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59 夜会という名の伏魔殿

「この季節のシュヴァンハイムはとても涼しくすごしやすいとか……憧れますわ」

「えぇ、ぜひ一度いらしてください」


 笑みを浮かべてそう口にすると、目の前の令嬢は途端にうっとりとした表情を浮かべた。

 ……何をやっているんだろう、自分は。

 浮かんでくるそんな感情を押さえつけ、ヴォルフは無理矢理笑顔を作った。


 社交も貴族にとって重要な仕事の一つである。

 兄からは、興味なくてもそれなりに相手をしろときつく言われていた。ここで冷たくあしらうことはできないだろう。


 毎晩開かれる硝子城での夜会。

 二日目にして、ヴォルフは既に疲れ切っていた。

 ユグランス帝国の北方一帯を統べるヴァイセンベルク家。その名前はさすがに強力だった。ヴォルフの周りには多くの貴族──特に未婚の女性が集まってくる。

 何を目的としているかなんてことは……考えるまでもないだろう。

 シャンデリアの煌々とした明かりに照らされ、ほんのり紅潮した少女の顔がよく見える。

 中々可愛らしい令嬢だ。きっと、彼女に恋い焦がれる男も数多く存在するだろうに……と、ヴォルフはどこか客観的にそんなことを考えていた。


 庶子とはいえ大貴族の一員。力の弱い貴族からすれば、ヴァイセンベルク家との繋がりは喉から手が出るほど欲しいことだろう。

 こうして、何人もの令嬢が誰にそそのかされたのかヴォルフの元へと送り込まれてくる。

 貴族相手の会話は気を遣うが、幸い今のところぼろは出ていないようだ。ヴォルフはそれなりに何でも器用にこなすことができる自らの能力に感謝した。

 ヴォルフはきちんと貴族としての教育を受けた訳ではない。一般常識レベルの知識、それに、戦いの、相手を殺す技術。もっぱらそんなことを教え込まれ育ってきた。

 何の因果か今こうして貴公子のように振舞っているが、きっと自分にはもっと血と泥にまみれた世界の方があっているのだろう。


 気取った会話もダンスも社交辞令も何もかも付け焼刃でしかない。

 これなら延々とアンデッド退治を続ける方がまだ疲れないかもしれない。少女を喜ばせるような会話を続けながら、ヴォルフはげんなりとした気分でそんなことを考えていた。


「……初めまして、ヴォルフリート様。カルラ・バーテンと申します」


 気が付くと、目の前に初めて見る顔の少女がいた。

 彼女が美しい朱色のドレスの裾を摘まみ上げて礼をして見せたので、ヴォルフも慌てて応える。

 バーテン家……確かここエンテブルクにほど近い地のそれなりに名の知れた家だったはずだ。

 瞬時に頭の中からそんな情報を引き出し、ヴォルフは目の前の少女に意識を戻した。


 勝気そうな瞳が印象的な美人だ。年はヴォルフと同じか少し下と言ったところだろうか。

 少々露出度の高い大胆なデザインのドレスを身に着けており、大人顔負けのプロポーションが嫌でも目に入る。

 少しあたりに気を配ると、あちこちから彼女の様子をうかがっている男性の視線が目に入る。

 無用なトラブルに発展しないことを祈りつつ、ヴォルフは口を開いた。


「初にお目にかかります、ヴォルフリート・ヴァイセンベルクです」




 カルラはどこか自信に満ちた態度で会話を進めていく。

 ……少し、苦手なタイプかもしれない。もちろん、そんな態度はおくびにも出さないが。


「でも夢みたいですわ。ヴォルフリート様に本当にお会いできるなんて。お噂はかねがね伺っておりましたから」

「へぇ、どんな噂ですか?」

「とても勇敢な方で、次々と功績をあげているとうかがっております。少し前には暴走する魔物からフリジアの姫を救ったとか……」


 ……噂に尾ひれがつきすぎている。顔がひきつりそうになるのを必死に抑え、ヴォルフは気分転換にグラスを煽った。


「南部の空気はいかがでしょうか。北部の方にはお気に召されないのではと心配で……」

「いえ、とても素敵な場所ですね。帰りたくなくなるくらいですよ」

「まぁ! 気に入っていただけた嬉しいわ。そうだわ、こちらはいかがですが?」


 カルラが差し出してきたのは、まるで血のように真っ赤な酒だった。

 一瞬本物の血なのではないかと息が止まりそうになったが、すぐにおそらくは果実酒だろうと気が付いた。


「南部産のベリー酒ですの。お口に合えばいいのですが……」

「えぇ、ありがとうございます。頂きます」


 まだまだ酔っぱらうほどの量は飲んでいないし、おそらくそこまで強い酒でもないだろう。

 軽い気持ちで、ヴォルフは差し出されたグラスを手に取り、煽った。

 舌に広がる酸味と甘味。案外、飲みやすく口当たりの良い酒だった。

 これなら酒に弱いクリスでも問題なく飲めるだろう。無意識のうちに、愛しい笑顔を頭の中に思い描いていた。


 その途端、どくん、と心臓が大きく鳴る。


「っ……!」


 ……いったい何なのか。何かの異常だろうか。

 平静を装いつつも、ヴォルフは自身の体の変化に戸惑った。


「どうかされましたか?」

「……いえ、何でもありません」

「ふふ、わたくしは酔いが回ってしまったようです。少し、風にあたりませんか?」


 そう言って、カルラがバルコニーへと続く扉を指差す。

 ……軽率な行動をとるべきではない。そうわかっていたが、明らかに心臓の鼓動が早くなっている。気のせいか、頭までぼんやりとしてきた気がする。

 このまま大勢の前で失態を晒すよりかは、彼女一人を相手にしていた方が楽かもしれない。


「えぇ、行きましょう」


 カルラをエスコートするようにして歩みだす。腕を絡めた彼女のぬくもりを間近に感じると、その途端また頭が熱くなったような気がした。


「ヴォルフリート様?……お加減でも悪いのですか……?」


 気が付くと、バルコニーに出ていた。

 周りに人はいない。ここにいるのは、ヴォルフとカルラの二人だけだ。


「いえ、僕も酔ってしまったのかもしれませんね」

「北部の方はお酒に強いと伺っていましたが……あなたはそうでもないのかしら? それとも……酔ったのは、あの場の雰囲気にですか? いえ……」


 カルラがぴとりと体を近づけてくる。

 駄目だ。彼女を制しなければ。そう思考は叫んでいるのに、体は動いてくれなかった。

 触れ合った場所から感じる熱い体温が、柔らかなぬくもりが……それしか考えられない。


「ヴォルフリート様……本当に素敵な御方。わたくし、きっと……あなたのような方をずっと待ってたんだわ」


 胸元にしがみついたカルラが顔を上げ、蠱惑的な笑みを浮かべた。

 硝子城の幻想的な明かりを受けて輝く艶やかな髪が、酔っているのか潤んだ瞳が、うっすらと紅が引かれた濡れた唇が……何もかもがヴォルフを誘っているようだった。

 白く滑らかな首筋が目に入る。そこに牙を突き立てたら、いったいどんな味がするのだろうか……。

 カルラがぎゅっとしがみついてくると、年の割に豊満な胸が押し付けられ、それだけで思考が焼ききれそうになる。彼女から立ち昇る甘い香りが、判断力を鈍らせていくようだった。


「……ねぇ、ここにいるのは私とあなただけ。素敵でしょう?」


 カルラが首に腕を回すようにして抱き着いてくる。


 目の前の女は自分を誘っている。受け入れようとしている。


 だったら、何を躊躇する必要がある?


 理性は必死にやめろと叫んでいるのに、獰猛な本能に掻き消されてしまう。

 思い出せ、もっと大事なことがあるはずだ。自分の中の何かがそう問いかけてくるのに、思考が麻痺したような頭では答えを導くことができなかった。


 湧き上がる欲求のまま目の前の女の体を掻き抱こうとした瞬間──


 上着の裾から何かが滑り落ち、地面へと落ちた。


「あら? これは……貝殻?」


 地面に落ちた拍子に巻かれていた布が解け、中に入っていた物が姿を現していた。

 拾い上げると、それは、美しい桃色の貝殻だった。

 クリスがくれた、貝殻──


「っ――――!」


 そう理解した瞬間、とっさにカルラから距離を取った。

 カルラが驚いたように目を見開く。


 そうだ。クリス、クリス!

 自分が愛しているのは、求めているのは目の前の彼女ではない。たった一人、クリスだけなのに!!

 それでも、体を侵食する熱は治まらない。心臓は早鐘を打ったままだ。


 ……これは明らかに異常だ。


 このままここにいれば、いつまた先ほどのようにおかしくなるかわからない。

 ……おそらくは、薬を盛られたのだろう。

 思い当たるものと言えば、先ほどのベリー酒か……


「……すみません、少し体調が悪いのでここで失礼させていただきます」

「え、ヴォルフリート様!?」


 背後からカルラの慌てたような声が聞こえてきたが、ヴォルフは振り返らずに足を速めた。


 クリス、クリス、クリスに会いたい──!


 どろどろと湧き上がる欲が、クリスを求めてやまない。

 もういつ、誰に薬を盛られたかだとか、ここで夜会を去ってどう思われるかなどどうでもよかった。

 ただひたすら、クリスに会いたい。クリスが欲しい……!


 その思いに突き動かされ、どこをどう通ったのかもわからないまま、ヴォルフは硝子城を飛び出し駆け出していた。




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