94 彼女の思い出
母の記憶はおぼろげだ。
優しく抱きしめてくれたり、語り掛けてくれたような記憶はある。
だが、その顔を思い出そうとするとすぐに記憶は霧散してしまう。
彼女はヴォルフを置いてどこかに行ってしまった。
その時はまだ母が死んだということがわからずに、ヴォルフはずっといなくなった母を探していた。
兄たちや使用人のラウラが構ってくれたが、それでもヴォルフは寂しかった。
母に会いたい、その思いは決して消えることはない。
「ぼくのおかあさんって、どんなひとなの?」
「んー? お前のお母さんか……すっごい美人だよ!」
ジークベルトはよく母のインヴェルノのことを話してくれた。
その話を聞くたびに、母に会いたいという思いはどんどん強くなっていく。
あれは、おそらくヴォルフが4、5才の頃だっただろうか……ある日、ラウラの目を盗んで母を探しに出かけたことがあった。
決して屋敷から離れてはいけないと強く言い聞かされていたが、寂しさと好奇心には勝てなかった。
母はどこかに隠れているだけで、探せば見つかるのではないか。そんな幼い考えでヴォルフはあてもなく歩き出したのだ。
見慣れた屋敷を離れ、ひたすら歩いていくと、綺麗な花が咲き乱れている場所にたどり着く。
「うわぁ……!」
別館とその周囲しか知らないヴォルフにとっては、それは未知の世界だった。
夢中になって花の咲く庭園を進む。
そして、茂みをくぐってたどり着いた先に、その人はいた。
周囲を薔薇の迷路に囲まれた、小さな空間。
白く美しいテーブルの上には紅茶とお菓子。傍らの椅子には、物憂げな表情を浮かべた美しい女性が腰かけていた。
彼女はたった一人で、物思いにふけるように目を閉じていた。
その姿に、ヴォルフは釘付けになる。
ジークベルトはヴォルフの母のことを「すごい美人」だと言っていた。
そして、目の前の女性も見たことのないほどの美人だ。
「……おかあさん?」
気がつけばそう口走っていた。
その瞬間、目を閉じていた女性が驚いたようにこちらに視線を向ける。
「あなたはっ……」
彼女がヴォルフの母なのだろうか。
どこか違う気がする。だが、ヴォルフはふらふらと彼女に近づいていた。
「……ぼくの、おかあさんですか?」
おそるおそるそう問いかけると、彼女は何かを耐えるようにぎゅっと眉を寄せた。
そして、そっとヴォルフの頭を撫でてくれた。
「……いいえ、違うわ」
そう言って、彼女は困ったように首を横に振った。
……彼女は、ヴォルフの母親ではなかった。
心のどこかではわかっていたが、幼いヴォルフはそれだけで悲しくなってしまう。
「うっ、ふぅっ……」
「……ごめんなさい、泣かないで。いい子ね…………」
ぐずぐずと泣いていると、女性が立ち上がりヴォルフの前に屈みこむ。
そして、そっと抱きしめてくれた。
……どこか懐かしいぬくもりだった。
その途端今まで耐えていたものが溢れ出して、ヴォルフはわんわんと泣いてしまった。
その間、女性はずっと優しくヴォルフの頭を撫でてくれていた。
「ほら、もう泣かないで。あなたは強い子だから」
「つよいこ……」
「泣き止んだ子にはお菓子をあげるわ」
お菓子、という言葉は、幼いヴォルフにとって何よりも魅力的だった。
ごしごしと目をこすると、女性は笑ってヴォルフを抱き上げ、空いていた椅子に座らせてくれる。
「ふふ、どうぞ」
女性がヴォルフの前にクッキーを差し出す。
おそるおそる顔を上げると、彼女はゆっくりと頷いた。
そっとクッキーを手に取り、口に運ぶ。
「……おいしい」
「もっと食べてもいいのよ」
一口、二口とどんどんクッキーを口に運ぶ。
確かにそのクッキーは美味しかったが、似たようなものはヴォルフも何度か口にしたことがある。
それでも、その時よりもおいしく感じられるのは、きっと目の前の女性がくれたものだからだろう。
そっと顔を上げると、女性はじっとヴォルフのことを眺めているようだった。
優しげな……なのにどこか悲しそうな笑みを浮かべて。
どうしてそんな顔をするんだろう、
そう聞こうとしたその時、どこかから声が聞こえた。
「……様、いらっしゃいますか?」
その途端、女性の顔が強張ったのにヴォルフは気がついた。
「……行かなきゃ」
彼女はヴォルフを抱き上げ椅子から降ろすと、ヴォルフがやってきた茂みの方を指差す。
「……そろそろ帰りなさい。もうここに来てはダメよ」
何度も促され、ヴォルフは茂みをくぐるようにしてその場所を後にする。
だがどうしても気になって、茂みの隙間から覗いてみる。
重なり合う葉の向こうに、先ほどの女性に加えてもう一人、見知らぬ女性が立っていた。
「奥様、こちらにいらしゃったのですね!……どなたかご一緒だったのですか?」
「いいえ、私一人よ。そろそろ戻ろうと思っていたところなの」
やって来た女性に連れられて、彼女は去っていく。
その背中を、ヴォルフはずっと見つめていた。
◇◇◇
彼女はヴォルフの母ではない。
それでも、とても優しく、綺麗で温かい人だった。
もう一度彼女に会いたい。その思いに引かれるように、ヴォルフは時折ラウラの目を盗んでは彼女に出会った薔薇の薗に行ってみることがあった。
たいていは誰もいなかったが、たまに、最初に出会った時のように彼女がたった一人でその場所にいることがあった。
「……また来てしまったの。もうここに来てはダメだと言ったでしょう」
ヴォルフが顔を見せるたびに、彼女はどこか悲しそうに笑いながらそう囁いた。
それでも、彼女はヴォルフを追い払うような真似はしなかった。
「ぼくは、おかあさんをさがしてるんです」
「…………そう」
母を探していると伝えると、彼女はひどく辛そうな顔をしていた。
どうしてそんな顔をするんだろう。……一度でいいから、彼女の心からの笑顔が見たい。
ヴォルフはそう願いながら、その美しい女性の元に通い続けた。
だが、そんな日々は長くは続かなかった。
いつものようにヴォルフは女性の元に行き、彼女も微笑みながらヴォルフにお菓子を勧めてくれていた。
そんな時、にわかに足早にこちらに近づいてくる足音が聞こえた。
彼女は慌てたようにヴォルフを帰そうとした。
だが、その前に何人もの人間がやってきてしまう。そして彼らはヴォルフの姿を認めると、小さく悲鳴を上げたのだ。
「……奥様!」
「そいつは……まさか氷姫の!」
「奥様から離れろ化け物!!」
その中の一人に強く腕を掴まれたかと思うと、次の瞬間ヴォルフは座っていた椅子から地面に引きずり落とされていたのだ。
「いたっ……」
「なんであんたみたいな化け物がここにいるのよ!!」
ヴォルフにはまったく何が何だかわからなかった。
だが、その強い言葉が自分に向けられているということだけはわかる。
引きずり落とされた際にぶつけた箇所が痛む。何よりも、何人もの大人によってたかって怒鳴られるという状況が恐ろしくて、ヴォルフは固まってしまった。
「おやめなさい! 相手は幼い子供ですよ!?」
「しかし奥様、こいつはあの女の……化け物の子供です!」
「まったくなんで閣下もこんな奴を城に置いているのか……」
女性が慌てたようにヴォルフを抱き起してくれる。思わずその体にしがみつくと、すぐに周りの人間によって引き離されてしまう。
「奥様に触るな! 汚らわしい……」
「さすがは売女の子供だな!」
「やめなさいと言っているでしょう!……この子は偶然ここに迷い込んだだけです。あなた、この子を……氷姫の館に送ってあげて頂戴」
「承知いたしました、奥様」
女性の言葉を受けて、今まで黙って後ろに控えていたメイドが進み出てくる。
「さぁ、戻りましょう」
メイドはヴォルフを立ち上がらせると、その背を押すようにしてこの場から離れさせようとしているようだった。
「あ、あのっ……!」
ヴォルフは必死に女性の方を振り返る。
彼女は今までに見たこともないほど悲しそうな顔をすると、小さく声を絞り出した。
「……もう、ここには来ないで」
それは、はっきりとした拒絶だった。
ショックでどこをどう通ったのかもよくわからないまま、気がついたらメイドに連れられて見慣れた別館の近くまでやってきていた。
そこで、ヴォルフの背を押していたメイドの足がぴたりと止まる。
「あ、あの……」
どうしようかと顔を上げてヴォルフは固まった。
そのメイドは、不愉快極まりないといった険しい顔でヴォルフを見降ろしていたのだ。
「……んで」
「ぇ…………?」
「なんで、あんたが奥様の傍にいたのよ!」
「ひっ……!」
急に豹変したメイドに大声で怒鳴られ、ヴォルフは思わず身を竦ませた。
「汚らわしい……化け物の、あの女の子供の癖に気安く奥様に近寄ってんじゃないわよ……!」
メイドの言っている言葉の意味はよくわからない。
だが、ヴォルフを傷つける言葉だということはよくわかった。
「あんたとあんたの母親のせいで奥様がどれだけ傷つかれたかわかってんの!? この恥知らずが!」
「おくさま、って……」
「しらばっくれんじゃないわよ! 気持ち悪い化け物の分際で!!」
ばけもの、それは絵本の中に出てくる怖い怪物だ。
目の前のメイドは、ヴォルフのことを化け物だと言っているのだろうか。
「ぼ、ぼくはばけものじゃ……」
「あの氷姫の子供なら化け物に決まってんでしょ! せっかく氷姫は死んだのに、あんたが、あんたなんかがいるから……また奥様は…………」
メイドは射殺しそうな視線でヴォルフを睨みつけると、憎悪を滾らせて叫んだ。
「……あんたなんて、生まれてこなければよかったのに!!」
――生まれてこなければよかった。
真っすぐにその言葉が心に突き刺さる。
その言葉の意味は、幼いヴォルフにも理解できてしまった。
「……さい」
そうか。自分は生まれてきてはいけなかったのか。
だから、母はヴォルフを置いてどこかに行ってしまったんだ。
だから、この人たちはヴォルフを怒るのだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
その場にしゃがみ込み、ただひたすらにそう繰り返す。
「なによ……わかったならもう二度と奥様に近づかないで!!」
メイドはそれだけ言うと小走りで去っていった。
その姿が見えなくなっても、ヴォルフはひたすらその場にうずくまっていた。
やがてヴォルフを探しにラウラがやってくるまで、ヴォルフはただひたすらに誰に対してかもわからない謝罪を繰り返していた。
……それからは、あの美しい庭園に近づくことはなくなった。
成長するにつれて、あの時向けられた言葉の数々の意味が理解できるようにもなった。
そして、あの女性が誰だったのかも。
彼女――エルフリーデからすれば、憎い妾の子供が纏わりついてきてさぞかし苦痛だったことだろう。
それでも彼女は力ずくでヴォルフを排除しようとはしなかった。それだけできた人間だったのだろう。
彼女の周りの者が怒って当然だ。ヴォルフの存在自体がエルフリーデを苦しめているのに、その元凶が大事な奥様に近づくなどと決してあってはならないことだ。
――生まれてこなければよかった。
それも、きっと真実なんだろう。
ラウラや兄たちはそれなりにヴォルフを可愛がってくれる。
だが、きっとそれ以外の多くの者が……父ですらもヴォルフのことを疎ましく思っているはずだ。
「……母さん」
もう顔も思い出せない母親に問いかける。
どうして自分を産んだのか。
……どうして、先に死ぬのなら一緒に連れて行ってくれなかったのか、と。
やがて時が経ち、ヴォルフの扱いに困った父はヴォルフを遠く離れた叔父の城へと預けることに決めた。
ジークベルトは反対していたが、ヴォルフはその話を受け入れた。
……自分がここからいなくなることで、少しでもエルフリーデが心穏やかに過ごせるのならばそれでいい。
…………いっそ、本当に消えてしまうのもいいかもしれない。
「……ルフ、ヴォルフ!」
どこかから聞きなれた声が聞こえる。
そっと目を開けると、まばゆい金と深い蒼が目に入る。
「珍しいな、お前がうたたねするなんて。でもそんな薄着じゃ風邪ひくぞ?」
毛布を手に持ったクリスが、苦笑しながらヴォルフを見降ろしていた。
……そうだ。エルフリーデの姿から目を逸らすように逃げ出し、部屋に戻ってきて気がついたら眠っていたようだ。
……随分と、昔の夢を見た気がする。
「……クリスさん」
呼びかけると、クリスはぱちくりと目を瞬かせた。
「なに?」
「僕は、生きてていいんでしょうか」
気がついたらそう口に出してきた。
クリスが驚いたように目を見開き、ヴォルフはやっと己の失言を悟る。
「え、いやあの今のは……」
慌てて取り繕おうとすると、ふわりと肩に毛布が掛けられた。
そして、毛布越しに優しく抱きしめられる。
「……俺にはお前が必要だよ」
暖かなぬくもりが、優しい言葉が、すっと心に染み込んでいく。
幼い頃、ずっと欲しかったものが……今は手を伸ばせばすぐそこにある。
……この人がいるから、生きていける。
手を伸ばし、ヴォルフは目の前の存在に強くしがみついた。




