69 落とし子の誓い
「そうは言っても、やはり慣れないものですね……」
ヴォルフの隣で、並んで歩いていたリネアは物憂げなため息をついた。
その夜、リネアはヘルムートに連れられるようにして夜会の場に現れた。
きっと、彼女なりに心境の変化があったのだろう。
見目麗しいブラウゼー家のご令嬢の登場に男性陣は湧き立ったが、矢継ぎ早に何人もの人間に話しかけられたリネアはすぐに涙目になり、こうしてヴォルフと共に人気のない庭園へと逃げてきたと言う訳だ。
リネアが近づいてきた時に何人かの恨めしげな視線が刺さったが、さすがに面と向かってヴァイセンベルク家のヴォルフに喧嘩を売ってくる人間はいなかった。
「ヴォルフリート様はすごいんですね。私は、どうしてもああいう場は気後れしてしまいます……」
「僕も苦手ですよ。できれば出たくないんですが、兄にどうしてもと言われてましてね」
「ふふ、私と同じですね」
朝はあれだけヴォルフに対し警戒心を丸出しにしていたリネアも、今は楽しそうにくすくすと笑っている。
きっとこれもクリスのおかげなのだろう。
「ヴォルフリート様はいつまでこちらにいらっしゃるのですか?」
「あと三日ほどですね。クリスが帰りたくないと駄々をこねそうですが」
まだ食べてない物とか行ってないとことかあるのにー!!……と憤慨する顔が今から目に浮かぶ。
その様子を思い浮かべてどこか愉快な気分になっていると、リネアがじっとこちらを見ているのに気が付いた。
「……何か?」
「い、いえ……その、とても……優しいお顔をされていたので……」
リネアはしばらくの間なにかをためらうようなそぶりを見せていたが、やがて顔を上げじっとヴォルフに視線を合わせてきた。
「……ヴォルフリート様、私に言われましたよね。あなたが家を出ている間に、誰よりも大切な相手に出会ったと」
「はい」
「それが……クリスさんなのですか」
それは、どこか確信を持った問いかけだった。
「……そうです」
迷うことはなく、ヴォルフははっきりとそう答えた。
クリスに対する想いに嘘はつきたくない。それに目の前の少女ならわかってくれる、どこかでそう思っていたのかもしれない。
リネアはヴォルフの答えを聞くとそっと息を吐き、そして微笑んだ。
「やっぱり、そうなんですね」
「わかりますか」
「さすがに、そういうことに疎い私でもわかりますよ。ヴォルフリート様はクリスさんのことを話すときはいつも嬉しそうにされていますから」
……そんなにわかりやすいのだろうか。
今更ながら、ヴォルフは多少恥ずかしくなった。
リネアは呆れたように笑っていたが、やがて真剣な顔でヴォルフの方に視線を向ける。
「……本気で、好きなんですか」
「これ以上ないくらいに本気です。昼間も言いましたが、あの人のためなら僕の全てを捧げても構わないほどに」
気づいた時には、もうどうしようもないほどに好きになっていた。
その予測できない突拍子もない行動から、ころころ変わる表情から、出会った頃からずっと目が離せない。
ヴォルフの孤独を解き放ってくれた人。
ヴォルフを優しく包み込んでくれる人。
クリスと触れ合うたびに、自分の凍り付いた心がだんだんと溶けていくようだった。
ヴォルフにとってのクリスは大切な恋人だ。でも、それだけじゃない。
苦楽を共にした戦友であり、志を同じくする盟友でもある。
親友のような、姉のような、弟のような、時には天使や女神のようにすら思えることもある。
きっと、こんな相手は二度と現れないだろう。心の奥底でヴォルフはそう確信していた。
だからこそ、逃がしたくない。手放したくなんてない。
「……クリスさんが、使用人でもですか」
「僕にとっては関係ありません。クリスはクリス。使用人だろうがなんだろうが一人の大切な人間にあることに変わりはない」
そもそもクリスがヴォルフの専属メイドになったのは二人が恋人になってからなのだ。
別に使用人だから好きになったとかそういうわけではない。
そう考えて、やっとヴォルフは思い出した。目の前のリネアは、確かブラウゼー公と使用人との子ではなかったか?
「……私の母は、私が幼いころに亡くなりました。病死だと言われていますが……実際にどうだったのかはわかりません」
リネアは言外に謀殺の可能性を示唆しているのだろう。この世界では珍しいことではない。
ヴォルフは何も言わずに彼女の言葉の続きを待った。
「父に見初められたことは、母にとって幸福だったのか不幸だったのか、どうしても考えてしまうんです。私が生まれなければ、母が死ぬこともなかったのではないかと……!」
『あんたなんて、生まれてこなければよかったのに!!』
遠い昔に聞いた呪いの言葉が蘇る。
その言葉はずっと……今でも、ヴォルフを縛っている。
それでも……
「生まれてしまった以上は、僕たちにはどうしようもないことです」
そう、どうしようもないのだ。
過去に戻って、自分を生むななんて言うことはできないのだから。
「僕たちの存在を疎ましく思う者がいる。僕たちが生まれたせいで不幸になった者がいる。それも……どうしようもないことです。生きていく以上は、どこかで折り合いをつけていくしかない」
何もかもが自分の望む通りにはならない。
それでも、ヴォルフを疎ましく思う者がいれば、逆に必要としてくれる者もいる。
だったら、自分はその人のために生きていきたい。
……そう思えるようになったのも、クリスに出会ったからだろう。
「僕も昔はいつ死んでもいいと、むしろ僕みたいな人間はいなくなった方がいいんじゃないかと思ってました。でも、クリスに出会って……クリスを守るために生きなきゃいけない。そう思えるようになったんです」
あの人は危なっかしいから、放ってはおけない、見ていなければいけない。
クリスもヴォルフと一緒にいたいと言ってくれた。
その時から、クリスはヴォルフの生きる意味になった。
「自分の生き方は自分で決めるしかない。自分勝手にあれこれ言う者の言うことを聞いていてもいいことなんてあるわけがない」
リネアを見ていると歯がゆく思う。まるで昔の、何もかもに絶望していた頃の自分を見ているようで。
だから、彼女を助けたい。今度は、自分が彼女の先導者になる番なのかもしれない。
「あなたにも、あなたのことを思ってくれる人がいるでしょう。その人たちを、悲しませたらいけないと思うんです」
確かにリネアは辛い境遇で生きてきたのだろう。
だが、彼女の兄のヘルムートや精霊宮のエルマのように、リネアのことを心配し、大切にしている者もいる。
リネアだって、それはわかっているだろう。
「…………はい」
震える声でそう呟いたリネアが、何度か目をこすっていた。
……こういう時はどうすればいいのだろうか。
長兄のジークベルトだったら優しく抱き寄せるのかもしれない、次兄のマティアスだったら鬱陶しいと突き放すのかもしれない。
結局そのどちらもできなくて、せめてヴォルフは気づいてないふりをしてリネアから視線を外し庭園の方を眺めていた。
しばらく時間が経った頃、リネアは落ち着きを取り戻したのか小さく声を絞り出した。
「すみません、私……お見苦しいところを」
「いえ、僕こそ気が利かず……」
僕が私が、と言い合っている間に、なんだか馬鹿らしくなってしまった。
リネアもすっかり元通りにくすくすと笑っている。
「……あなたに愛されるクリスさんは幸せですね」
ふと、リネアがそう呟いた。
驚いて振り返ると、リネアは何かおかしなことを言っただろうかというように首をかしげていた。
……リネアには、そう見えているのだろうか。
「……そうだと、いいんですけどね」
ヴォルフにとってはクリスは唯一無二の存在だ。
でも……クリスにとってはどうなんだろうか。
ヴォルフがいなくてもクリスを慕い守ろうとする者はいくらでもいるだろう。
自分は、ただの我儘でクリスを独占しようとしているだけなのかもしれない。
血を吸われ、存在を歪められ、クリスは本当に幸せなのだろうか。
「……私が言えたことじゃないですけど、クリスさんのこと、大切にしてくださいね。……私の母のようには、ならないように」
「…………はい、もちろんです」
クリスにはもっと別の幸せがあるのかもしれない。
だが、今更手放すことなんてできるはずがない。
クリスを騙し、貶めることになったとしても、ヴォルフにはクリスが必要だ。
ヴォルフしか見えないようにして、鎖にはめて、どろどろに溶かすように愛する。
それが、ヴォルフのやり方だ。
だったらそれを貫き通すしかない。
──それが、二人の幸せだと信じて
誤字報告受付設定にしました。
誤字がありましたらバシバシ指摘してやってください!




