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90 謎の紳士

「あっ、クリスさん。元気になったんですね!」


 花壇の雑草をぶちぶち抜いていると、通りがかった森番の少年、ニルスが嬉しそうに声をかけてきた。

 こいつは俺のいない時にここの花壇の手入れをしてくれている。まぁ、まだ雑草ばかりで手入れって感じじゃないんだけど……。


「うん、さぼっててごめんな」

「いえいえ、風邪って長引くと大変ですもんね」


 あのイリーナの事件から数日。別になんともなかったのだが俺はヴォルフに絶対安静を言い渡されていた。

 その間貧血に効果があるという料理ばかり食べさせられて、やっと今日仕事に戻る許可が下りたところだ。

 もちろん吸血鬼に血を吸われすぎて死にかけました、なんてことは言えないので、ヴォルフは周囲には風邪だということで押し通したようだ。少なくともニルスはそんな嘘を信じているようである。


「ヴォルフリート様もずっと怖い顔してて……よっぽどクリスさんのこと心配してたんですね。やっぱり浮気なんてしてなかったんですよ!」


 それは、あのイリーナの件を気にしてるんだろう。

 自分と同じ吸血鬼が何人もの人を襲い、俺のことも殺そうとした。ヴォルフは今でもそのことをかなり気にしてるっぽいんだよな。

 ニルスは慣れた仕草で鍬を振るいながら、べちゃくちゃとどうでもいい話をしている。


「そういえば城下に新しいパン屋ができたの知ってます?」

「え、いつ?」

「クリスさんたちがエンテブルクに行ってる間ですね。おいしいって評判で毎朝長蛇の列ができてるらしいんですよ~」

「へぇ、どこにあんの?」


 ニルスが教えてくれた場所を頭の中に刻み込む。

 そうだ、暗いことばっかり考えてても仕方がない。どうせなら少しでも楽しいことを考えよう。

 俺まで暗い顔してたら、屋敷中にキノコが生えてきそうだからな!


「ありがと、後で行ってみるよ」

「プレッツェルがおいしいんですよ。あとは……」


 果てしなくどうでもいい話をつづけながら、俺たちは花壇の手入れを続けた。



 ◇◇◇



 ニルスにいい話を聞いたので、さっそく街に繰り出すことにした。

 一瞬、前に裏通りで襲われかけたことが頭をよぎって体が震えたけど、すぐに思い直す。

 表通りなら、今まで何回も一人で出かけている。馬鹿な行動さえとらなければ、何の心配もないはずだ。


「ヴォルフたちにも、プレッツェル買ってきたいし……」


 よし、大丈夫!

 待ってろよ、人気パン屋!

 自分を鼓舞して、街へ足を進める。



 そして、今俺の腕の中にはおいしそうに焼けたパンたちが!

 袋の隙間から食欲をそそる匂いが漏れてくるような気がして、お腹がぐぅ、と音を立てそうになる。

 いかんいかん。一流のメイドたるもの、ご主人様のために買ったパンを路上で歩き食いなど許されないのだ……!

 でも、ちょっとだけならいいかな……と欲望に負けかけた時だった。


「おいおい、人にぶつかっといてその態度はなんだぁ?」

「済まない、といってもぶつかってきたのは君の方からだったと思うのだが……」

「あぁん? やんのかゴルァ!」


 前方から不穏な声が聞こえてくる。見れば、何人かの人相の悪い奴らが一人の男性に絡んでいた。

 洒落た帽子をかぶった、身なりの良い男性だ。ぱっと見ただけでも、どういう状況なのか察しがついてしまう。


「おいおい、腕骨折したかもしんねーわ」

「それはいけない。すぐに医者に行かなければ」

「だからその金よこせつってんだろが!!」

「だが、まずは医者に掛からなければ治療費もめども立たないだろう」

「あぁん、ごちゃごちゃ言ってんじゃねーぞオラァ!」


 ……どうみても当たり屋、恐喝だ。

 周りの人も関わり合いになりたくないのか、顔を伏せるようにして通り過ぎるか、安全な場所から遠巻きに見守っている。運悪く、近くに巡回の兵はいない。

 このままだと、あの男性がカツアゲの被害にあってしまう。

 なんとか、しないと。


 一歩足を踏み出しかけて、体が固まる。

 ……少し前も同じように飛び出して、酷い目にあった。


『……わかれよ。俺たちの知らない所でお前に何かあったりしたら……後悔してもしきれねぇだろ』

『……もう、こんなことはやめてください。そのうちショック死しそうだ』


 俺だってわかってる。賢い人間なら、ここで馬鹿みたいに飛び出したりしない。

 遠くで見守るか、こっそりと巡回兵に知らせるかするのが最善だ。

 でも……それでは間に合わないかもしれない。あの人は前の俺みたいな目に合うことはないだろうけど、表通りでも騙されて殴られて、身ぐるみはがされたりくらいならあるかもしれない。

 ……今なら、まだ間に合う。


「じゃあこっちこいよ、おっさん」

「医者に行くのかね? はて、こちらに施療院はあっただろうか……」


 男性が連れていかれようとしている。心臓がどくどくと鳴って、足が震える。

 行かなきゃ、でも、行けばまたひどい目に合うかもしれない。

 だからって、あの人を放っておくのか……!?


 ぎゅっと目をつぶって……気がついたらその場から駆け出していた。


「やめて、ください……!」


 必死に連れていかれかけていた男性を庇うように前に出る。

 その途端、いくつもの視線がこちらへと向けられたのがわかった。


「あぁん? 何だてめぇ……」

「こんなの、やめてください! すぐに、巡回の兵がやってきますよ……!」


 震える声で、なんとかそう絞り出す。もっと毅然とした態度を取りたかったのに、どうしても怖くて涙が出そうになってしまう。

 男たちは虚を突かれたような顔をしていたが、飛び出してきたのが弱そうな若い女だとわかると、途端に馬鹿にしたような笑みを浮かべた。


「おいおいねーちゃん。大人の話の邪魔すんなよ」

「なんならあんたが払ってくれんのか?」

「こんなの……ただの恐喝じゃないですか……!」

「あぁ!?」


 恐喝、という言葉を出した途端、図星だったのか男たちの態度が変わる。

 そして、その中の一人が俺の胸ぐらをつかみ上げた。


「事情知らない奴がちょっかい出してきてんじゃねぇよ!」

「ひっ!」


 男が拳を振り上げる。

 殴られる……とぎゅっと目を瞑ったが、ひゅっと音がしただけで覚悟していた衝撃は訪れなかった。


「な……」


 何人かの息をのむ音が聞こえた。

 思わず目を開けて……俺は驚いた。男が振り上げた拳は、俺の目前で細い木のステッキに食い止められていたのだ。


「……女性相手に、一方的に手を上げるのは感心しないな」


 顔を真っ赤にしてステッキをどかそうとする男に対して、ステッキの持ち主は微動だにしていない。

 先ほど恐喝されかけていた、身なりの良い男性は――


「……最終通告だ。大人しくこの場を去れば、私も身を引こう、だが、これ以上続けるのならば私もそれなりの対処をしなければならない」


 先ほどの穏やかな様子が嘘のように、身なりの良い男性はどこか威圧感を感じさせる声でそう告げた。

 その途端、拳を止められた男が真っ赤になって騒ぎ出した。


「ざっけんじゃねぇぞクソ親父が!!」


 男が俺の体を振り払う。その拍子にぺたんと無様に地面に尻をついてしまった。


「せっかくの服が汚れてしまったね。申し訳ない、勇敢なレディ」

「ふざけたこと言ってんじゃねーぞ!!」


 申し訳なさそうに俺に謝罪した身なりの良い男性に、チンピラたちはいきり立った。

 そして、その中の一人がナイフを取り出したではないか!


「死ねよハゲ親父!!」


 男がナイフを手にしたまま男性の方に突進していく。俺は思わず座り込んだまま悲鳴を上げてしまったが、次の瞬間キィンという金属音と共にナイフがくるくると宙を舞い、地面に落ちた。

 そう、身なりの良い男性が杖でナイフを弾き飛ばしたのだ。いや……あれは杖じゃない。


「な……」

「仕込み杖……?」


 杖の下から姿を現したのは、銀色に光る刃だった。

 男性は目にもとまらぬ速さで刃を抜き、素早い身のこなしでチンピラのナイフを弾き飛ばしたのだ。


「言ったはずだ、それなりの対処をすると」


 男性が動いた拍子に、かぶっていた帽子がひらりと地面に落ちる。そこから覗いたのは、見惚れる程の見事な銀髪だった。


 ……ジークベルトさんや、マティアスさんとよく似た――


「残念だが、私の街で暴れる輩を見過ごしては置けないな」


 最初に見た時とは全然違う。

 圧倒的な威圧感を纏う男性は、静かな口調でそう告げたのだ。

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