60 嵐の一夜
(注)あとがきに(特に本編とは関係ない)イラストが出ます
「まったくのん気な奴め……」
夕食を食べてすぐに、ヨエルは酔っぱらって寝てしまった。
夜の間は暇なのでカードの相手でもしてもらおうと思っていたのに、あてがはずれてしまったじゃないか。
まったく自由な奴だ。
「はぁ……」
ヴォルフはまだ帰ってこない。朝帰り……はないだろうけど、たぶん帰ってくるのは深夜になってからだろう。
考えただけでもそわそわしてしまう。
……駄目だ。なんだか落ち着かない。
「俺も寝ようかな……」
起きていてもやきもきするだけだ。
まだまだ行きたいところはたくさんあるし、明日に備えて早めに寝てしまうのもいいかもしれない。
そう考え寝る支度をしていた時だった。
階下から、少し乱れた足音が聞こえた。
……マティアスさんの従者の誰かだろうか。それとも、ブラウゼー家の使用人か?
そう考えたけど、そのどちらも違うような気がした。
大貴族の使用人は教育が行き届いており、こんな乱雑な足音を立てるようなことはしないはずだ。
一体誰なんだろう、と考えているうちに足音が近づいてくる。
そして、隣の部屋の扉が開かれた音がした。
「……え?」
俺の隣の部屋は、ヴォルフにあてられた部屋だ。
夜会に行ってるヴォルフは当然まだ帰ってきていない。じゃあ、今入ってきたのは誰だ?
ちょっとどきどきしながら耳を澄ませていると、何か大きなものが壁と床にぶつかったような音が聞こえた。
まさか、誰か中で倒れたのか!?
とっさに立ち上がり廊下へと飛び出す。
不審者だったらどうしよう、とちょっと心配になったけど、寝てるとはいえヨエルもいるしマティアスさんの従者や他の使用人も屋敷内にいるはずだ。
いざとなったら大声を出せばなんとかなるだろう。
そう判断し、俺はヴォルフの部屋へと飛び込んだ。
そして、予想だにしなかった光景に思わず小さく悲鳴を上げてしまった。
「ヴォルフ!?」
そこにいたのは、まぎれもなくこの部屋の主だった。
だが、様子がおかしい。
ヴォルフは壁に手をついて床に崩れ落ちたような態勢で、息を荒げていた。
明らかにおかしい。いったいどうしたんだ……!?
「ク、リス……?」
ヴォルフが顔を上げ、俺を呼んだ。
だが室内が暗くて、どんな顔をしているのかはわからなかった。
「お前どうしたんだよ! 体調悪いのか!? 誰か呼んで──」
慌ててヴォルフの傍に屈みこみ、その体に触れる。
ひどく発熱したような熱さに驚いた瞬間、ヴォルフが俺の肩を掴んだ。
そして、息をつく暇もなく床へ引き倒される。
「ちょっ、なにっ……っうぁ!」
抗議の声は悲鳴へと変わる。
まるで喰いちぎろうとするかのように、肩に噛みつかれた。
経験したことのない激痛に、初めてやばい事態になっていると気が付いた。。
「い……ぃたい、痛い……!!」
普段のじゃれつくような戯れじゃない。本当に、肉食獣が獲物に噛みつき食い殺そうとするかのような勢いだった。
やばい、このままじゃ死ぬ……!
「やめっ……ヴォルフ!!」
必死で名前を呼んだ瞬間、噛みつく力が弱まる。
その直後、ヴォルフは慌てたように俺の上から飛びのいた。
「はっ、――なに、を……」
ヴォルフが俺の方へ視線を向ける。その目は、ぎらぎらと金色に輝いていた。
思わず体が竦む。それでも、なんとか声をかけた。
「なぁ、お前どうしたんだよ。体、熱いし……!」
ヴォルフは自分を制するかのように俺から距離を取ったけど、その熱っぽい瞳はずっとこっちを見てるし、はぁはぁと息も荒い。
ヴォルフは一瞬躊躇したように見えたが、やがて口を開いた。
「薬、盛られて……」
「ぇ、薬……? なんの!?」
「おそらくは…………媚薬」
──媚薬
聞きなれない響きに、一瞬思考が停止する。
「え…………?」
「部屋、戻ってください……早く……!」
鋭い視線で睨みつけながら、ヴォルフはそう言った。
でも、俺は……その場から動けなかった。
媚薬──に、ヴォルフの体は侵されている。
今どんな状態になっているのかも、察しがついてしまった。
なんでこんなことになってるのかわからない。けど……部屋に戻るとか、こいつをこのままにしといちゃいけないだろ……!
とにかくなんとかしないと。どうすればいいかなんて全然わからないけど、言う通りに逃げ出すことなんてできるはずがない。
「ね、ねぇ……どうすれば……俺は、どうすればいい……?」
「……部屋、戻って……鍵かけて、朝が来るまで絶対に外に出るな」
それは、はっきりとした拒絶だった。
……でも、俺のためにそう言ってくれたんだってことは、馬鹿な俺でもさすがにわかる。
このままヴォルフの言うとおりに、部屋に戻った方がいいんだろうか。
そうしたら、ヴォルフはどうなる? 一人で効果が消えるまで耐えるのか?
それとも──熱に浮かされたまま誰か相手を探しに外に出ていくんじゃ?
浮かんだ考えに心の底がすっと冷えていく。
普段ならそんなことないと一蹴できたかもしれないけど、今は薬の力がある。どんな行動をとったっておかしくはないんだ。
……そんなの嫌だ。たとえどんな目に合うとしても、こいつを他の誰かに渡したくない。
自己犠牲とか、そんなんじゃない。
これは、ただの醜い独占欲だ。
「……やだ」
部屋の入り口まで戻り、開きっぱなしだった扉を閉め内側から鍵をかける。
錠の回る音が、存外大きく響いた。
次の瞬間、瞬時に距離を詰めてきたご主人様によって、俺の体は再び固く冷たい床に引き倒されていた。
「……いいよ、何しても」
もう届いているかもわからないけど、そう呼びかけてみる。
のしかかってくるヴォルフは普段の冷静さがウソのように、まるで獣のようだった。
さっきみたいに理性を失った状態で……本当に食い殺されるかもしれない。
そう思ったけど、不思議と怖くはなかった。
もうベッドに移る余裕もないのか、床に押し付けられたまま引きちぎる勢いで衣服を剥ぎ取られていく。
あぁ、明日まだ生きてたらいろいろ大変そうだな……とどこか他人事のようにそう思った。
◇◇◇
……日の光が眩しい。
翌日、俺はなんとか生きていた。
体を動かそうとし途端に全身に痛みが走り、また崩れ落ちてしまう。
……ふかふかな感触に受け止められて、俺はやっと自分がベッドに寝ていることに気が付いた。
最後の記憶では普通に床に転がされていたので、気絶した後にベッドに運ばれたんだろう。
……犯される、というよりは喰われると言った方が近いかったしれない
あんなふうに乱暴に扱われたことはなかったので、ショックを通り越してなんだか自分が野生動物にでもなったような気分だった。
視線だけ動かすと、窓の外からまぶしい光が差し込んでいるのが見えた。どうやら今は朝……というよりは昼に近い時間帯らしい。
部屋には俺の他には誰の気配もない。
……ヴォルフは!?
まさか、外に出て行ったのか……!!?
「っ……!!」
慌てて体を起こそうとして、また痛みに崩れ落ちる。その拍子にベッドから転げ落ちて鈍い痛みが走ったが、それどころじゃなかった。
早く、早くヴォルフを探しに行かないと……!
他の誰かに襲い掛かるかもしれない。その拍子に、吸血鬼だってばれて捕まってしまうかも……!!
うまく動かない体を引きずって這うようにして部屋の扉へ近づく。
いつもなら何でもない距離がひどく長く感じられた。
必死に這いずってやっと部屋の扉に手が届く……という瞬間、
コンコン、と遠慮がちなノックの音が聞こえた。
思わず体が強張ったけど、次に聞こえてきた声に体が安堵で床に崩れ落ちる。
「……クリスさん、起きてますか?」
その遠慮がちな声は、まぎれもないヴォルフのものだった。
何か返事しなきゃ、と焦っている間に扉が開く。
床に崩れ落ちた状態の俺を目にした途端、ヴォルフは血相変えて走り寄ってきた。
「クリスさん!? 大丈夫ですか!!?」
慌てたように抱き起され、痛みに大きく息を吐く。
顔を上げると、必死な顔で呼びかけるヴォルフが目に入り、自分でも驚くほど安心した。
「だ、い……じょぶ……」
……うん。いつものお前に戻ったから、もう大丈夫だよ。




