86 血の宴
「イリーナ、待って!!」
イリーナは焦ったように地下室のカギを開け、中に駆け込んだ。
俺もその後を追いひんやりとした地下室へと足を踏み入れる。
「イリーナ!」
中では、イリーナが警戒するようにあたりを見回している。
だが、吸血鬼らしきものの姿も気配もない。
「吸血鬼は……いませんね……」
「うん、たぶんネズミかなんかだったんじゃ――」
そこまで言って、何かが引っ掛かった。
吸血鬼がいない。それはよかった。
でも……なんでイリーナは、犯人が吸血鬼だってことを知ってるんだ?
ヴォルフは、その部分は徹底的に伏せていて、協力者であるイリーナにも話していないと言っていたのに。
血を抜かれた死体を見たから犯人が吸血鬼だと思ったのか?
それとも、誰かがその可能性をイリーナに話したのか?
……何故だか胸がぞわぞわする。
思わず一歩後ずさると、俺の足が何かに当たった
「えっ?」
下を向くと、俺の足元に何かが置かれていた。
これは……被害者の遺体を納めているのと同じような、真新しい棺だ。
でも、この前ここに来たときはこんなものはなかったはずだ……。
「あぁ、それですか」
イリーナがゆっくりとこちらへ近づいてくる。
何故だか、体がうまくうごかない。イリーナは開きっぱなしだった地下室の扉を閉めると、俺の目の前まで歩いてきた。
「それは、次の犠牲者のための棺です」
「次の、犠牲者……?」
……イリーナは何を言ってるんだろう。
最後に被害者が襲われてから、しばらく犯行は起きていなかった。
それなのに、次の犠牲者のための棺を用意するなんて……。
「ヴォルフリート様たちが行かれた件……おそらくはただの通り魔か暴行あたりでしょう。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
イリーナは固まったまま動けないでいる俺の頬に手を這わすと、するりと撫でてきた。
「っぅ……!」
「どうやって引き離そうかと考えていたけど……飛んで火にいる夏の虫ってやつかしら?」
イリーナはうっとりした様子で俺の頬を撫でている。
逃げなきゃ……そう頭は警鐘を鳴らしているのに、何故だか体が動かない。焦燥ばかりが積みあがっていく。
「初めてあなたを見た時からずっと……こうしてみたかったんです。本当に、おいしそう……。その棺も、あなたのことを想って作ったんですよ」
イリーナが舌なめずりをする。その瞳は、爛々と金色に輝いていた。
まさか、彼女は……
「吸、血……鬼……?」
「えぇ、あなたのご主人様と同じね」
イリーナはそう言って、いつもと同じように優しげな笑顔を浮かべた。
「今までの事件も、君が……」
「えぇ、あなたのご主人様たちは的外れな場所ばかり調べていて……本当に無様ね! そのおかげで、こうしてあなたが手に入ったんだけど」
「ひぅっ!」
イリーナが俺の頬を舐めて、思わず鳥肌が立ってしまう。
まさか、この愛らしい少女が今までの吸血鬼事件の犯人……?
俺は、その事実をすぐに受け入れることができなかった。
「この街での狩りは、あなたで最後にしようと思っていたの。悲鳴と、嬌声と、綺麗な赤色を堪能して、腹を裂いて教会に磔にするって言うのはどうかしら。戻ってきたご主人様の反応が楽しみね……! でも、私も早く逃げないと捕まっちゃうし……」
その言葉を聞いた途端、全身にぞわりとした悪寒が走る。
イリーナはかわいらしい少女の顔で首をかしげて見せると、次の瞬間狡猾な魔族の顔でにやりと笑った。
「でも、まずは……味見をしてみないとね」
彼女の愛らしい顔が、大きく開いた口の中に見える牙が、俺の首元に近づいてくる。
「やだ、やめて……」
「もっと、もっと嫌がって泣いてよ……! 悲鳴が嬌声に変わる瞬間、それが一番好きなの……!!」
「ひっ!」
逃げなきゃ、でも体が動かない。
そして、彼女の牙が俺の首筋に突き刺さる寸前……
『クリス!』
「っ、なんだこの犬は!?」
現れたスコルとハティがイリーナの足に噛みつく。だが、イリーナはすぐに激高したように二匹を蹴飛ばした。
「スコル、ハティ!」
『僕たちは大丈夫だから早く逃げて!!』
二匹は蹴り飛ばされ壁に激突する寸前で姿を消し、すぐにまた俺の足元に現れた。
そうだ、今はとにかく逃げないと!
スコルとハティがイリーナを牽制している間に、俺は地下室を飛び出し地上へと駆けあがる。
そしてそのまま扉へと走ったが、何か黒い物体がものすごいスピードで俺を追い抜いたかと思うと、扉の前に立ちふさがった。
そして、一瞬のうちにその黒い物体はイリーナへと姿を変える。
「まさか、逃がすはずないじゃなぁい!」
「くっ、“聖気解――」
「遅い!!」
「あがっ!」
呪文を唱えるよりも先に、飛び掛かってきたイリーナが俺の首を絞めるようにして床へと引き倒してきた。
「う、ぐっ……!」
「いいわ、その苦しそうな顔……もっと見せてよ!!」
イリーナが首を絞める手に力を込めたりまた緩めたりしながら、狂気すら感じられる笑みを浮かべている。
スコルとハティが何度もイリーナの手に噛みつくが、そのたびにイリーナが鬱陶しそうに片手で二匹を投げ飛ばしている。
「あなたのご主人様はどうしようもない馬鹿ね。こんなに近くにいるのに私の正体に気づかないなんて……!」
「あ、いつを……ばかに、すんな……!」
「へぇ、無駄な忠誠心ね。そのご主人様のせいで大変な目に合ってるのに」
イリーナが首を絞める手を放す。反射的に咳き込むと、その途端首筋に鋭い痛みを感じた。
「あああぁぁぁぁ!!」
容赦なく牙を突き立てられ、血を吸われていく。
スコルとハティが必死にイリーナに噛みついているが、イリーナは多少の痛みなど関係ないというようにすごい勢いでと俺の血を吸っていった。
――熱と、痛みと、近づく死の足音
……これが、本物の吸血。
今までヴォルフは随分と手加減してくれていたんだと、あらためてそう気づいてしまったんだ。
「あらやだ、まだ死なないでよ」
「んあぁ……!」
「そう、もっと……!」
……俺がいなくなったら、ヴォルフは誰の血を吸うんだろう。
こんな時なのに、浮かんでくる考えはそんなことばかりだった。
俺って、ほんとあいつに依存しまくってるな……。
だんだんと意識が薄れて行って、血を、命を吸われる甘美な痺れに身を任せてしまいたくなる。
「んっ、あぁあ……!」
「いい子ね、そうよ、そのまま……」
イリーナの声が、不思議と甘さを帯びている。このまま彼女の声に従えば、もっと……
そんな風に揺らいだ瞬間、ガラスが割れる音と共にイリーナが俺の上から飛びのいた。
「……人の獲物を横取りするのは、ルール違反では?」
怒りを押し殺したような声が聞こえる。
なんとかそちらに目を向けると、そこには鋭い瞳でイリーナを睨みつける俺のご主人様がいた。




