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76 湖の主

 現れた竪琴は、美しい光を放っている。

 そういえば、この洞窟には精霊との交信の道具が仕舞ってあるはずだ。


「これが、精霊との交信の道具……?」

「……はい」


 リネア嬢はしっかりと頷くと、竪琴を手に立ち上がった。


「参りましょう、皆さま」


 残された時間は少ない。

 俺たちは、急いでその場を後にした。



 ◇◇◇



 あのタコも元に戻ってたし、竜も落ち着いてないかな……と期待していたが、舞台会場の近くまで戻ってきて見えたのは、相変わらず暴れる竜の姿だった。

 皇太子妃が攻撃をやめさせると言っていた通り、集まった人々は防戦に徹している。


「戻りました、お姉さま!!」


 なんと、皇太子妃はまだその場にいた。

 周囲を護衛に囲まれた彼女は、リネア嬢を見てほっと表情を緩める。


「……頼むわよ、リネア」

「はいっ!!」


 リネア嬢があたりを見回し、走り出す。

 きっと、一番精霊に音が届くであろう場所……最も高い、王族の席へと。

 俺たちも慌ててその後を追いかけた。


「……では、始めます」


 リネア嬢は深く息を吸うと、いつか精霊宮で見たように、腰を下ろし竪琴を奏で始める。

 俺も何かあったら真っ先に彼女を守らねばと、気を抜かないように竜を見据える。


 そして、美しい音色が奏でられてく。まるで心の、魂の奥底に響くかのような。

 これなら、きっとあの竜にも届くはずだ……!


「これは……」


 集まっていた人々も、何事かとリネア嬢の方を振り返っていた。

 だが、彼女はそんな視線には動じずに、ただひたすらに旋律を奏でていく。

 彼女の旋律に呼応するように。湖から小さな蒼い光……小さな精霊たちが集まってくる。

 だが、竜はまるで何かに苦しむように暴れまわっている。

 そして……


「危ないっ!!」


 竜が放ったひときわ大きい水塊が、まっすぐにこちらへと向かってくる。

 俺は慌てて防壁を張ったが、慌てていたので強度がでない。

 やばい、突破されるか……!?


 だがその時、俺たちの目の前に分厚い氷の壁が現れた。

 氷の壁に阻まれた水塊は、俺たちの元に届くことなく落ちていく。

 冷たい氷なのに、それを見た途端胸が熱くなって、安堵でその場に崩れ落ちそうになる。

 思った通り、すぐにこちらへ駆けてくるご主人様の姿が見えた。


「ヴォルフっ!!」

「クリスさん!!」


 やってきたヴォルフは、俺たちの姿を見てほっとしたような表情を浮かべた。


「どこにもいないので心配しましたよ! これは一体……」

「……静かにしろ、彼女の尽力を無駄にする気か」


 そんな鋭い声を出したのは、あの黒衣の青年だった。

 ヴォルフは一瞬驚いたように青年の方に視線を向けたが、そのまま小さく口を開いた。


「……誰なんですか、彼」

「わかんない……」


 ヴォルフが小声で問いかけてくる。でも、俺にもわからないんだよ。

 悪い人ではなさそうだけど、本当に誰なんだろう。

 リネア嬢も知らないみたいだし、ブラウゼー家の家臣でもなさそうなんだよな……。

 そんなことを考えつつ、固唾をのんで竜の様子を見守る。


 リネア嬢の元に集まっていた小妖精が、やがて竜の元へと飛んでいく。

 水竜の周りを無数の小さな蒼い光が舞い、こんな非常事態だとは思えないほど美しい光景だった。

 集まった人々も、その幻想的な光景に釘付けになっているようだ。


 小さな蒼い光に浄化されるように……やがて、水竜は動きを止めた。

 そして水竜がおとなしくなったかと思うと、竜を取り巻いていた水の渦が弾け、あたりに光を纏った水滴が降り注いでいく。


 そして……その下から現れたのは、美しい女性の姿をした精霊だったのだ。

 美しいだけじゃない。きっと、この場の誰もがその存在の放つ絶対的な「力」を感じていた。

 誰が見ても、一目でわかるだろう。


 ……彼女が、この湖の主だって。


 現れた湖の精霊は、無数の小精霊と共にリネア嬢の元へと舞い降りてくる。

 俺たちは、ただその幻想的な光景を見守っていた。

 湖の精霊はリネア嬢の目の前までやってくると、そっと彼女に向かって手を差し出した。

 つられるように、リネア嬢も演奏の手を止め彼女の手を取る。


「サラーキア……それがあなたの名前…………?」


 リネア嬢がそっと問いかけると、湖の精霊は頷いたように見えた。

 そして……


「ひゃっ!?」


 リネア嬢が驚いたように自身の手の甲を見つめている。

 慌てて近づいて、俺も驚いた。


「これって……」


 彼女の手の甲には、蒼く光る紋章が刻まれていたのだ。


『精霊の契約印だねぇ』

『クリスにもあるでしょー』

「い、いやそうだけど……」


 俺の足元に現れたスコルとハティが、のんびりとした口調でそんなことを言う。

 ってことは、リネア嬢はあの湖の精霊と契約を交わしたってことなのか!!?


「え……え、ええぇぇぇぇ!!?」


 リネア嬢も混乱したように自身の手の甲と目の前の湖の精霊に交互に視線をやっている。

 そんな彼女に優しく微笑みかけると、湖の精霊は数多の精霊と共に蒼い光となって姿を消した。


 しばらくの間、その場の誰も何も言わなかった。

 その沈黙を破ったのは、ぱちぱちという力強い拍手の音だ。


「素晴らしい、さすがはブラウゼー家の姫君だ」

「あら、当然ですわ。わたくしの妹ですもの」


 悠然とこちらへ歩いてくる二人に、あたりの人々がぱっと道を開けるのが見えた。

 皇太子妃と共にこっちへやってくるのは……なんと皇太子その人ではないか!!

 ヴォルフや黒衣の青年が弾かれたようにその場に跪く。俺もヴォルフに服の裾を引かれて、一拍遅れて慌てて跪き頭を垂れた。


「よい、頭を上げよ」


 そう言葉を掛けられて、俺はおそるおそる顔を上げる。

 皇太子はリネア嬢の前までやってくると、蒼白な顔で腰が抜けたように座り込んでいる彼女に目線を合わせるように、屈みこんだ。


「……そなた、名は」

「リ、リネア・ブラウゼーと申します、殿下……」


 リネア嬢はさっきまでの凛とした態度がウソのように、怯える小動物のように小さな声でそう絞り出した。


「あら、殿下。リネアは繊細ですの。あまり驚かさないでくださいまし」

「はは、それは悪かった」


 皇太子妃に窘められても、皇太子は気を悪くした様子もなく立ち上がる。

 そして、その場の人々に向け口を開いた。


「皆、この勇敢な姫君に拍手を。ブラウゼーに永遠の繁栄を!!」


 最初は小さく、やがてを割れんばかりの拍手がリネア嬢に向かって贈られる。

 だが肝心のリネア嬢は、まるでどうしていいのかわからないといった様子で震えていた。


「リネアっ!」


 やがて聞き覚えのある声が聞こえ、振り向けばヘルムートさんが息せき切ってこちらへ走ってくるのが見えた。

 よかった、あの人も無事だったんだ。


「……リネアは大丈夫でしょう。僕たちも、騒ぎに巻き込まれる前に行きましょう」

「でも……」

「……大丈夫ですよ」


 ヴォルフが示した方向に視線をやると、リネア嬢を取り囲む人々の中からヘルムートさんが目線でこちら何かを訴えかけていた。

 彼は顎で何度か出口の方を指している。

 ……早く行けってことかな。


 皇太子や皇太子妃は集まってきた人たちと何やら話をしており、リネア嬢はヘルムートさんがいれば大丈夫だろう。

 後ろ髪引かれる思いで、ヴォルフに続いて俺もそっとその場を後にする。

 会場を出たところで黒衣の青年が何も言わずに去ろうとしたので、俺は慌てて引き留めた。


「待てよ! せめてどこの誰かくらい教えてくれてもいいんじゃないの?」


 最初は怪しかったけど、彼がいなければあのタコを牽制しつつ浄化を行うのは難しかったのかもしれない。

 ちゃんと、お礼はしときたい。


「……知らない方がいいと思うが」

「リネア様も気にするだろうし、名前くらいは教えてくれよ」


 このあたりの人なら、ブラウゼー家の力で後から探したりできるだろうし、何事もなく行かせるわけにはいかない。

 青年は少しの間ためらっていたようだが、やがてそっと口を開いた。



「……アロイス。アロイス・シュヴァルツシルトだ」

「ぇ…………」


 シュヴァルツシルトって、六貴族の一つの……と思い当たった瞬間、背後から強く腕を引かれる。

 ヴォルフが俺を庇うように前に出て、青年を睨みつけていた。


「そういきり立つな、ヴァイセンベルク」


 青年はヴォルフに向かって冷たい笑みを浮かべた。

 最初に会った時の態度と違って、少しぞくりとしてしまう。

 ……そういえば、ヴァイセンベルク家とシュヴァルツシルト家ってすごく仲が悪いんだっけ。

 前に、そんな話を聞いたような気がする。


「ここで貴様と事を構えるつもりはない」

「……なんのつもりだ。何の目的でリネアや僕たちに近づいた」

「お前の従者に言った通り、リネア・ブラウゼーへの助太刀。それ以外の何物でもない」


 警戒するヴォルフに対し、青年は余裕な態度を崩さない。

 やっぱり、俺たちを助けてくれたのは純粋な正義感に駆られてのことだった……と俺は思うんだよな。

 落ち着かせるように、俺はそっとヴォルフの腕に触れた。


「……大丈夫だよ。この人、悪い人じゃないから」

「あなたはまたそんなことを……」

「……アロイス様。あなたにどんな事情があったにせよ、ご協力、感謝いたします」


 ヨエルまでそんなことを言い出したので、ヴォルフは納得いかないような顔で息を吐いた。

 そして、アロイス・シュヴァルツシルトに向き直る。


「……僕の従者と、リネアを守っていただいたのには感謝します」

「別に、貴様に感謝される筋合いはない」


 ヴォルフがイラついたように眉を顰める。

 俺は慌てて宥めようとヴォルフの腕を引いた。


 アロイスは俺たちに背を向けると、ぽつりと呟く。


「……聖地の侵食、自然現象だとは思わない方がいい」


 そんな言葉を残して、シュヴァルツシルト家の青年は去っていった。

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