93 ヴァイセンベルク家の家庭事情
ヴァイセンベルク家の当主様とその奥様が帰ってきて、城内は明らかに空気が変わった。
どこかピリピリしてるというか、ぴしっとしてきたというか……。
「お前も気をつけろよ。ヴォルフリートをよく思ってない奴らからしたらお前なんてあいつを引きずり落とす格好の餌食だからな」
いつもとは違う人気のない道を通って本館へと進む途中、一緒に来ていたヨエルはぼそりとそう呟いた。
「ヴォルフをよく思ってない人って、そんなにいるの?」
「そりゃあそうだろ。この辺りでは婚外子への風当たりは強い。それに……奥方やその周りの奴らからしたら目障りでしょうがないだろうな」
「うーん……」
別にヴォルフは悪いことなんてしてないのに、そんな風に嫌われなきゃいけないのってなんか可哀そうだ。
俺が納得していないのを悟ったのか、ヨエルは小さくため息をつく。
「……仮に、お前とヴォルフリートが結婚したとする」
「けけけ結婚!? な、何言ってんだよそんなの……」
「馬鹿、仮定の話だから真面目に聞け。なに照れてんだ」
一瞬想像してしまって盛大に恥ずかしくなったが、ヨエルは別に俺をからかおうとかそういうつもりじゃないようだ。
自然にゆるゆると緩む頬を押さえ、赤くなっているであろう顔を上げる。
「お前は一生懸命ヴォルフリートに尽くしてきた。だがある日、あいつが別の女に入れ込み、子供を産ませた」
「え…………?」
「……仮定の話だからな。お前はどう思う。その子供がお前の近くにいたら、愛せると思うか」
ヴォルフが他の人を好きになる。
俺にするみたいに優しい言葉をかけて、口付けて、抱きしめて、そして……
……駄目だ。
そう想像しただけで、心の奥底からどろどろとした黒い感情が湧き上がってきそうになる。
「……少なくとも、平常心ではいられねぇだろ」
「うん……」
ヴォルフと別の女性の間にできた子供。
ヴォルフの血を引いているけど、そんな子が近くにいたら……
「……わかんないよ」
その子に罪はない。それはわかってるけど……優しくできるかどうかは、正直わからなかった。
「ヴァイセンベルク家の奥方とヴォルフリートはそういう間柄なんだ。今のところ、双方衝突を避けようとしてるみたいだな。特にヴォルフリートは、奥方に対しては異常なほどに気を遣ってる……というかできるだけ視界に入らないようにしてるみてぇだな」
「そんなの……」
「それが最善だと思ってるんだろ。だったら俺たちが口を出すことじゃない」
「うん……」
ヴォルフは何も悪くない。
でも、当主様の奥さんの立場からしたらヴォルフの存在が邪魔だって言うのも、わからなくはない。
「特に貴族の女なんてプライドの塊だからな。嫡子を産めなかったならともかく、既にジークベルト様とマティアス様がいる状態で他の女に手を出してんだ。奥方からしてみれば自分の存在も、今までの努力も全部コケにされたと思っても仕方ないだろ」
「……ヴォルフのお母さんが何でここに来たかって、ヨエルは知ってる?」
「知らねぇよ。その話はここでは禁句だ。お前も不用意に嗅ぎまわるなよ」
「わかってるよ……」
ここに来てから俺は今まで、ヴォルフの立場で物事を考えることが多かった。
だから、ヴォルフが理不尽に辛い目にあうのは酷いと思っていた。いや、今でも思っている。
でも……ヨエルの話で、当主様の奥さんの気持ちも少しわかってしまったんだ。
「……貴族って、難しいね」
「いっそブラウゼー家みたいに庶子がうようよいたらヴォルフリートもそんなこと気にしなくて済んだかもな」
「でもリネアはリネアで苦労してたみたいだし」
ヴォルフのお父さんとその奥さんがどうなのかは知らないけど、貴族なら望まない相手と結婚しなければならないこともあるんだろう。
その後で、他の相手を愛してしまうこともあるんだろうか。
……ヴォルフも、いつかはどこかのお嬢様と結婚したりするのかな。
もしそうなっても、俺は冷静でいられるんだろうか。
ちゃんと、ヴォルフや奥さんに仕えて、その子供を愛することができるのかな……。
「……おい、泣くなよ。俺があいつに問い詰められるだろうが」
「泣いてないもん……」
ちょっと目が熱くなっただけでまだ泣いてない。
そんな思いを、奥様……ジークベルトさんやマティアスさんのお母さんは味わってきたのかな。
◇◇◇
「……北の方が、少し騒がしいと。おい、聞いているのかヴォルフリート」
そう呼びかけられ、物思いにふけっていたヴォルフははっと顔を上げた。
視線の先では、次兄のマティアスが冷たい目でこちらを睨んでいた。
軽く謝罪すると、彼は呆れたようにため息をつく。
「すみません……」
「どした、寝不足? 昨日も遅くまでクリスちゃんと遊んでたのか?」
長兄のからかうような言葉もあまり耳に入らない。
ヴォルフがおざなりな返答を返すと、二人の兄は顔を見合わせた。
「重症だね」
「まぁ、わからんでもないが……」
そんな会話も耳を通り抜けていく。
気がつくと、あの人のことを考えている。
――エルフリーデ・ヴァイセンベルク
ヴォルフのことを疎ましく思っているであろう、あの貴婦人のことを。
「ミューレンとトレーマの間を結ぶ街道に、厄介な盗賊の集団がすみ着いたそうだ。ベルガー公より討伐の援護要請があった」
「ヴォルフ、行ってみない?」
「え?」
「……お前も、しばらくここにはいたくないんじゃないの?」
ジークベルトの心の奥底を見透かすような言葉に、ヴォルフは内心でため息をついた。
どうやら、ヴォルフの不調もその原因も兄たちにはお見通しだったようだ。
「……盗賊退治って、どのくらいかかるんですか」
「さぁ、その時の状況によると思うけど……でも帰りたくないからって無駄に引き延ばすなよ」
「そんなことしませんよ……」
ジークベルトの言う通り、ここに居たくないのは確かだ。
……父と、その奥方。それに彼らに付き従う臣下や使用人たちがこの地に戻ってきた。
ヴォルフにとっては、居心地悪いことこの上ない状況だ。
父とは、何を話せばいいのかわからない。昔からそうだった。
きっと、それは父も同じことを思っているだろう。
やたらと構ってくるジークベルトや、態度は冷たくともそれなりに気を利かせるマティアスと違い、彼がヴォルフの存在を持て余しているのは明らかだ。
いっそもう一度家出して姿を消した方が喜ぶのではないか。ヴォルフは秘かにそう思っていた。
父の臣下、ヴァイセンベルク家に仕える重鎮たちの中でも、あからさまにヴォルフの存在を鬱陶しく思う者はいる。
そして何よりも……エルフリーデの存在だ。
父と、もういない母に対してはヴォルフは複雑な感情を持っている。
だが、エルフリーデに対しては申し訳ないという思いしかなかった。
ヴォルフが生まれたことで、エルフリーデは傷つき苦しんでいる。それはヴォルフもよく知っていた。
自分の存在が誰かを傷つけ続けている。
それは、ヴォルフにとっては耐えがたい苦痛だった。
――どうして、自分はこんなところに生まれたのだろう。
――どうして、父と母は自分を産んだのだろうか。
それは、何百回と考え、結局答えの出ない問いかけだった。
ヴォルフが生まれなければ、きっとヴァイセンベルク家はもっと穏やかな場所であったのかもしれない。
『この街の美しい風景を見るたびに、少し悲しくなります。私は、この美しい街の汚点なのではないかと』
あの時……どうしてあんなにリネアに苛立ったのか、今ならわかる。
その言葉が、まるでヴォルフ自身に向けられたかのように思えたからだ。
知らず知らずのうちに彼女の言葉にヴォルフの心は傷ついていた。
だから、ついリネアを傷つけるような言葉を吐いてしまったのだ。
雪の国ヴァイセンベルク。その美しい純白の地に、自分の存在はただの汚点でしかないのだろう。
「じゃあ詳細は追って伝えるから。それまではゆっくりしてなよ」
珍しく気遣うような言葉を掛けられ、ヴォルフはふらふらと立ち上がった。
いつのまにか盗賊退治に向かうことが決まっていたようだが、それも気にならない。
今はただ、この張りつめた心を休ませたかった。
できるだけ人気のない廊下を選んで進む途中、ふと窓の外から笑い声が聞こえた。
あれは……ステラの声だ。
自然と視線がそちらを向き、そこに見えた光景に思わずヴォルフは息をのんだ。
「それでね、みんながほめてくれたの! さすがはヴァイセンベルクの子だって!」
ステラが興奮した様子で身振り手振りを交えながら、自分が褒められ嬉しかったことを伝えようとしている。
微笑んでその話を聞いているのは……まさにヴォルフを悩ませている存在――エルフリーデだった。
ヴォルフと相対したときの氷のような表情とは違う、愛しい者を見る優しく穏やかな顔で、彼女はステラの話を聞いているようだった。
……すぐに立ち去るべきだ。
もしヴォルフがその光景を見ていることが知られれば、エルフリーデは気分を害するだろう。
それでも、どうしてもその光景から視線が外せない。
エルフリーデはヴォルフを疎ましく思っている。憎んですらいるのかもしれない。
それでも……ヴォルフは彼女が嫌いではなかった。どこか憧憬のようなものを抱いてすらいた。
……だからこそ、ヴォルフは許せなかった。
かつて自分が、深く彼女を傷つけてしまったことに。




