73 タイムリミット
俺は思わず固まってしまった。
え、皇太子妃? 本物?
「リネア、あの竜が精霊だというのは本当なの」
皇太子妃は真剣な顔でリネア嬢に問いかけている。
やっぱり、姉妹なんだ……。
「おそらく……いえ、きっとそうです。いつも、精霊宮で湖から聞こえる声と同じだったんです……!」
必死に説明するリネア嬢に、皇太子妃はしばしの間考え込むような表情を見せた。
「あれが湖の精霊だとして、何故あんな風になったのか心当たりは?」
「それは……わかりません。でもっ、傷つけたりなんてしていい存在じゃないんです!!」
「でも、放置はできないわ」
「姉さま!!」
皇太子妃は冷静な瞳で暴れる水竜を睨め付けている。
「このままあの竜を放置しておけば被害が拡大する恐れもある。ブラウゼーの信用も地に堕ちるわ」
「ですがっ、古来よりこの地を護りし精霊を殺すなんて……」
「……リネア」
皇太子妃は必死に言い縋るリネア嬢の肩に手を置き、彼女に視線を合わせた。
「……あなたは昔から、精霊と交信するのが得意だったわね」
「姉さま……」
「例えあの竜がこの地を守護する精霊であったとしても、この地の民を傷つけるというなら討伐するほかないわ」
「でも……」
「……リネア、あなたがあの精霊をおとなしくさせることができるのなら……少しの間だけ、攻撃を止めさせましょう」
皇太子妃は、真剣な表情でそんな無茶なことを告げたのだ。
「えっ……?」
「それが無理なのならば、我々はあの竜を討伐します」
「っ……!」
リネア嬢はぎゅっと拳を握り締めて俯いてしまった。
俺は……何も言えずに成り行きを見守ることしかできなかった。
普段から精霊と交信しているリネア嬢からすれば、湖の精霊を傷つけ、殺すなんてとんでもないことだろう。
でも、このままあの竜を放置しておけばもっと被害が出る。ブラウゼー家の威信にもかかわるだろう。皇太子妃の言い分もわからないでもない。
一体、どうすれば……
「……ります」
その時、か細くも決意を秘めた声が聞こえた。
「やります。私が……精霊に交信を試み、鎮静させます!」
リネア嬢は顔を上げて、皇太子妃に向かってはっきりとそう告げた。
いつもの弱弱しい彼女とは違う、鬼気迫る表情だった。
皇太子妃はじっと彼女を見つめ……そして、ふっと笑った。
「……1時間が限界よ。それ以上は待てない。攻撃を再開させるわ」
皇太子妃はそれだけ言うと、傍らの護衛へと声をかけた。
「今の話を聞いたわね? すぐに攻撃中止命令を」
「はっ!」
彼女の命を聞いて、何人もの騎士が一斉に走り出した。
……なんだか、大変なことになったな。
「あの、リネア様……」
リネア嬢に声をかけて、俺は驚いた。
さっき皇太子妃に啖呵を切った彼女は、蒼白な顔で震えていたのだ。
「……どう、しよう」
「リネア様……」
……そうだ。こんな状況で、攻撃を中止するなんて狂気の沙汰だとしか思えない。
それでも、彼女は精霊を護りたい一心で、勇気を絞り出したんだ……!
その努力を、無駄にさせはしない。
「やれるだけやってみましょう、リネア様!」
ぎゅっと彼女の手を握り、呼びかける。
俺は、あなたの味方ですよ……と。
リネア嬢ははっとした表情で俺の方を振り向き、そして大きく頷いてくれた。
「精霊に交信を試みるとおっしゃりましたね。あの竪琴を取りに精霊宮に行きますか」
そうヨエルに問いかけられ、リネア嬢は何か思案しているようだった。
……ヨエルの奴、いつもみたいに「めんどくせぇ」とかいうかと思ったけど、協力してくれるんだな……!
「いえ……精霊宮に行けば1時間では間に合わないでしょう」
「じゃあ、さっきの楽団に楽器を借りてくるのは……」
「いいえ、精霊との交信には特殊な楽器が必要になります。でも、確か……」
リネア嬢は俺たちの方を振り返り、舞台会場の外を指差す。
「この近くに、菫青洞と呼ばれる洞窟があります。街の中に精霊宮ができてからはほとんど使われておりませんが、かつては数多の精霊使いがその場所で交信を行っていたと……! そこに、精霊との交信用の道具が仕舞ってあると聞いたことがあります」
「じゃあ、それを使えば……」
「はい……うまくいくかどうか、わかりませんが……」
リネア嬢は不安そうに顔を歪めた。彼女だって、きっと自信があるわけじゃないんだろう。
それでも……
「きっと……大丈夫ですよ。リネア様のお気持ち、あの精霊もわかってくれます」
俺はそう言ってリネア嬢を励まそうとした。
……もちろん、そんな保証はない。でも、彼女が自信なさそうにしてたらできるものもできなくなる、そんな気がしたんだ。
「はいっ! それで、その……一緒に、来ていただけますか……?」
彼女の瞳が、不安そうに揺らめいている。
……そんなの、心配する必要はないのに。
「もちろんです! な、ヨエル!」
「……まぁ、仕方ない」
ヴォルフのことが気にかかったが、たぶんあいつは大丈夫だろう。
今は、俺たちにできる精一杯をやらなきゃな!
「1時間しかないし、行きましょう!」
「はいっ!!」
互いに顔を見合わせ、俺たちは走り出す。
そんなに時間は残されていない。うまくいくかどうかはわからないけど、とにかくやるしかない!
◇◇◇
リネア嬢の案内の元、混乱する人々の間を縫ってその洞窟を目指す。
俺たちの目指す菫青洞は、市街地から離れた湖畔の岩場に存在するということだった。
「このあたりは足元が不安定なので気を付け……ひゃあ!」
「リネア様!?」
不安定さを自ら立証してくれたリネア嬢は、すぐにむくりと起き上がる。
「問題ありません、参りましょう!」
いつもの弱弱しい様子とは全然違う。今のリネア嬢はまるで別人のようだった。
……それだけ、精霊のことが大切なのかな。
前に見た、精霊宮で竪琴を弾き鳴らし、精霊と交信を図っていた彼女を思い出す。
あの時の彼女は本当に生き生きしていた。今精霊を傷つけ、失ったりすれば、きっと彼女の心に大きな傷となって残るだろう。
そんなことは、させたくない。
気合を入れなおし、ごつごつした岩場を抜け洞窟に向かう。
だが、ある地点で先頭を走っていたリネア嬢が小さく悲鳴を上げて足を止めた。
「あれはっ!」
「……水魔か!」
俺たちの進路をふさぐように、魚のようなトカゲのような……なんとも言い難い生き物が警戒するようにこちらを睨みつけている。
こいつら、魔物か……!
「そんな、水魔が陸に上がってくることなんて滅多にないのに……!」
「しかも、なんか殺気だってません!?」
水魔はぐるぐると喉を鳴らし威嚇するように不快な音を立てている。
このまま通してくれる……気はなさそうだ。
「ちっ、やるしかねぇか……!」
回り道はできないし、のん気にどいてくれるのを待つ時間はない。
悪いけど、ここは蹴散らすしかないな!
「リネア様、下がっててください!」
ヨエルが牽制するように水魔のすぐ傍に氷柱を打ち込む。これでどいてくれればよかったのだが、水魔たちは激高したように襲い掛かってきた。
「“聖気解放!!”」
まさかこんなことになるとは思っていなかったので杖は持ってきていない。
でも、この程度の相手なら問題ないな!
ヨエルと二人、群がる水魔どもを蹴散らしていく。
だが、そんなとき背後からリネア嬢の悲鳴が聞こえた。
「リネア様!?」
見れば、後ろに下がってリネア嬢の元にも湖から現れたと思しき水魔が迫っているではないか!
慌てて追い払おうと呪文を唱える。でも、間に合わないっ……!
そして、水魔が彼女に飛び掛かろうとした瞬間……
どこかから飛来した矢が水魔の体に突き刺さったのだ。
水魔は弾かれたようにその場に崩れ落ちる。
「なっ……!」
一体誰が……と矢の飛んできた方向へ視線をやり、俺は驚いた。
そこには、黒衣に身を包んだ青年が鋭い表情で弓を構えていたのだ。




