68 君に会えたから
二人が走り去るのを見て、ヨエルは大きくため息をついた。
「……珍しいな。お前が女相手に冷たく突き放すなんてよ」
しかも相手はブラウゼー家の令嬢だ。もしも彼女が家族に泣きつけば、ヴォルフとてただでは済まない可能性もある。
……そんなことくらい、わからないはずがないだろうに。
「わかってんのか。彼女は庶子とはいえブラウゼー家の人間。……皇太子妃の妹でもあるんだだぜ。大事になるかもしれねぇんだぞ」
「彼女にそんな度胸はありませんよ」
「お前なぁ……」
やはり、ヴォルフのリネアに対する態度はどこかおかしい。ヨエルの知るヴォルフは、ある程度気に入らない相手にもそれなりの礼を尽くす器用さを持っていた。
裏返せば、それだけリネアに対し感心……というより思うところがあるのだろう。
「……でもまぁ、言いすぎたのは認めます」
「早く謝って来いよ」
幸いにもすぐにクリスが追いかけて行ったので、最悪の事態にはなっていないと思いたい。
それでも、時間たてばたつほど事態は悪化していくだろう。
「……彼女を見てると、イライラしてくるんです」
そう呟くと、ヴォルフはヨエルに背を向け階段を下りて行った。
それを見送って、ヨエルは再び大きなため息をついた。
……まったく、面倒なことにならなければいいのだが。
好きの反対は無関心ともいう。苛立つのはそれだけリネアに対し関心を持っているからだろう。
「……同族嫌悪、か」
◇◇◇
「リネア様!?」
リネア嬢は意外と足が速かった。
鐘楼を降りたところでうっかり見失ってしまったが、足元に現れたスコルとハティがきゃんきゃん鳴いて教えてくれる。
『クリス、あっちあっち!』
「わかった!」
どうやら彼女は教会の裏手の方へ向かったようだ。
慌ててそちらへと足を向ける。
教会の裏には、小さな花壇があった。その傍らに、目当ての人物はいた。
「……リネア様」
彼女はしゃがみ込むようにして、顔を覆ってすすり泣いていた。
その姿に怒りが込み上げてくる。もちろん目の前の彼女にではなく、あの冷血吸血鬼にだ。
近づく足音が聞こえたのか、リネア嬢が顔を上げる。そして、俺の姿を認めると彼女の顔がゆがんだ。
「ク、リスさん……私…………」
「いいんです、いいんですよ。あなたは何も悪くない」
ちょっと失礼かな、とも思ったけど彼女の傍にしゃがみこみ、そっとその肩に触れる。
その途端、リネア嬢の目からみるみる涙が溢れ出した。
「う、ふぅっ……」
ぽんぽん、と優しく彼女の頭を撫でる。
リネア嬢は、そのまましばらく俺の頭を預けるようにして声をあげて泣いていた。
……なんかこうしていると、大貴族のお嬢様でもやっぱり女の子なんだなって思えてくる。
無礼極まりないけど、ちょっと親しみがわいてくるから不思議だ。
だんだんすすり泣きが小さくなっていき、やがて彼女は顔を上げた。
「す、すみません……私…………」
「いえいえ、悪いのはヴォルフの奴ですよ!! あいつ……普段はあんなこと言う奴じゃないんですけど……」
さっきのは酷かった。思い出すだけで怒りが込み上げてくる。
でも……普段のヴォルフはあんなふうにいきなり人を傷つけるようなことを口にする奴じゃない。
特に、女の子相手にはいつも優しかったはずだ。だから、俺にはさっきのヴォルフの行動が理解できなかった。
「あの……ほんとに、ほんとに普段はいい奴なんです。さっきのもたぶん何かの間違いなんです。すぐに謝らせますから、その……」
「…………いいえ、ヴォルフリート様がああおっしゃるのも当然です」
リネア嬢はぐすりと鼻をすすりながら、そっと目を伏せた。
「ヴォルフリート様のことは、兄さまからよく伺っております。私と同じような境遇なのに……とても、立派な方だと。だから、あの方からすれば甘えてばかりの私を鬱陶しく思うのが当然でしょう」
「そんなこと……」
「あの方の言ったことはすべて本当です。私、恥ずかしい……。自分の境遇を言い訳にして、皆様を不快にして、自分では何もしようとしなかった」
彼女は、ぎゅっと手を握り締めていた。
「でも……私には無理なんです。私はヴォルフリート様のような立派な人間じゃない。どうしても……できないんですっ……」
またリネア嬢の目が潤み始めて、俺は慌てた。
その時、ゆっくりこちらに近づいてくる足音が聞こえた。
リネア嬢の方がびくりと震える。おそるおそる振り返ると、そこにはゆっくりとこちらへ歩いてくる元凶の姿があった。
「……何しに来たんだよ」
「彼女に、謝罪を」
その言葉を聞いてほんの少しだけほっとした。
また何か酷いことを言おうとしたら追い返そうと思ったけど、謝りに来たのなら及第点だ。
「先ほどはすみませんでした。僕も言いすぎたと反省しています」
その言葉を聞いてリネア嬢はふるふると小さく首を横に振った。
「いえ……ヴォルフリート様は悪くありません。私のような者に不快になるのは当然のことです」
「えぇ、そうですね」
「おいっ!」
お前、謝りに来たんじゃないのかよ!
追い打ちを掛けに来たんなら追い出してやるからな!!
そう思って立ち上がりかけると、ヴォルフは小さくため息をついた。
「あなたを見ていると苛立つんです。……まるで、昔の自分を見ているようで」
「えっ……?」
俺もリネア嬢も、驚いてヴォルフを凝視してしまった。
ヴォルフは、どこか感情の読めない視線でリネア嬢を見ていた。
「あなたのお兄さんに聞いているとは思いますが、僕は正妻との間の子ではありません。父と愛人の間にできた庶子になります」
ぽかんとする俺たちの前で、ヴォルフは淡々と話し始めた。
「僕の母の出自は定かではありません。母は僕が幼いころに亡くなりましたが、今でも周囲の人間には魔女や災いを呼ぶ化け物なんて言われています」
さすがにリネア嬢に吸血鬼の話はできなかったのだろう。
ヴォルフは少し濁しながら自分の母親の話をしている。
……ヴォルフは、今まであまり自分の両親のことを話したがらなかった。
それなのに、リネア嬢には自分から話そうとしてるんだ。
何故だか、心がざわめいた。
「……もちろん、僕も昔から色々言われて育ちました。化け物の子、売女の子、生まれてこなければよかった。気持ち悪い。今すぐ消えろ……なんてことも何度も言われましたね」
俺は絶句したが、リネア嬢は驚くこともなくじっとヴォルフの話に耳を傾けている。
……彼女も、同じような経験があるんだろうか。
「だから、ずっと嫌いだったんです。ヴァイセンベルク家も、そこに関わる人間も、みんな。……だから、逃げました」
「え…………」
「対外的には長い間他国に留学してたなんて言ってますが、単に無断で家を出ていただけです。家を出ていた数年間、一度も帰ろうと思ったことはありませんでした」
……胸がぎゅっと詰まったようになって、俺は何も言えなかった。
俺がヴァイセンベルク家に捕まって、こいつが真っ先に助けに来てくれた時……いったいどんな気持ちだったんだろう。
今だって、ヴォルフの母親のことを悪く言う人はいる。
辛くない、はずがない。
「家を出て、それこそ人生が変わりました。ヴァイセンベルク家なんて広い世界のほんの一部でしかない。そうわかって生まれ変わったような気すらしました。大変なこともたくさんありましたが、後悔したことはありません」
「広い世界の、ほんの一部……」
「様々な場所に行って、色々な人に会いました。……その中で、自分の全てを賭けてもいいほど誰よりも大切な人もできました」
ヴォルフがちらりと俺の方へ視線をやる。
……駄目だ、泣きそう。ぎゅっと拳を握り締めて何とか溢れそうになる涙をこらえる。
「だから、あなたを見てると……どうしても苛立ってしまうんです。あなた自身にではなく、昔の自分を思い出して。さっきのはただの八つ当たりです。本当に申し訳ありませんでした」
ヴォルフはそう言って深く頭を下げた。
慌てたようにリネア嬢が立ち上がる。
「や、やめてください……! あなたが謝るようなことはっ」
「いいえ、一方的な押し付けであなたを傷つけたのは事実です。ただ……」
ヴォルフはそこで言葉を切ると、一歩リネア嬢の方へ近づいた。
「あなたを見ていると歯がゆく思います。あなたは……本当にそのままでいいんですか」
ヴォルフの問いかけに、リネア嬢は自信なさげに俯いた。
「何も僕のように家を出ろとはいいません。ただ……今の状況は、あなたにとって望ましいものではないのではと」
「……はい。ヴォルフリート様のおっしゃる通りです」
リネア嬢は顔を上げると、どこか泣きそうな表情で笑った。
「私も、あなたのように広い世界へ飛び立てたら……と思い描くことはあります。でも……無理なんです。私はあなたのようには強くはない。ブラウゼーの庇護なしに生きてはいけないこともわかっているんです」
リネア嬢は小さく震えていた。
俺はなんて言っていいのかわからなくて、ただただ成り行きを見守ることしかできなかった。
「辛いことはありますが、私が今までブラウゼー家の庇護の元生きてこられたのも事実です。だから……せめて家のために尽くしたいと思っているのですが、私には……何も……」
だんだんと声が小さくなっていき、リネア嬢はまた俯いてしまった。
俺の元でおとなしくしていたスコルとハティが、心配そうにその足元にすり寄っていく。
「……こいつら、単純なようで悪い人のところには絶対に行かないんですよ」
そう言うと、リネア嬢は驚いたように顔を上げた。
「精霊宮でも……多くの精霊がリネア様のところに集まっていました。精霊って、人の中身っていうか心を敏感に感じ取ってるみたいです。あれだけ多くの精霊がリネア様のところに集まってくるのは、リネア様が優しい人だってこと、ちゃんとわかってるんですよ」
「優しいだけじゃ、貴族社会ではやっていけない。……でも、あなたのその優しさを必要としている者が、きっとどこかにいるはずです」
リネア嬢は小さく頷いた。
……ヴォルフの言う通り、貴族社会では彼女のような純粋でまっすぐな優しい人がそのままでいるのは難しいのかもしれない。
でも……できれば今の彼女のままでいて欲しい。
身勝手にも、俺はそんなことを思ってしまうんだ。
「リネア様は素敵な方だとお……私は思います。どうか、自信を持ってください。今日、とっても楽しかったです」
そう言うと、リネア嬢は俺の方を向いて泣きそうな顔をした。
「クリスさん、ありがとうございます。……あなたは優しいんですね」
リネア嬢はそっと笑ってくれた。
うん、彼女の笑顔を取り戻せたようなら何よりだ!
「そろそろ戻りましょう。いい加減ヨエルが待ちくたびれて怒ってそうです」
「うわ、あいつのこと忘れてた……!」
また何か嫌味でも言われるかもしれない。
思わず頭を抱えると、リネア嬢はくすくすと笑った。
「ヴォルフリート様は、従者の方とも仲がよろしいんですね」
「僕自身、自分が貴族だという意識があまりないので、従者というよりも友人だと思ってますよ」
「友人、ですか……」
リネア嬢は目を丸くすると、何か考え込んでいた。
「……少し、羨ましいです。私、生まれてこのかた友人と呼べるような相手はいなかったもので」
どこか寂しそうに、リネア嬢はそう呟いた。
なんだかその様子を見ていると、ぎゅっと胸が詰まったような気がしてくる。
俺も、故郷にいた頃は友達なんて言える相手はいなくて、いつも一人で遊んでいた。
彼女は、そんな昔の俺と同じような状況なんだ……!
「じゃあ、私と友達になりましょう!」
気が付くとそう叫んでリネア嬢の手を取っていた。
あ、やばいと気づいたのはその直後だ。
いくら同じような境遇と言っても、リネア嬢は帝国大貴族のお嬢様、俺のような片田舎他の平民と一緒にしていいはずがない。
リネア様だって、いきなりメイド風情そんなこと言われたらひくだろっ……!
「……よろしいん、ですか」
どうしよう、やっぱ嘘ですとか言って手を離した方がいいかな……と焦っていた俺の耳に、消え入りそうな声が届く。
リネア嬢は、どこか潤んだ瞳で俺のことを見つめていたのだ。
「ぁ……やっぱり、嫌、ですよね……私なんて……」
俺がぽかんとしているのに何を勘違いしたのか、リネア嬢はまた目を潤ませて俯いてしまった。
「いえいえっ! 俺でよければ喜んで!!」
ぎゅっと握った手に力を込める。
俺なんかがにできることは少ないだろうけど、少しでも彼女の支えになれればいいな。
「……クリスは、悪い人間ではありません。それは僕が保証します」
ヴォルフが苦笑しながらそんなことを言ってくる。
リネア嬢はどこか戸惑った様子だったけど、それでも最後には控えめな笑顔を見せてくれた。
「はい、ありがとうございます。ヴォルフリート様、クリスさん。……あなた方に出会えたこと、兄さまに感謝しなければいけないですね」
そう言った彼女の顔は、どこかすっきりしたように見えた。
きっと、いきなり彼女の境遇や生き方を変えることは難しいだろう。
でも……自分の考え方や、感じ方を変えることはできる。
たぶん、ヴォルフもそう言いたかったんじゃないかな。
リネア嬢の美しい横顔を眺めながら、俺は勝手にそんなことを考えていた。




