64 浮気は許せません!
「よし、落ち着け。まずは深呼吸だ」
ヨエルが俺の肩をがっちりと掴んでそんなことを言う。
……大丈夫、俺は落ち着いてるよ。
「なぁ、ヨエル。俺は誰を刺せばいい? ヴォルフ? あの人? それとも俺自身?」
「いいから深呼吸しろ」
ヨエルがぶんぶんと揺さぶってくる。
すーはーと大きく息を吸うと、やっとちょっとだけ落ち着いたような気がした。
ヴォルフを訪ねて、ブラウゼー家のお嬢様がやってきた。
うん、たったそれだけだ。それだけ……。
「ううぅぅぅぅ……」
「おい、泣くなよ! 盗聴してるのばれんだろ!!」
壁にぴったりとコップをつけて、ヴォルフたちのいる隣室の声を聞いていたヨエルが小声で注意してくる。
床に崩れ落ちたまま、俺はできるだけ音を立てないようにずびずびと鼻をすすった。
だって、今日は一緒に街に出るって約束したのに……。
俺があいつに滅茶苦茶にされてダウンしてた間、あいつは夜会で女の子を引っかけてたんだ……!
許せん! 成敗してやる!!
「……不浄なるものに裁きを」
「おい、だから落ち着けって。まだ浮気かどうかわかんねぇだろ」
「じゃああのお嬢様は何しに来たんだよ!」
「だから静かにしろって!!」
ヨエルは苛立った様子で俺に向かってコップを差し出してきた。
……聞いてみろってことか。
まぁ、暴れるのは状況を把握してからでもいいだろう。ぴとりと壁にコップをくっつけ、そこに耳をあててみる。
……別に、いつか心変わりをするのは仕方ないと思ってる。
たとえ他の相手を選んだとしても、俺がヴォルフを支えたいという気持ちは変わらない。
たぶんいっぱい泣いて、落ち込むと思うけど……それでも傍に置いてくれるのなら、メイドとして親友として……場合によっては二番目の恋人として、あいつをずっと支えていきたい。
あいつ自身も貴族だし、選ぶなら貴族の女の子の方がいいに決まってる。それは俺にもわかってる。
でも……だったらちゃんと話してほしかった。
こんな、だまし討ちみたいなのは卑怯だ!
さすがの俺でも怒るときは怒るんだからな!!
◇◇◇
「……それで、今日はいったいどうしたんです?」
動揺を抑えつつ、ヴォルフは目の前の男に問いかけた。
昨晩会ったばかりの男……ヘルムートは、いつも通りへらへらした笑みを浮かべて豪奢なソファに腰かけ、優雅に足を組んでいる。
その隣では、彼の妹のリネアがぷるぷる震えながら縮こまっていた。……まったく意味がわからない状況である。
「縁談の持ち掛けか? ブラウゼーと組んでシュヴァルツシルトに挟撃を仕掛ける……悪くないな」
「はぁ!? 何言ってんですか兄さん!!?」
「冗談だ。縁談の話ならもっと正式な手続きを踏め。応えるとは限らんが」
兄のマティアスは優雅に紅茶に口をつけており、少しも動揺した様子はない。
これが貴族社会で生きてきた経験値の差なのだろうか。
ヴォルフは小さくため息をついた。
「いやいやいや、俺も可愛い妹を野蛮人に売り払うほど落ちぶれてねぇよ!」
「……その野蛮人とは我々のことか」
「おっと失礼。つい本音が」
ヘルムートがぺろりと舌を出す。ガタイのいい男にそんな仕草をされてもイラつくだけだが。
怒り狂うかと思ったが、意外にもマティアスは冷笑を浮かべただけだった。
こういう人の神経を逆なでするようなタイプの相手はジークベルトで慣れているのかもしれない。
ヴォルフはちらりとリネアに視線をやった。
彼女はこの場の雰囲気に耐えきれないとでもいうように、ぎゅっと膝の上で拳を握り締めて下を向いている。
「ヴォルフリートはうちに来るの初めてだろ? いろいろ案内してやろうと思ってね。でも残念ながら俺は時間がとれなくてねぇ……そこで! 年も近いし妹に頼もうと思ったわけよ。なぁリネア?」
「な、なんなりとお申し付けください……」
兄に促され、リネアは今にも消え入りそうな声でそう絞り出した。彼女が乗り気でないのは明らかだ。
……見ていて哀れになってくる。
だが、なんとなくヘルムートの意図は見えてきた。昨日彼が言っていた通り、妹の人見知りを克服させたいという試みの一環なんだろう。
……しかし、こんな荒療治は逆効果ではないのか。ヴォルフはそう思わずにはいられなかった。
「ふむ、そういうことか……。せっかくだから言葉に甘えたらどうだ、ヴォルフリート」
「えっ?」
「そうそう! タダで観光ガイドが来てくれたと思ってくれよ!!」
意外にもマティアスとヘルムートの意見は一致しているようだ。
……ここは、彼らの言うとおりにしておいた方が良いのかもしれない。
「……隣の部屋の、お前の従者も連れていったらどうだ」
「………………」
……気づいていたか、とヴォルフは内心で嘆息した。
先ほどから漏れ聞こえる隣室の会話を聞く限り、どうやらヴォルフの恋人はよくない勘違いをしているようだ。
ここは一緒に行って、誤解を解いた方がいいだろう。
「……はい、よろしくお願いします。レディ・リネア・ブラウゼー」
そう呼びかけると、リネアは慌てたように何度も頭を下げていた。
また面倒なことになったな……とヴォルフは内心ため息をついた。
しかし、心のどこかで目の前の少女に共感を覚えているのも事実だった。
◇◇◇
「クリス、ヨエル。彼女はブラウゼー家のリネア嬢です。本日はご厚意で彼女にエンテブルクの街を案内していただけることになりました」
ヴォルフはしれっとそんな風に彼女を紹介した。
う、浮気にしては堂々としすぎてる……!
しかしヴォルフの連れてきたお嬢様はどこか怯えた様子で視線を彷徨わせていた。
朝っぱらから訪ねてくるくらいだからどんな情熱的な人かと思いきや、これは予想外だ。
思いっきり問い詰めてやろうと思ってたけど、なんか思ってた状況と違う。会話を盗聴した限りだと、なんか甘い雰囲気……ってわけでもないみたいだし。
俺はどうしていいのかわからずに固まってしまった。
「リネア、こちらは僕の従者のクリスと魔術師のヨエルです。二人とも僕と同じくエンテブルクの街を訪れるのは初めてとなります」
ヴォルフはそこで言葉を切ると、俺の方へと視線をやってきた。
その何かを促すような視線に、俺はやっと自己紹介をすべきだと気がつく。
「初めまして、リネア様。クリス・ビアンキと申します」
使用人風情の紹介はいらん!……と怒られることも考えたけど、リネア嬢は小声で「よ、よろしくおねがいします……」と口にしただけだった。
……本当にどういう状況なんだろう。
ヨエルも自己紹介を済ませたところで、向こうからブラウゼー家のヘルムートさんが歩いてくるのが見えた。
「いやー、今日は天気もよくてよかったな! まぁ何もないとは思うがうちの可愛い妹を頼むぞ?」
「えぇ、お任せください」
ヴォルフはそうヘルムートさんに応えていた。
……どこか感情のこもってない声だったのは気のせいだろうか。
「リネア、少しいいか?」
ヘルムートさんがリネア嬢を呼び、二人は少し離れたところに移動して何か会話を交わしていた。
そして、その隙を伺うようにして、さりげなくヴォルフが近づいてくる。
「その、誤解しないで欲しいのですがこれには深い事情が」
「……後で聞く」
怒ってるふりをしながらも、俺はそのヴォルフの態度に安心していた。
リネア嬢がここに来たのもわけありっぽいし、ヴォルフは浮気なんてしてなかったのかもしれない。
そう考えると、沈んでいた気持ちが一気に浮き上がってきた。
「……リネア嬢は少し人見知りのようで、僕は怖がられているようです。あなたなら僕ほど警戒はされないと思うので、彼女を気遣ってもらってもいいですか?」
ヴォルフは必死の表情でそんなことを頼んできた。
……何故そんな状態でリネア嬢が俺たちを案内することになったんだろう。
まぁ、それもたぶん後で教えてくれるんだろう。
「わかった。やってみるよ」
今の俺は女の姿……というか体をしている。
リネア嬢もヴォルフやヨエルよりは俺の方が話しやすいってこともあるかもしれない。
なんて考えてる間に、ヘルムートさんとリネア嬢が戻ってくる。
「それではよい旅を!」
「お、お待たせいたしました。参りましょう」
機嫌よさそうに手を振るヘルムートさんに見送られ、緊張した様子のリネア嬢と共に俺たちは出発した。
何はともあれこれからは街の観光だ。
思いっきり楽しまなきゃな!




