87 吸血鬼VS吸血鬼
イリーナは現れたヴォルフに一瞬驚いたような顔をしたが、すぐににやりと笑った。
「ルールなんてね、破るためにあるのよ。欲しいものは力づくで奪う。それが私たちじゃない」
「残念ながら、その人はあげられないんですよ」
「誰もあなたの許可なんて求めてないわ。私は私のしたいように――」
言葉の途中で、イリーナは激しく跳躍した。
その直後、一瞬前まで彼女がいたところに氷の槍が突き刺さる。
「おい、生きてるか!?」
暖かい腕に抱き起され、もうろうとしていた意識が少しだけはっきりした。
「ヨエル……?」
「喋んな、おとなしくしてろ」
そのまま抱き上げられたかと思うと、ヨエルはヴォルフの背後に下がる。
「……クリスさんをお願いします」
「あぁ、任せろ」
ヴォルフはちらりと俺の方へ視線をやると、再びイリーナに対峙した。
「あなたを連続襲撃・殺人事件の容疑者として捕縛します。抵抗するなら斬ります」
「まさか、私がおとなしく言うことを聞くとでも?」
「言ってみただけですよ」
「いいわ、三人ともぐちゃぐちゃにしてあげる……!」
次の瞬間、イリーナは目にもとまらぬ速さでヴォルフに飛び掛かった。
弾丸のように飛来するイリーナに対し、ヴォルフは防戦一方になっている。
「所詮は半人! 私の敵じゃない!!」
「ぐっ!!」
イリーナの姿が消えたかと思うと、彼女は黒い霧となりヴォルフに襲い掛かった。
ヴォルフも慌てたように後退したが、その肩口からは血がだらりと垂れている。
「やっぱり、あなたは人間の情を捨てきれないから弱いのよ。家畜を自由にさせておくなんて、信じられないわ」
「家畜……?」
「えぇ、いるじゃないそこに」
イリーナがまっすぐに俺の方を指差す。その途端、ヴォルフは目を細めた。
「イラつくのよ、あんたを見てると。家畜の機嫌伺いばっかりして。混血とはいえ吸血鬼の一人として恥ずかしくはないの?」
「……僕は、人間のことを家畜だなんて思ってない」
「同じじゃない! あんただってそこの女の血を吸ってるんでしょ!! なにきれいごと言ってんのよ、搾取する側なのは同じよ!」
イリーナは馬鹿にしたように笑った。ヴォルフは黙ってその言葉を聞いている。
「どうせなら徹底的に支配してやればいいじゃない! そうしないから横取りされるのよ」
「っ……!」
「甘い、甘すぎる!!」
イリーナの放った黒い霧がヴォルフに絡みつく。
ヴォルフが振り払った瞬間、イリーナは背後からヴォルフの体を蹴り飛ばした。
教会の古びた椅子を巻き込みながら、ヴォルフの体が派手に吹っ飛ぶ。
……力の差は、圧倒的だった。
「ぐっ……!」
「どうしてもっていうなら、私が鍛えてあげてもいいわよ……? ただし、あなたの家畜は頂くけど。結構、おいしかったもの」
イリーナが俺たちの方を振り返る。
ヨエルが俺を抱く腕に力を込めた。
「んー、男の子はあんまり好きじゃないんだけど……悲鳴を愉しむならいいかもね。それとも……家畜同士交配させ――」
「フェンリル!」
ヴォルフがそう呼びかけた途端、暗闇から白銀の狼が姿を現しイリーナに襲い掛かった。
イリーナは素早く身をかわしたが、次の瞬間がくりと膝から崩れ落ちる。
見れば、イリーナの左足が膝下から溶けるようにぐちゃぐちゃになり、崩れ落ちていた。
その近くには、輝く銀色の剣が床に突き刺さっている。
「うぐっ!? 何を……」
「まさか、僕が吸血鬼と戦うために何の準備もしてないとでも」
「……退魔武器!? でも、そんなものを使えばあんただって……!」
「残念ですけど、僕は半分『人間』なんで」
ヴォルフがイリーナに向かって何かの瓶を投げつける。
その途端、イリーナは絶叫を上げた。
「このっ……ふざけんなああぁぁぁぁ!!」
イリーナが再び黒い霧に姿を変えヴォルフに襲い掛かる。
だが、ヴォルフが懐からもう一本剣を取り出し振るうと、再びイリーナの実態が姿を現し床に倒れ伏した。
イリーナは這いつくばるようにして、苦々しくヴォルフを睨みつけている。
「それ以上やれば、あんただって……ただじゃすまないでしょ……」
「だったら、ここで終わらせれば問題ない」
ヴォルフが剣を振り上げる。その時、ヨエルが俺の視界を塞ぐように強く抱き寄せた。
「見るな」
そして、断末魔が聞こえたかと思うと途切れ、何かがごろりと床に落ちる音がした。
「……ヨエル。そのままクリスさんを連れてここを出てください」
「あぁ、わかった」
「ううん、待って」
……俺に、見せたくないんだってことはわかる。
でも、見なくちゃいけない。
「大丈夫だから、もう歩けるし」
「おい、お前っ……」
「……大丈夫。ありがとう、ヨエル」
そう伝えると、ヨエルは苦しそうな顔をした後、そっと俺を床に降ろしてくれた。
ヨエルに掴まるようにして立ち上がり、ヴォルフの方へ振り返る。
最初に見えたのは、真っ赤な血だまりだった。
その血の海の中に、イリーナの頭部と胴体が別々に転がっている。
ヴォルフは、じっとその血の海を見降ろしていた。
「ヴォルフ……」
むせかえるような血の臭いに耐えながら近づくと、ぴちゃりと足が血で濡れた。
それでも、なんとかヴォルフのすぐそばまでたどり着く。
「これが、人間に害をなす吸血鬼の末路です」
「うん……」
「でも、それは……僕も、同じ……」
「違うよ!!」
とっさに抱き着くと、ヴォルフの体は冷え切っていた。
「お前は違うよ! だって……優しいもん……!」
違う、イリーナみたいな殺人鬼とヴォルフが同じであっていいはずがない。
こいつはいつだって、人の、皆のことを考えてるんだから。
「支配とか搾取とか奪うとか……俺は全然そんなこと思ってないよ……!」
「いずれ僕も、この女のようにあなたを奪いつくそうとするかもしれない」
「お前は大丈夫だよ。それに……」
たとえそうなっても、俺は後悔しない。
ヴォルフに自分を捧げること、嫌じゃないから。
「ねぇ、帰ろう……? もう事件は終わったんだし……」
犯人は死んだ。もう事件は起こらない。
事後処理にしても、一度城に戻った方がいいだろう。
それに、もうここにはいたくなかった。こんなところにいるから、ヴォルフは変なことを言い出すんだ……!
「……まだ、はっきりさせたいことがあります」
「ぇ……?」
ヴォルフは鋭い瞳で教会の上部を睨みつけると、冷たい声で呼びかけた。
「……いるんだろ? さっさと出てこい」
しばらくの間、何の応答もなかった。
舌打ちしたヴォルフが教会上部の柱の陰にめがけてナイフを投げつけ、そのナイフが弾かれる。
「えっ……?」
「怖い怖い、そんなに怒んなよ~」
聞き覚えのある、声が聞こえた。
そして、柱の陰から何かが飛び降りた。
「こりゃまた派手にやったな。いっそこの教会ごと取り壊した方がいいかもな」
血だまりに着地しながらそう言って振り返った男を見て、俺は息をのんだ。
「あんた、アンテロ……?」
「よっ、久しぶりだなねーちゃん!」
そこにいたのは、以前会った情報屋の男――アンテロだった。
アンテロはこの凄惨な現場にも動じずに、いつもどおりの軽い調子で声をかけてくる。
「……僕は、万が一の時はクリスさんを守れと命じていたはずですが」
「いや~、あの吸血鬼のねーちゃんが怖くてブルっちまったんだわ~悪い悪い!」
「……本当に、それだけですか」
ヴォルフが低い声で問いかける。すると、アンテロはにやりと笑った。
「なんだ、ばればれか。女の子が悲鳴上げて逃げまどうのってすっごいそそるからさ、もっと見てたくなったんだわ」
アンテロが俺の方に視線をやる。そして、ぺろりと舌なめずりした。
「ひっ……!」
「なぁねーちゃん。一回俺と遊んでみねぇ? そっちのお坊ちゃんよりは満足させられると思うんだけどな~」
「……人の獲物に手を出すのはルール違反では?」
「イリーナにも言われただろ。俺たちには、ルールなんて関係ないって」
そう言って、アンテロは笑った。
魔族の特徴である、金色の瞳を輝かせて。




