75 蒼の浄化魔法
「うひゃあぁぁぁ!!?」
タコが俺たちを薙ぎ払うように、長い脚を振り回す。
俺は慌ててリネア嬢の手を引いて陸側に引いた。
「なんだよこれ! 気持ち悪っ!!」
タコ……にしては色はどす黒いし、大きさも尋常じゃない。
「この湖ってこんなんが棲んでるんですか!?」
「こ、こんなのは見たことも聞いたこともありません……!」
リネア嬢も尋常じゃないタコが恐ろしいのか、がたがたと震えている。
「おそらくは……瘴気によって水生生物が変性したものだろうなっ!!」
黒衣の青年は驚くこともなく弓を弾いて、タコの足に矢を放った。
矢は見事にタコの足に突き刺さり、タコが一瞬動きを止める。
その隙を見逃さず、ヨエルが氷の刃を放ちタコの足を引きちぎった。
「やった!!」
タコが痛みに呻くように滅茶苦茶に暴れる。
そして、信じられないことが起こった。
「なっ!!?」
俺たちの見ている目の前で、タコがちぎれた足を振り回す。そして切断口からぶくぶくと黒い泡のようなものが溢れ出したかと思うと……にゅるりと切り口から足が生えてきたではないか!!
「うひいいぃぃぃ!!?」
気持ち悪っ!
なんだよこれ! 反則じゃん!!
「ちっ、これは厄介だな」
「本体をやるしかねぇか……」
ヨエルと青年は鋭い瞳でタコを見据えている。
本体……っていうとタコの顔(?)の部分か。だが、タコは隠れるように体の大部分を水の中に沈め、器用に足だけを振り回しこちらを攻撃してきている。
「君の魔術で奴が潜む水を凍らせることは?」
「無茶言うなよ! そんな大技できんのヴァイセンベルク家の人間くらいだろ!!」
ヨエルの言葉に、青年はすっと目を細める。そして、あの黒く濁った水晶を見据えた。
「このまま正攻法で倒そうとすれば時間がかかる。瘴気の解放を狙った方がいい」
黒衣の青年はそんなよくわからないことを言うと、俺とリネア嬢の方を振り返った。
「レディ・ブラウゼー。おそらく今この湖は瘴気が充満している状態だ」
「そんなっ……」
「原因は……あれだな」
そう言って青年が指差したのは、あの黒く澱んだ水晶だった。
「聖地と呼ばれるここが汚染されたことによって、湖に影響が出た。そして、水魔や水生生物……精霊までもの行動がおかしくなったと考えた方がいいだろう」
瘴気とは人や動物やその場所自体をおかしくさせる悪い気のことだ。
魔物ばかりが棲む異世界「奈落」から世界と世界を繋ぐ門を通じてこの世界に漏れ出してるなんて聞いたことあるけど、実際のところはよくわからない。
邪神が暴れていた頃は、俺もおかしくなった魔物や人と何度も戦ったっけ。
それと同じく、この湖の生き物……あの、竜の姿をした精霊もおかしくなってしまったんだろう。
……でも、邪神はいなくなったのに、なんで今更こんなものが?
いや、そんなことを考えてる暇はない。
今はただ、どうやってこの場を切り抜けるかを考えなければ!!
「じゃあ、ここを浄化すればなんとかなるってこと!?」
「その可能性は高い」
青年は器用に襲い来るタコの足を避けつつ、俺たちに向かって頷いて見せた。
だったら話は早い。ここを浄化すれば、あの竜もおとなしくなってくれるはずだ!!
「よし、やりましょうリネア様!」
「で、でも浄化なんてどうすれば……」
「大丈夫です。俺に多少の心得がありますので!!」
一応「光の聖女」とか呼ばれてるし、浄化ならお手の物だ!!
いつも使ってる杖がないのがちょっと不安だけど、きっと大丈夫だろう。
ヨエルと青年がタコを抑えていてくれる間に、あの水晶の前へと向かう。
「女神の息吹よ。大地を取り戻し、久遠の楽土に祝福を……!」
今は一刻も早くあの竜の所に戻らなければならない。
ここで足止めされてる場合じゃないんだ……!
「“禊祓結界!”」
俺の手のひらから溢れた光が黒く澱んだ水晶を包み込む。
そしてこびりつく黒い靄を払おうとした途端……
「えっ!?」
水晶の周りに蒼い結界のようなものが現れたかと思うと、俺の放った光は掻き消えてしまったのだ。
こんなことは初めてで、俺は混乱した。
「なんで……」
「おそらく……これはブラウゼー家の宝珠ともよべる存在です。異なる性質の力の干渉を弾く結界でしょう」
……よくわからん。
わからないけど……じゃあどうすればいいんだ!!?
「さっきみたいに、リネア様が解くことは……」
「この水晶自体の作用ですので、私には手出しができません……」
「そんなっ……」
ここまで来て、そんなのってないよ!!
「ブラウゼーの……水の守りが施されています。ブラウゼーの持つ蒼の……水の力の浄化であれば通るかもしれませんが、私には……」
リネア嬢は蒼白な顔でぶつぶつと呟いている。
「やっぱり私じゃ駄目だったんだ……」
彼女の蒼い瞳にみるみる涙が溜まっていく。
全然そんな場合じゃないのに、その雫を……不覚にも美しいと思った。
ぽろり、と涙の雫が彼女の頬を伝い落ちる。
美しい、水の塊が……
水……浄化……
あれ、なんかどっかで……
「ああぁぁっ!!」
いきなり叫んだ俺に、リネア嬢はびくっと大きく肩を震わせた。
「ど、どうされました……!?」
「そうですよ! 水の浄化!! 習いました! リネア様と一緒に行った聖堂で!!」
初めてリネア嬢に会った日、聖堂を案内してもらった。
そこで、この地に伝わる浄化の神聖術を教えてもらったんだった!!
なんで今まで忘れてたんだ!!
「リネア様がその術を使えば浄化できるかもしれません! いや、できます!!」
「で、でも……私、神聖魔法なんて使ったことは……」
「……大丈夫、俺がついてます」
そっと彼女の手を取り、大きく頷く。
「一緒に、やりましょう」
二人でやれば、効果も二倍……にはならないだろうけど、きっとうまくいくはずだ!
今は、そう信じるしかない。
リネア嬢は少し迷っていたようだが、やがて涙を拭いて、頷き返してくれた。
「……はいっ!」
二人で手をつないだまま、水晶の前に立つ。
「俺の言う通り、復唱してください」
「はい」
目を閉じ、大きく息を吸う。
そして、教えてもらった呪文を思い出す。
「水よ……永遠に流れ、すべてを清める水よ」
俺の後に続いて、リネア嬢が繰り返す。
「今こそ其の力を示し、悪しき澱みを押し流せ……!」
背後から、大きな水音が聞こえた。
「「“聖なる水よ……!”」」
周囲の水が洞窟の天井付近に集まり、そしてきらきらと優しい雨のように降り注ぐ。
その雫は、俺たちにも、そして黒く澱んだ水晶にも届いたようだ。
水晶を覆っていた黒いヘドロのようなものが、空気に溶けるように消えていく。
リネア嬢がそっと水晶に触れると、彼女の指輪が強い輝きを放つ。その光に呼応するように、水晶までもが輝きを取り戻したのだ。
「……レディ・ブラウゼー。聖地での殺生のお許しを」
背後からそう声が聞こえ、思わず振り向く。
見れば、黒衣の青年が矢の刺さったタコを持ち上げていた。もちろん、普通のタコと変わらない大きさだ。
……これは、瘴気が浄化されて元に戻ったってことなのかな。
「あれは……」
不意にリネア嬢の声が聞こえ、水晶の方に視線を戻す。
彼女は、じっと蒼く光る水晶を見つめていた。
「何かありましたか?」
「はい、あの……奥に、何かが見えます」
そう言われ、俺も目を凝らす。
確かに、巨大な水晶の中に、うっすらと何かが埋まっているのが見える。
「でも、あんなのどうやって取り出せば……ってリネア様!?」
リネア様が水晶に手を触れたかと思うと、なんとそのまま彼女の手が水晶の中へと吸い込まれていったのだ!
俺は慌てたが、彼女は落ち着いた様子でその中から何かを引っ張り出した。
「これは……」
リネア嬢が持っていたのは、まるで水を凝縮した素材でできたかのような、美しい竪琴だった。




