77 妃と寵姫
「失礼いたします。……あら?」
ブラウゼー家の居城、硝子城の一室にて。
テレーゼが扉を開くと、そこには皇太子であるアウレールが一人でくつろいでいたのみだった。
傍らに妃の姿はない。
「妃殿下はいらっしゃらないのですか」
「ここはソフィアの故郷だ。たまには家族水入らずでゆっくりしたいのだろう」
アウレールは特に気にした様子もなくゆったりとグラスを揺らしている。
慎重に扉を閉め、テレーゼは部屋の中へと歩みを進めた。
「……もっとも、そうでなくともあいつは、用がない時に私に近づこうとはしないがな」
「妃殿下は少し意地を張ってらっしゃるだけですわ。いつか、分かり合える時が来ます」
テレーゼはそっとソファに身を預けるアウレールの隣に腰かけ、体を寄せる。
「美しい花を見れば愛でたくなるのは当然のこと。きっといつか妃殿下もおわかりになるでしょう」
「どうだかな」
首元に腕を回し、唇を重ねる。
二人の間では、当然の行為だった。
「殿下はお優しいのですから。多く者を愛するのは、それだけ貴方が大きな愛を持っているからこそ。王の器として当然ですわ。ところで……」
テレーゼが一旦言葉を区切ると、アウレールが目線だけで続きを促した。
「レディ・リネア・ブラウゼーのことですが」
アウレールが顔を上げると、テレーゼは妖艶な笑みを浮かべていた。
「有事の際にこそ、その者の真価が問われます。殿下もご覧になられたでしょう。あの、湖の主を従える程の感応力……リネア姫のお力は素晴らしい……! 彼女にも、いずれは殿下の治世を支える一人となっていただきたいものです」
確かに、二人もリネア・ブラウゼーが湖の主と心を通じ合わせた現場をその目で見ていた。
たとえ王都の精霊宮であろうとも、あそこまでの感応力を持ったものは数えるほどしか存在しないだろう。
甘えるように抱き着き、テレーゼは皇太子の耳元で囁く。
「……どうです? 彼女を弟君の……ヴィルヘルム殿下の妃として迎えられては」
アウレールはしばし思考を巡らせだが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「……いや、そうなると均衡がブラウゼーに傾きすぎる。他の諸侯の反発はまぬがれないだろう」
アウレールの妃、ソフィアもブラウゼーの姫である。
王族や貴族においての婚姻は、家と家との結びつきとしての側面が強い。もちろん、アウレールとソフィアもそうだった。
王家――ローゼンクランツ家がブラウゼー家ばかりを厚遇しては、他の貴族から不平不満が出るのは火を見るよりも明らかだ。
だからそれはできない、と伝えると、テレーゼは気分を害した様子もなく蠱惑的な笑みを浮かべた。
「では、殿下が直接召し抱えられては?……私や、アンナマリアのように」
寵姫として、愛人として迎え入れてはどうか。
テレーゼはそう提案したのだった。
妃であるソフィアが聞いたら卒倒しそうな言葉に、アウレールはくく、と小さく喉を鳴らす。
「それも悪くはないが……ソフィアが許さんだろうな。ああ見えて情が深い女だ」
そう言って、アウレールは愉快そうに笑った。
杯に注がれた葡萄酒が、ちゃぷんと軽い音を立てる。
「いずれ、なるようになるさ。テレーゼ、お前も暴れすぎるなよ」
「あら、行動的な女はお嫌いですか?」
「まさか」
夜はまだ、始まったばかりだ。
◇◇◇
「はぁー、やってらんねぇよ……」
大きくため息をついて、机に頭を投げ出した弟を見て、皇太子妃――ソフィア・ローゼンクランツは苦笑した。
「ヘルムート、行儀が悪いわ」
「言うねぇ姉上。姉上も昔は……いてててて」
「昔の話よ」
今のソフィアは皇太子妃。だが、故郷に戻るとどうしても昔の少女時代に戻ったような気分になって、ついその頃のように振舞ってしまうのも確かだった。
「……それで、進捗は」
「怪しい奴らを何人か拘束したが……有益な情報はなかったな。宝玉の汚染の話はリネアから聞いたが、原因はわからずじまいだ。親父殿は自然に瘴気が溜まった結果の事故で片付けるだろうな」
「事故、ね……」
そう呟き思案したソフィアに、ヘルムートは口角を上げた。
「なんだ、犯人の心当たりでもあるのか?」
「ありすぎて困るくらいよ」
「ははっ、そりゃあ大変だ!」
ソフィアは額を押さえため息をついた。
久方ぶりの帰郷だというのに、こんな事件に巻き込まれるとはついてない。
いや……ブラウゼー家はソフィアの生家だ。この事件自体、ソフィアを貶めようとしたものである可能性もある。
ソフィアを引きずり下ろしたいと思っているであろう者の数ならば、両手の指におさまらないほどに思い付くことができる。
「私は、王宮で怪しい輩を調べてみるわ」
「せいぜい謀殺されないように気を付けてくれよ」
「えぇ、あなたも気を抜かないで」
そう言って弟を労わると、ヘルムートはにやりと笑った。
「ご安心を。犯人を見つけ次第切り刻んで魚の餌にしてやるよ」
「それは頼もしいわ」
適当に相槌を打ち、ソフィアは弟の元を後にした。
硝子城の最奥にも近い場所……ここに足を踏み入れることが叶う者は、生粋のブラウゼー家の人間か高位の賓客に他ならない。
そんな誰かとすれ違うことすら珍しい場所で、ソフィアはできれば出会いたくない相手に出会ってしまった。
「妃殿下、こちらにいらっしゃったのですね」
「……テレーゼ」
表向きは皇太子に仕える女官。
だが、その実彼女が皇太子の愛人であることは公然の秘密となっていた。
「殿下はもうお休みになられたのかしら」
「えぇ、あんなことがあったばかりですもの、お疲れになられたのでしょう」
テレーゼは大げさなほどに物悲しそうな顔を作ってそう告げた。
まったく、とんだ役者である。
「そうね、私も疲れたわ」
思わずそう呟くと、テレーゼがにっこり笑ってこちらへと近づいてきた。
そして、するりとソフィアの腕に腕を絡めてくる。
「ちょっと……」
「それは大変ですわ、妃殿下。早くお休みにならなくては。わたくし、西の国より良い香油を仕入れましたの。疲れた心と体を癒してくれる上物だそうです」
テレーゼが体を寄せてくる。
その近さに、ソフィアは思わず身を引いた。
「是非とも、わたくしの手で妃殿下を癒して差し上げたいものです。二人だけで、たっぷりと……」
テレーゼがゆっくりと顔を近づけてくる。
吐息がかかるほどの距離になって、ソフィアは軽く振り払った。
「ほっんと悪趣味ね、貴女……」
「妃殿下の美しさが人を狂わせるのですよ」
「はぁ……まあいいわ」
テレーゼはまったく意に介した様子もなく妖艶な笑みを浮かべていた。
付き合ってられない。自分は早く休みたいのだ。
「その香油は殿下に差し上げてちょうだい。私には私の侍女がいるので結構よ」
「残念ですわ。わたくしも妃殿下の御肌に触れてみたかったのに」
「……そういう言動は慎んで頂戴」
優雅に礼を取ったテレーゼを一瞥し、ソフィアは歩みを進める。
いくつか角を曲がり、誰の気配もなくなったところで、やっと一息つくことができた。
「まったく、あの女……」
テレーゼがただ単に皇太子妃の座を狙ってソフィアを引きずり落そうとする女ならよかった。
いくらでも手の打ちようはある。
だが、ソフィアにはテレーゼの意図がまったく掴めなかった。
彼女がああしてソフィアを誘ってくるのは初めてではない。単なる挑発かと思っていたが、皇太子の寵姫や近しい侍女の中には、実際に彼女に誘われ寝所を共にした者もいる。
皇太子妃の座を狙う行動にしては、いささか道を外れすぎている。
そして、アウレールもそれを咎めるつもりはないらしい。
自らスキャンダルの種を蒔いていく女、それがテレーゼだった。
「乱れてるわ……」
皇太子の好色っぷりは有名な話だ。
ソフィアとて、それを承知で嫁いだのだ。
実の父親が同じようなものだったので、男はそういうものなのだ、と自分を納得させることができた。
だが、テレーゼの行動は理解できない。
皇太子の傍に侍り、気まぐれに他の寵姫を誘い、堕とし、ソフィアにまでその食指を伸ばす。
単なる酔狂なのだろうか。
その得体の知れなさが、ソフィアには少し不気味に思えた。
今回の事件にも彼女が関わっている可能性はある。
なんにせよ、気は抜けない。
華やかな王宮は見た目とは裏腹に陰謀が渦巻いている。ソフィアにとっては、戦場にも等しい場所だ。
気を引き締め直し、ソフィアは再び歩き出した。




