42話 クライド
「謙虚に生きなさい」
クライド・フォン・ヘルムートが物心ついて、真っ先に父から言われたのはその言葉だった。
「我々は、他人よりも優れた力を持っている。故にこそその力に溺れず、驕らず、真に使うべき時に使う自律。そしてそれに偉ぶらない謙虚さが必要となるのだ。覚えておきなさい。それを忘れれば──必ずや、相応しい罰が下ることになるだろう」
「はい、ちちうえ!」
ヘルムート侯爵家は、この国の高位貴族にしては珍しく己の魔法をひけらかさない、父の言う通り非常に謙虚な性質を持った一族だった。
それはヘルムート家相伝の魔法の一つ、クライドにも受け継がれたとある血統魔法の異質性も関係していたのかも知れない。
この家は血統魔法を相当に徹底して秘匿し、王家とそれに関係する一部の家にだけそれを開示し。その秘匿性と何よりも魔法を使った際の確かな実力によって、所謂『影の強者』的な立ち位置をユースティア王国で築いていた。
その血を引き、ゆくゆくは家も継ぐべき存在として生まれたクライドも、その教えを十全に受け取った。
表面上は自らの魔法を軽々に開示せず、実力を誇示することなく粛々とした少年に成長した──表面上は。
だが、12歳の時。
彼の在り方は、決定的に歪むこととなる。
「ふざけるなよ、卑怯者の一族がっ!」
クライドが、城下町に買い物に出ていた時だった。
自分が欲しくて買った商品が、買った瞬間に丁度売り切れとなり。その直後にやってきた別の侯爵家子息が同じ商品を求め──売り切れであることに憤って、その場に居合わせたクライドにいちゃもんをつけてきたのだ。
つまり──『その品物を寄越せ』と。
当然、認められるはずがない。
クライドは反論した。相手の論理が支離滅裂であり、先に商品を購入した自分に所有権がある、こちらが正しいと当然の論理を告げた。
だが──不運なことに、その相手は典型的なこの国の貴族の悪面だった。
そしてクライドの家名を知った途端、先述のように罵ってきたのだ。
「……卑怯者の、一族?」
「そうだ! ヘルムート家など、誇り高き血統魔法に頼らずたまたま王家にうまく擦り寄れただけの、口先ばかりが回る卑怯者の一族だ! 血統魔法を秘匿しているなど嘘っぱち、どうせ大した魔法ではないのだろう!」
「──」
「この国では、魔法が全てだ! つまり侯爵家と言えど魔法を表に出せないお前がこの俺に逆らうことなんてありえないんだよ! いいからそれを寄越せ! 卑怯者の手でそれがこれ以上汚れたらどうしてくれる!」
「……ああ。なんて恥知らずな人なんだ」
それを聞いたクライドは躊躇いなく、相手をこき下ろした。
「いいかい? 僕たちは謙虚であるべきなんだよ。それが力を持つ貴族としてあるべき姿だ。……なのに君は何だい、品性の欠片もなく不当に相手を責め立てて、譲る精神など欠片も持ち合わせない」
クライドは、己の正しさを何も疑わなかった。
だって、そう教えられた。それで上手く行っていた。
だから、誤っているのは向こうだ。
自分が正しくて、相手が間違い。──だから何を言っても良い。
「全く、貴族失格だよ君は。そんな人間に差し出す道理など何も──」
その瞬間。
クライドの胸元に、どん、と強い衝撃が走った。
「──え」
突き飛ばされた。
その事実に思い至ると同時、クライドが尻餅をつく。
地面に座り込み、呆然と見上げる──そんな無様な姿のクライドを、突き飛ばした張本人である侯爵子息が、嘲笑と共に見下すと。
「……塵が」
そう一言だけ告げて、座り込むクライドから強引に品物を引ったくると、悠然とその場を去っていった。
到底許せるわけがなかった。
帰宅後、即座に父に報告した。
直ぐに父は対処してくれて、該当の侯爵家に抗議をした。その結果向こうも当然令息の行動を問題あるものとし、速やかに品物はクライドの手元に帰ってきて、向こうの令息から正式な謝罪も受け取った。
それにて、この問題は一件落着となる……はずだった。
だが、その晩。
自室にて──今日謝りにきた侯爵令息の不承不承と言った顔を思い返しながら──クライドは、こう、呟いた。
「…………これだけか?」
向こうは自分を……正しいことしか言っていない自分を支離滅裂な言葉で貶め、突き飛ばした挙句乱暴な手つきで自分のものを奪い取った。
肉体的にも、精神的にも、この上ない屈辱を受けたのだ。この自分が、あんな品性の欠片もない輩に。
なのに、向こうは品物を返して、一言謝って終了?
──その程度で、済ませて良いはずがないだろう。
こんなものは『相応しい罰』とは言えない。もっともっと酷く、酷く、酷な罰をあの令息は受けるべきだ。
そうでなければ、到底あの令息が犯した罪と釣り合わない。正しい人間を侮辱したのだ、更なる裁きを受けて然るべきだろう。
……ああ、願わくば。
(その罰は、被害を受けた僕が与えるべきだ。それが最も相応しいはずなのに──!)
できる。
自分の血統魔法を使えば、それは恐らく容易い。
……だが。それだけは、他ならぬ父から禁止されているのだ。
父から受けた教えと、父から与えられた制約の二律背反。その狭間で、クライドは悩み抜いた。
(ああ、どういうことだ。父上、謙虚でさえいれば全て上手くいくのではなかったのですか! 僕の魔法を裁きに使ってはいけないのなら──それこそ、何処か別のところから罰が下るべきでしょう!)
そして、彼はふと──こうも思った。
自分がやったとバレなければ良い。
誰にも疑われないほど緻密に、精密に、けれど確かに自らの手で罰を下せたのならばどれほどの快感だろう──と。
当然、彼自身それは無理な話だと理性で否定し即座に意識から外した。
だが、本能の部分。無意識の部分で、その願いは狂おしいほどに達成を求め、肥大化したエゴと共感して暴れ回り、そして。
『あの男を罰したい』。その『純粋な願い』が──彼の奥底に眠る血統魔法と反応し。
翌日。
──とある侯爵家令息が、謎の爆発事故に巻き込まれ、後遺症が残るほどの重傷を負った。
「クライドッ!!」
その報を聞いたヘルムート家当主、クライドの父親は真っ先に息子の元を訪れた。
そして、困惑と冷や汗を浮かべて問いかける。
「お前……何をした?」
「何もしていませんよ」
対するクライドは、あくまで涼やかに返答する。
「昨日の出来事だけで、僕の仕業と決めつけるのは早計でしょう。あまりに父上らしくない。それともなんでしょう、何か僕がやったという確たる証拠があるのですか?」
そして続けざまに放たれたその言葉に、口を詰まらせた。
……そうなのだ。
現状からして、最も怪しいのは確実にクライド。それは間違いないはずなのだ。
──なのに、彼が関与している証拠が何処にもない。彼は今晩確実に家から出ていないはずなのでアリバイも完璧だ。
クライドの父親は、当然彼の血統魔法の正体を知っている。
……そして、だからこそ分かる。分かってしまう。
彼が知る限りの、クライドの血統魔法は──『あんな真似』は絶対に出来ない。
それに加えて恐ろしいことに、彼が虚偽を述べている様子さえ一切無い。
なればこそ、認めざるをえないのだ。クライドが、現時点では完全に無罪であることを。
「……申し訳ございません、父上。僕は貴方を疑ってしまった」
そんな父親の動揺を他所に、クライドは心底嬉しげに父へと微笑みかける。
今までと同じようで──けれど決定的に、何処かが歪みきった笑顔を。
「あの傲慢な侯爵令息には、ちゃんと相応しい罰が下ったではないですか。やはり父上の言う通り──謙虚であることが一番大切なのですね!」
父親の誤算は二つ。
まずは、クライドに血統魔法を『使わせなかった』こと。そのせいで見抜くことが出来なかった──彼が本当は、ヘルムート侯爵家歴代最高、と呼んでもまだ足りないほどの魔法の天才だったことを。その才覚で、無意識下での血統魔法の発動すら可能としていたことを。
そして二つ目は、クライドの血統魔法を甘く見ていたこと。その魔法は高い才の持ち主が使えば大抵のことを可能にしてしまう、ある意味で最も恐ろしい魔法へと変化することに気づけなかったことだ。
その読み違いとこの国の悪い風潮を、クライドの心根に潜む邪悪が糧として。
怪物は誕生し、歪みは更に加速していく。
「謙虚であるべきなんだよ」
そこから彼は、自身の口癖を拡大解釈するようになっていった。
まずは自らの定義する『謙虚』を相手に押し付ける。どころか──相手に『謙虚』であることを強要し、自分だけはその恩恵に浴するようになっていった。
「僕はこんなに我慢しているんだよ? だから君もこれくらいのことは当然すべきだ。それこそが助け合いの精神だろう?」
「貴族は我を殺して民を支えるべきだ。それを知らないほど恥知らずじゃない君は、勿論これもやってくれるよね?」
「ああ、君はなんて傲慢なんだ! 貴族の精神を忘れてしまったんだね、でなければこんなことも我慢できないはずがない!」
聞こえばかりが良い言葉を雨霰と浴びせかけ、相手を好き放題動かして。
一方で自分は、それと比べればあまりに些細な我慢をあたかも最大限の譲歩のように飾り立てて、偽りの平等を演出する。
当然、そんな彼に反発する者も出た。
それは間違っていると、真っ向から指摘してくれる人間も居た。
──その全員に、罰が下った。
いつしか、彼に反抗する人間はいなくなり。
ますます自身の正しさを確信した彼は、更なる歪みへとのめり込んでいく。
「俺に仕えろ。貴様の魔法は有用だ、俺がこの国のために最大限活用してやろう」
第二王子アスターに側近として見出された後も、その傾向は止まることなく加速した。
どころか、アスターにさえその傲慢さ故の不満を内心で持ち始める始末だった。
……けれど、仮にもこの国の王子であり次期国王の最有力候補。加えて自分の魔法を知っており、評価してくれている。
その件に免じて、クライドも今回ばかりは多少の不満を飲み込んで仕え続けた。それこそが『謙虚』だと解釈して。
──しかし、それも。
アスターがとある少女を見初めた瞬間、壊れることになる。
一目で目を奪われた。
光を放っているように鮮やかなブロンドの髪。吸い込まれるような蒼い瞳。
穏やかで優しげな美貌に、完璧なプロポーション。
そして何より、彼が他人に求める『謙虚』を完璧に再現したかのようなその控えめな性格。
サラ・フォン・ハルトマン。
アスターが見初めた二重適性の少女は、側近であるクライドの心も奪い去った。
本来ならば、当然身を引くべきだ。
だが──クライドの膨れ上がった自己がそんなことを甘んじて受け入れるはずなど当然無く。
そうなると、今までは我慢できていたアスターの傲慢な部分がどうしても鼻につくようになる。
──やはり殿下はあまりにも自分勝手が過ぎる。
そしてサラ嬢はそんな殿下にも献身的に尽くしてしまう。あれでは殿下は増長するばかりだ。
彼女は、もっと彼女の謙虚の価値を分かっている人間のものになるべきなのに。
ああ、いけない。
いくら殿下と言えど、そうまで傲慢でしかありえないのならば、やはり──
──と、彼は今まで祈った。これまでもそうだったように、きっと誰かが、と祈り続けた。
……そしてその祈りは通じ、アスターはかつての婚約者だった魔法使いに負け、守るべき民を見捨てて魔物から逃げ回る醜態を晒した。
あのいけ好かない第二王子は、この上なく無様に破滅してくれた。
絶望の表情で裁判所へと運ばれていくアスターを見やって、クライドは歪み切った笑みで告げるのだった。
「──ほら、罰が下ったんですよ」
彼は人生の絶頂を迎えた。
最早自分の栄達の足を引っ張るものはいない。自分に相応しい令嬢との間を邪魔する存在もいない。
自分はアスターとは違う。自分はこの国に足りないものを知っている。
謙虚であること、互いに協力し合うことこそ大事だと説こう。そうして僕が中心となってこの国を変えていくのだ。
その未来図を一切疑うことなく、彼は意気揚々と後期が始まった学園へと足を向けて。
◆
そして、現在。
「どういうことだ……ッ!!」
クライドは、この上なく追い詰められていた。
どうしてだ。
どうして、この期に及んでまだ自分の邪魔をする奴がいなくならない。
どうして、自分の前には分を弁えない傲慢な連中ばかりが現れる。
そして、何より──
「──どうして、あいつに罰が下らないんだ……ッ!!」
エルメス。
順当に勝利するはずだった対抗戦を卑劣な手段でねじ曲げ、本来ならば自分が為すはずだった学園の改革を間違った方向で成し遂げ、自分が得るはずだったサラからの信頼も口八丁で掻っ攫っていったあの男。
これほどの悪行を重ね、こんなにも傲慢に振る舞っているあいつが──何故未だ罰せられないのだとクライドは嘆く。
それどころか逆に、彼の主人であるカティア・フォン・トラーキア。彼女の奸計によってクライドの方が追い詰められている始末。このままでは早晩彼はヘルムート家諸共破滅する。
あの女も早々に罰せられるべきなのに──これも、一向にその気配がない。
「それだけじゃない……!」
罰せられないのは、エルメスとカティアだけではない。
以前、三人の末路を見せたにも関わらず身の程知らずにも噛み付いてきたAクラス生──彼にも当然罰が下るべきなのだが……何故かあいつもエルメスが護衛についてから、裁きが下りないのだ。
「どう言うことだ! まさか、まさか……あいつの力が『罰』を受け付けないほどに強いとでも言うのか!? 馬鹿な、そんなことはありえないッ!」
ありえないと一蹴した、その推測こそが真実だった。
クライドのやっていたことは、自分以外の誰かを装った無意識下での血統魔法使用による攻撃。
つまるところ──『隠れて私刑を執行していた』だけだ。
そんなものは、自分の手に負えない人間。自分より優れた能力を持った人間が出てきた時点で破綻する。
それこそがエルメスであり、カティア。彼程度では太刀打ちできない、本物の魔法使いたち。
彼らが出てきた時点で、クライドの結末は決まっていた。
彼一人でエルメスたちをどうこうする手段は無い。そして彼の言っている『罰』のからくりも、先走って件のAクラス生に執行しようとしたところをエルメスに防がれ、そこから逆算する形で既にエルメスに把握されている。
結論は、詰み。
明日にでも、学校にやってきたエルメスたちが公衆の面前でクライドのこれまでの行いを暴き、カティアの仕掛けた爆弾も避ける術がなくなって破滅。
「何故だぁあああああああッ!」
自らを無謬で偉大な何かと思い込み、かつての主人の過ちを避けようとして結局同じ轍しか踏めていない小物中の小物。
その結末はもう、どうしようもなく決定されていた──
──はず、だった。
「ああ、可哀想に」
そう言った小物の取れる結末は、大別して二つ。
一つは順当に、何も為すことが出来ずに破滅すること。
そしてもう一つは──より巨大な何かに、都合よく利用されてしまうこと。
クライドにとって、不幸なことに。
彼の結末は、後者だった。
「この国をあるべき方向に導こうとした貴重な勇士が、邪悪な敵手に阻まれてこんなところで道を閉ざされようとしている」
暗闇から響くは、流麗な男の声。
「悲しいなぁ。誰にも見てもらえずこんなところで破滅してしまうなんて。
──でも大丈夫。『俺たち』は、ちゃんと見ていたよ」
響きは美麗だが、どこか感情がこもっておらずに空虚なイメージを受ける声。
有り体に言えば、胡散臭いことこの上ない。
「ここまで追い詰められてもまだ、自分の正しさを信じることができる。俺は、君のその心の在り方に敬意を表そう」
……だが、クライドは引き寄せられてしまう。
言葉の真偽を判別できるほどの判断力がもうないから。
そして何より──彼の語っている言葉の内容が、跳ね除けるにはあまりにも甘美に過ぎたから。
「君のいるべき場所は、そこじゃない」
そんなクライドの期待に応えるように、声は都合の良い言葉を紡ぐ。
そして遂に暗闇から現れるは、精悍な顔立ちをした二十半ばほどの男。
彼は恐ろしく端正な笑みと共に、緩やかにクライドの方に手を伸ばす。
「……君が、一番輝ける場所を用意してあげよう。だからさ、こっちに来ないかい?」
その手を拒むだけの理由は、もはやクライドの中には残っていなかった。
かくして、彼らは向き合うことになる。
王国の闇。真に邪悪で、破滅的で、けれど高潔な意志を持つもの。これまで見えなかった、姿を見せなかった大きな存在に。
まずは、彼らに対する憎悪と復讐心を尖兵として取り込んで。
──始まりの大事件が、幕を開ける。
いよいよ次回より、二章後半メインイベントにして。
そして、三章にも繋がってくる一大エピソードが始まります!
まずは二章終了まで駆け抜けていきますので、是非この先も読んでいただけると嬉しいです!




