傷程度しか負っていない様子を見て。
エルメスは、微かに冷や汗を流しつつ呟いた。
……だが、ダメージを与えられたこと自体は僥倖だ。恐らくアスターの大剣で傷一つつかなかったのは、アスター自身限界まで消耗していたことと、魔銘解放を強引に行っただけで欠片も使いこなせてはいなかったことが原因だろう。
ならば、勝機はある。
攻撃が通るならば、繰り返していればいずれは倒れるはずだ。どれほどになるのか想像もつかないが、そのか細い糸に賭けるしか今は手段がない。
それに、とエルメスが思った時、彼の両脇に立つ二人の少女の影が。
そのうちの一人、カティアが覚悟を決めた表情で告げる。
「……エル、勝てる?」
「そうですね。……今のを数百発くらい撃ち込めば何とか」
「途方もない話ね。──でも、やるしかないでしょう」
迷いはなく、怯えを微かに含みながらも真っ直ぐに。
その姿を眩しく思いつつ、エルメスはもう片方に立つ少女に問いかける。
「足止め役が必要です。防御力と継戦能力に優れたカティア様と……サラ様、貴女の協力もお願いしたい。よろしいでしょうか」
「……当然です」
問いかけというよりは確認の言葉に、迷わずサラも頷いた。
「こういう時にみんなを守るために、わたし達は居る。そうカティア様に教わりました。それに……わたしも、お二人の力になりたい……お二人のように、なりたいんです」
「!」
微かな、けれど確実な。初めて見せた、彼女の明確な意思。
エルメスは輝きを感じ、カティアは驚きの後微笑みを浮かべて。
──三人同時に、前を向いた。
「では、行きます」
「ええ」
「……はいっ」
掛け声と同時。彼らは強大な魔物を打倒すべく走り出した。
一章ラスボス戦、開始。
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