47話 無明
(…………どういう、こと)
そして、決戦二日前。
あの可愛らしい王女様と出会って、未来が変わったことを知って。
大司教の驚愕と動揺を見て溜飲を下げ──ようやく悪夢に悩まされずに済むと安心して眠りについた、その夜。
ひどい、悪夢を見た。
──どうしてか分からないけれどエルメスが死ぬ、という地獄の光景から始まる悪夢が。
(なんで。未来は変わったんじゃないの)
予知夢は、明晰夢の形で与えられる。故に目を逸らすことができない、はっきり意識と自覚のある状態で見せられた不可解な地獄に、ニィナは思考する。
(そもそも何これ……こんな予知、今までは無かった。わけが分かんない、原因が分からなかったら対処のしようが──!?)
困惑と、対処不能なことによる恐怖。それらが合わさって混乱の極みにあった彼女の眼前で──景色が、入れ替わった。
(──え)
それは、予知夢を見られる人間特有の感覚か、はたまた彼女固有の直感によるものか。
何であれ、どうしてか。その瞬間ニィナは悟る。
──夢が切り替わった、と。
これまでの予知夢ではない、別の要因……何らかの意思によって『見せられる』、そんな夢へと。
そうして、現れたのは。
(…………やだ)
更なる、地獄だった。
彼女が今まで見た、悪夢の光景。二度と見たくなくて必死に避けようとして、回避できたはずの最悪の具現。
──ありとあらゆる、エルメスの死の光景。あり得た最悪の未来が、一斉に流れ込んできた。
(やめて。なんで)
──大司教の神罰からカティアたちを庇って、力無く横たわる彼の姿を見た。
──高笑いする教会兵たちに、一斉に刺し貫かれる彼の姿を見た。
──兄ルキウスに心臓を貫かれる、彼の姿を見た。
(いやだ。見たくない──!)
そう叫んでも、明晰夢であるが故に目を逸らすこともできない。夢から覚めることもできない。
何度も何度も、繰り返し繰り返し。ご丁寧に一つ一つバリエーションを変え……ニィナのこの先取りうる行動全てを認識させてから、その先に待つ最悪を見せつけてくる。
それはあたかも……ニィナ自身の、力不足を咎めるように。お前がどんな行動をしても、未来は変えられないと見せつけるかのように。
変わったはず、こんな光景あり得ないと断言するには、眼前の景色はあまりにリアリティと実現性がありすぎていて。
そこで、気付く。
これは──大司教視点の未来予知だと。
ニィナよりも広範に、ニィナよりも詳細に。
彼女がどんな行動をしてもそれを予測し読み切り、時に利用さえして。執拗に、狂的にエルメス殺害の目標を果たそうとしている。その執念を、意志の力を見せつけて。
多少未来が変わったところで、自分の前には関係ない。自分が実現しようとする未来には、未だ一片の翳りもありはしない。
そう告げるかのように、どうしようもなく、徹底的に。──お前の力ではこれを変えられない、何もできないと突きつけていた。
(やめてよ。そんなの……ボクが一番良く分かってるよ……!)
そして、実際にニィナは何もできなかったからこそ、その光景はひどく刺さる。
全てを知っているのは、変えられるのは。自分だけなのに、何もできない。
同じ予知の力を得た人間として、抵抗しようとした。けれど実際彼女に変えられたものは何もなく、結果を出したのはあの王女様とエルメスたち。
自分は……最初から。そしてこの先も、ずっと蚊帳の外。
眼前の光景は、それを彼女に突きつけるには十分で。
同時に、否応なしにそれは彼女に思い出させる。自分の本質、自分の欠陥を。
なんとか、しようとした。
否──自分が、なんとかしたかったのだ。
頑張れない自分でも、自分なりに。頑張っている人の邪魔をしてはいけないと。
そう思って、ルキウスを操り、エルメスたちを害そうとする大司教に、偶然とは言え得た力によって抵抗をしようとした。
それに。ここで、何かをできれば。また──かつての自分に、何かに向かって真っ直ぐだった自分に、戻れる気がしていたのだ。
でも、無理だった。
半端な抵抗は全て封じられる、どれほど踠いてもあの男の前では何の意味も成さず、どころか利用すらされて助けたかった人たちに迷惑を賭ける始末。
肝心な未来は、何も変えられず。毎夜毎夜、絶望に魘された。
それが本当は──辛くて、辛くて。嫌で嫌で仕方なかった。
一晩ごとに、心が削られるのが自覚できて。自分の無力を、怠慢を突きつけられるのが嫌で。
それに、何より。
そうしているうちに──また。
いつか、あの時の自分が。薄情者の自分が出てきてしまって。
もういいや、と諦めてしまうのが。兄を、友人を、好きな人を。一切合切を見捨てる大嫌いな自分が出てくるのが……きっといずれそうなるだろうと自覚できてしまうが故に、怖かった。
辛い。嫌だ。もう、頑張りたくなんてない。
そんな本音を押し込めて、必死にできることを探しても──それでも、一切の抵抗は許されず。
そうなる理由に関しても、自覚があった。
だって……分かるのだ。曲がりなりにも同じ力を持って、同じ盤面でやりあえば、否応なしに理解できてしまうのだ。
すなわち──大司教も、『持っている』側の人間だと。
歪かもしれない。余人には理解できない領域に達してしまっているかもしれない。
けれど、紛れもなく。あの男の、『神の国を作る』という目的は──全てを懸けるに足る、ヨハン自身の『願い』なのだ。
それが、力になる。魔法を強くする。そこまでの人間だけが、その場に立てる。
そう、つまりこの北部反乱は。とっくに、そういう次元の戦いだった。
『世界の命運を懸けた』戦い。高潔な願いがぶつかり合う場所。
そんな、戦いの場所で。……最初から、自分が割って入る隙は無かったのだ。
エルメスのような、純粋に魔法を極めんとする願いだったり。
カティアのような、貴族としての在り方をどこまでも貫こうとする願いだったり。
サラのような、あり得ないはずの理想をそれでも突き詰めようとする願いだったり。
自分は、そういうの、無い。
そんな自分が……どうこうしようなど、初めから無理だった。
それを、否応なしに自覚させられてしまった。
悪夢が切り替わった。
「エル、エルっ! ……何で、何でよぉ……!」
エルメスが死んだ──後の、光景。
彼の亡骸を抱きしめ、あまりにも痛々しい慟哭を発していたカティアが──こちらを向いて。
「何で……っ、あなたが、もっと……!」
ぶつけたくは無いけれど、ぶつけざるを得ない。そんな激情を押し込めた瞳で、言葉にはせず──それでも、自分の怠慢を糾弾したい視線を向けてきていた。
──刻みつけられる。
「……エルメス、さん」
サラは、対照的に静かに。
けれど、瞳にはあまりにも計り知れない絶望を湛え、抑えきれないそれが涙の形となって溢れる……そんな表情のまま。
「……」
自分を、見据えてきていた。表情には微笑みすら浮かべて、自分を赦すような……けれど、どこか決定的に壊れてしまった顔で。
──己の罪を、思い上がった結果を、刻みつけられる。
「────」
リリアーナは、一切の言葉を発しない。
ただただ、虚な瞳で。何もかもを失ったことが分かる顔で。
何もせず……否、最早何をする意味も見出せず。自分には目もくれず、その場に佇んでいた。
──素晴らしい人たちと出会い、自分もそうなれると勘違いして。調子に乗って、仲を深めた果て。愚か者の末路が、これだと。
「……妹よ、お前は悪くない」
兄ルキウスは、沈鬱な表情──洗脳されていたことを自覚した表情で、告げてくる。
「悪いのは、私だ。あの男に踊らされた私だ! 私を罵ってくれ……!」
彼の心臓を刺し貫いたことを、心の底から悔いる。人生で最大の苦悶と共に……けれどニィナには一切の責を向けず、ただ己が罰されることを望んでいた。
(やめてよ──!)
吐き気がした。
皆が皆、自分を表立って弾劾はせず。それが何よりのリアリティを伴って、彼女の心を削り取る。
何も変えられず、何者にもなれず。……ただ、我慢できずに仲良くなって、近しくなった人たちを巻き込んで、どうしようもない悲劇に叩き込む。
──それは。彼女が抱えた最初の罪。生まれつき授かった原初の呪い。
「──ほら。やっぱり無理だったじゃないか」
(──!)
そして、最後に。
とどめの言葉が、最も聞きたく無かった人間──彼女の生家の弟の声を伴って放たれる。
「姉さんは、そういう人間なんだ。周りの近しい人間からぜーんぶ不幸にしていく」
(いやだ、やめて。それ以上言わないで)
全力の拒絶を心中で叫ぶも、言葉は止まらない。
何故なら、それを発しているのは彼女自身。紛れもない、彼女が自覚しているもの。それが弟の口を借りて放たれているだけなのだから。
「すごい人になって、すごい人たちと一緒にいたいのかい? はは、無理だよ。だってほら──姉さんの、魔法を見てごらんよ」
そして、彼女の弟は。あの時と──彼女に絶望の一言を浴びせた時と同じ表情で、同じ声色で。
嘲るように、憐れむように。とどめを指すように、告げたのだった。
「──好きな人間の心を捻じ曲げる。そんな醜い血統魔法の持ち主がさ……どうやって、素晴らしいものになれるって言うんだい?」
(────ああ)
それを、聞いた瞬間。
恐れていた事態が。彼女の中の何かのスイッチが、致命的に切り替わったのを感じた。
そうして、彼女は呟く。
(……もう、いいかな)
嫌だ。もう無理。
こんな目に遭ってまで、こんなひどい思いをしてまで。
頑張りたくなんて無い。何かを目指したくなんてない。
最初っから、自分はああいう人たちとは違ったんだ。こうなるくらいなら……別に、執着しなくてもいいんじゃないかな。
冷え切っていく。色褪せていく。
意欲も、気力も。何もかも無くなって、これまで押し込めていた弱音が出てくる。
やだよ。
これ以上こんなことしたくない。もう疲れた。
何もする気が起きない。何でこんな思いしなくちゃいけないの。
──もう。楽に、なりたい。
「じゃあ、そうしてやろう」
その瞬間。彼女の弱音に応えるような、声が響き。
同時に、弱りきった彼女の心の壁を食い破って──良くないものが、流れ込んでくるのが、分かった。
◆
「血統魔法──『無明の恒星』」
そして、同刻。
悪夢に魘されるニィナ──の、枕元に立った大司教ヨハンが。
満を持して、自身の血統魔法を起動した。
血統魔法、『無明の恒星』。
効果は洗脳。発動条件は、自身の魔法を込めた魔力が一定量対象を侵食すること。
そして制約は──あまりに過剰な思考や性格の改変は不可能。
そう。この魔法単体は、エルメス達が予想した通り──一般的な思考改変系魔法の域を出るものでは無いのだ。抵抗も比較的容易く、実のところ全体的に見ればむしろ弱い部類の血統魔法と言える。
だが──ここで一つの事実を述べよう。
そもそも、魔法なんてなくても洗脳はできる。
ヨハンが所属している組織は教会、教えを広めることを目的とする組織である以上──『そういう手段』のノウハウも多く。ナンバーツーである彼は人よりも遥かに深いそれに対する造詣を持っていた。
物理的な洗脳の手法は数あれど、共通しているステップは二点。
一つ──まず相手の精神を徹底的に疲弊させること。
二つ──その上で、相手が望んでいる言葉を刷り込むこと。
そうして強引に……『神の言葉』を聞かせた経験も、彼は数多く持っていた。
そして、ある日。彼は気付いたのだ。
──これと自身の魔法を組み合わせたら? と。
効果は激甚だった。
通常の洗脳も、これまでよりも遥かに容易い手間でできるようになり。
加えて、双方の手段を手を抜かずに行った場合──魔法だけでは不可能なレベル、魔法では不可能な相手にまで、甚大な思考の書き換えができるようになったのである。
それこそが、直接戦力ではない大司教ヨハンの奥の手。未来予知と双璧をなす、ヨハンをこの立場にまで押し上げてきた切り札である。
──よって、今回。
イレギュラーとして、自身と同じ予知能力を持つに至ったニィナ。取るに足りない小娘だが同じ盤面に立てる存在であり、制約で縛っているとはいえ決して油断はできない相手。
その憂いを取り除くために──彼女を洗脳する、というプランは他と並行して進めていたのだ。
よりにもよって同じ思考改変系魔法持ちだったため、じっくりと手間をかけて。まずは彼女と交わした制約の干渉禁止を直接的なものに限定し、向こうが思考改変系魔法の常識に油断したのを突いて洗脳が通る抜け穴を作った。
加えて北部連合全体で彼女を冷遇し、味方のいない孤立した状況で毎夜のように最悪の未来を見る状態にすることで、少しずつ確実に精神を削っていったのだ。
無論、予知ではそんなことせずとも目的は完遂できる予定だったが……相手が相手だ、用心しておくに越したことはない。そうした準備がこれまで何度も自分を救ってきたことを、ヨハンはよく理解していた。
それが、今回も功を奏した。
まさかのリリアーナ、予想だにしない存在に予知を破られるという特大のイレギュラー。それによって当初のルキウスにエルメスを殺させるプランは崩れ、先ほどの予知では──決戦時、エルメスの突撃をどう足掻いても止められず敗北するという初めての地獄を見た。
故にここで、用心が生きる。
着々と準備を進めていた布石をここで解放し、ニィナを洗脳。そうすれば最早制約など何の役にも立たない。向こうに合意させ破棄させれば済む話だ。
そうして──ニィナに、エルメスを殺させる。
それこそが、新たな未来。同じ予知能力を持つニィナに察知させず、かつ向こうの虚を突いた、エルメスを確実に葬るための完璧な一手だ。
かくして、今回。
限界まで疲弊させたニィナの精神を崩す最後のひと押しとして用意していた──『対象に一度だけ悪夢を見せる』魔道具を起動した。
一度だけという限定的な効果だがそれも使い方次第。現にこうしてニィナの心を完璧に折り──今確かに、自身の魔法がニィナの心を侵食したのを確認した。
後は、魔法──魔法に込めた自身の思念が、ニィナの思考を都合よく書き換えてくれるだろう。今、ヨハンの勝ちは確定した。
ニィナは、エルメスの天敵だ。一対一でほぼ不意打ちに狙われれば、いくら彼とて為す術は無い。
……それに、と大司教は薄笑みと共に考える。
ヨハンは善意を信じていない。世界を動かすのは悪意だと信じており、そういう曖昧なものが他人同士を繋いでいるのを見ると完膚無きまでに壊さなくては気が済まない。
だから、今回ハーヴィスト領でそれを作ったあの連中を。
あの連中の中心人物であるエルメスが。あの連中が味方だと最後まで信じていたニィナに殺される、という皮肉極まる結末を迎えたら。
ああ、それは──とてもとても、愉快なショーになるだろう。
その瞬間を想像して笑みを深め、他に数多ある決戦準備に向かうヨハンの後ろで。
ヨハンの放った血統魔法が、弱りきったニィナの精神を、一切の抵抗を許さず蹂躙し尽くして──
──遂に、彼女の心の深奥。温かな場所に、触れた。
重め展開が続いて申し訳ない……!
次回、動きます。お楽しみに!




