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63 蒼の姫君

「お、お兄様……!」


 ヘルムートの背後に隠れた少女──リネアは慌てたように兄の服を引っ張ったが、彼はへらへらした態度を崩さなかった。

 ヘルムートの妹……ということは彼女もブラウゼー家の人間なのだろう。

 だが、使用人の子だと……?

 困惑するヴォルフの方へ視線をやりながら、ヘルムートは妹へ声をかけている。


「リネア。こいつはヴォルフリート・ヴァイセンベルク。北のヴァイセンベルクだ。知ってるだろ?」

「ひっ! ヴァイセンベルク家の、方……?」


 リネアはヴァイセンベルク家の名前を聞いた途端、ますます怯えたように体を縮こませた。

 夜会で出会った令嬢のようにぐいぐい来られるのも困るが、こうあからさまに怯えた反応を返されると……それもまた堪えるものだとヴォルフは実感した。


「あ、あのっ……私…………駄目です、私のような……」

「そんな萎縮すんなって。大丈夫だよ、こいつもお前と同じ庶子だから」


 ヘルムートはあっけらかんとそんなことを言い放った。

 その瞬間、リネアとヴォルフの間の空気が凍り付く。


「ん? どした? リネ──」

「ご……ごめんなさい!!」


 リネアが弾かれたように兄の背中から離れる。

 彼女はちらりとヴォルフに視線をやったかと思うと、泣きそうな顔をしてその場から走り去ってしまった。



「おーい……ってもういねぇし」


 ヘルムートが呼び止めようとした時には既に、リネアの姿は暗がりの向こうへと消えていた。


「ありゃりゃ、逃げられちまった」


 肩をすくめやれやれといった様子でこちらを振り返るヘルムートに、ヴォルフは呆れてものも言えなかった。

 あんな紹介の仕方をされれば、リネアが逃げ出すのも仕方ないだろう。

 この男はそんなこと察しがつかないほど鈍感なのか、それとも……


「……わざと、空気が読めないふりでもしてるんですか」


 そう問いかけると、ヘルムートはにやりと笑った。


「世の中馬鹿になった方が得することもあるんだぜ? ヴォルフ君」


 ……ヴォルフには、理解できそうもなかった。


「お前やマティアスみたいな生真面目な奴にはわかんねーかもしれねぇけどさ、馬鹿になって勢いでぱぱーっとやったほうがうまくいくことだってあるんだぜ?」

「それで、妹を傷つけてもですか」

「……言うねぇ。誤解のないように言っておくが、リネアは俺にとって大事な妹だ。いつも俺はあいつの幸せを考えてる。さっきのは……まぁ、ちょっとまずった自覚はあるけどな」


 ちょっとどころじゃないだろう、とヴォルフは内心ため息をついた。

 ブラウゼー家の内部事情はよくわからないが、リネアからすれば信頼していた兄に突き放されたような気分になってもおかしくはないはずだ。


「そのさ、俺は……庶子だからって気にすんなっていうか……そんなに遠慮したり萎縮したりすんなって言いたかったんだよ」

「……そんなの、無理ですよ」

「なんでだよ。リネアがブラウゼー家の人間であることに変わりはないだろ」

「…………嫡子のあなたには、わかりませんよ」


 幼いころから疎まれ、罵声を浴びせられ、どうして萎縮するななんて言えるのか。

 存在を、生まれたことすら否定される苦しさを、目の前の男に理解ができるはずがない……!


「でもお前にはわかるだろ? リネアの気持ちがさ」

「…………え?」


 ヘルムートはヴォルフの言葉にも動じずに、いたずらっぽく片目を瞑ってみせた。

 その軽すぎる反応に、思わず拍子抜けしてしまう。


「いやー、お前ならあいつのいい理解者になってくれると思ってたんだよなー!」

「ちょっと待ってくださいよ!」


 何かに納得するようにうんうんと頷いているヘルムートを、慌ててヴォルフは止めに入った。

 彼が何を考えているのかわからない。自分は、何か彼にとんでもないことをさせられようとしているのではないか……!?


「お前の言ってた通り、リネアは結構昔から色々言われてたみたいでさ、すっかりあんな臆病で人見知りな性格になちゃったんだよな」


 ヘルムートは急に真面目な表情になると、リネアが走り去った方向へ視線をやった。


「普段は一人でひっそり本読んだり楽器弾いたりして大人しくしててさ。まぁ本人がいいならそれはいいんだが……最近は、母上や姉上に『お前も年頃なんだから男の一人や二人くらい捕まえてこい!』ってせっつかれててなぁ……」


 話を聞くだけでもげんなりしてくる。

 このあたりの女性は皆カルラ・バーテンのような性格なのだろうか……。


「特にこの時期は強制的に夜会に放り込まれて……本人はそれに耐えきれなくてああして人の来ない所にこっそり隠れてるんだよ」


 ……なんとなく、その行動はわからなくもない。

 ヴォルフはよく知らないリネア嬢に同情した。


「俺だってリネアの好きなようにさせてやりたいさ。だが母上の指示は絶対でな……だったら、せめてあいつが気持ちよく過ごせるように人見知りを克服させたいと思ってな……」


 そこで、ヘルムートはヴォルフに視線を合わせてきた。


「同じような境遇のお前ならあいつも他の奴よりは話しやすいんじゃないかって思ってさ。お前、本命の子がいるんだろ。お前みたいに真面目なタイプだったらうっかりリネアが傷つくこともなさそうだし、それで今夜引き合わせようと思ったんだが……」

「…………あんな言い方すれば逃げて当然ですよ」


 少しだけ、彼が何を考えているのかわかった。

 きっと彼なりに、内気な妹を思っての行動だったのだろう。完全に裏目に出てしまったが。


「……そうだな。もっと他の方法を考えてみるさ」


 ヘルムートはそう言って力なく笑った。

 自分を巻き込むな、と言おうとして、ヴォルフはやめた。

 ……ヘルムートの言う通り、ヴォルフにはリネアの気持ちがよくわかったからだ。


 自分は早いうちに家族から引き離され、家を出た。

 ヴァイセンベルク家の外にも広い世界が、色々な生き方があることを知った。


 そしてクリスと出会い、この人を守るために生きていくと決めた。


 ……もしそうでなければ、自分もリネアと同じような状況になっていたのかもしれない。


「……悪かったな、お前にも嫌な思いさせちまった」

「別に構いませんよ。カルラ・バーテンから引き離してくれたのは感謝しています」


 そう言うと、ヘルムートはげらげらと笑った。



 ◇◇◇



 そして翌日の朝、クリスは一日寝ていて元気を取り戻したのか、あそこに行きたいあれを買いたいとやかましかった。

 その様子を見てヴォルフは安堵した。

 自分のせいでクリスにはとんでもなく辛い思いをさせてしまった。今日は、なんでもクリスのしたいようにしようとどこに行くかの相談をしていた時だった。

 やってきた使用人が来客を告げる。

 その名前を聞いて、ヴォルフは息をのんだ。


「いやーおはよう! 昨日はよく眠れたか?」


 いつものように鬱陶しいくらい元気なヘルムートと、


「あ、あの……その……いきなりお伺いして、申し訳ありません……」


 泣きそうな顔で、消え入りそうな声でそう告げたリネア・ブラウゼーがそこにいたのだ。

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