56 湖上の都エンテブルク
がたごとと馬車は進んでいく。通り過ぎていく景色を見ていると、わくわくと期待に胸が膨らんでいく。
「また長旅か……嫌んなるぜ」
面倒くさそうなヨエルとは対照的に、俺の心は浮足立っていた。
なんたって、これから向かうエンテブルクの街では水着美女たちがお出迎えしてくれるというではないか!
水着美女のためなら尻の痛みなどいくらでも我慢しよう!
「でもいいなぁ、貴族って。いろんなとこに行けてさ」
「別に楽しいことばかりではありませんよ。行楽も半分仕事のようなものです」
ヴォルフはため息をつきつつそう言った。こいつは水着美女たちが楽しみじゃないというのか!
まぁ、あからさまに喜ばれてもちょっと複雑だけどさ……。
エンテブルクの領主、ブラウゼー家はヴァイセンベルク家と同じく帝国六貴族のうちの一つだ。
北と南、そこまで深い親交はないらしいが、敵対関係でもないということで一大行事である水祭りに招待されたらしい。
「……でもあなたも日ごろ疲れてるでしょうし、ゆっくりと羽を伸ばしてください。あっ、ただマティアス兄さんに咎められるような行動は避けてくださいね」
「はーい」
エンテブルクへ向かうのは俺たちだけじゃない。今回はヴォルフの下のお兄さんであるマティアスさんが一緒なのだ。彼に怒られるのは怖い。そこだけは気を付けておこう。
ジークベルトさんは最後まで自分も行きたいと駄々をこねてユリエさんに叱られていた。またもや外せない仕事があったらしい。
ちょっとかわいそうだけど、ジークベルトさんの分まで思いっきり楽しんじゃおう!!
「ふふっ、蒼の都かぁ……」
持ってきた雑誌をめくる。
エンテブルク──通称「蒼の都」
湖と山々に囲まれたその場所は、古くからブラウゼー家の庇護の元栄えてきたという。
美しいその風景を求めて、帝国だけじゃなく大陸各地から人が訪れているという。特に、今の「水祭り」の時期は様々な催しがあり、毎日がお祭り状態だそうだ。
元々は湖に棲むという水の精霊を称える行事だったらしいが、雑誌を読む限りは便乗した人々によってなんか別のものになっているようだった。
でも、楽しそうだからいっか!
特にトラブルが起きるわけでもなく、穏やかな馬車の旅は続いた。
やっぱり長旅で馬車に揺られすぎて尻が痛くなったころ……やっとブラウゼー家の領地へと入った。
緑豊かな森に、あちこちに小さな泉が湧き出ている。とても美しい場所だった。
ヴァイセンベルク領の少し寒々しい風景とは違う。ちょっと俺の故郷に似ているかもしれない。
ちょっと郷愁に浸りながらも、俺は窓の外の風景に釘付けになった。
◇◇◇
やがて広大な湖と、その傍らに集まる建物群が見えてきた。
あそこが、目的地のエンテブルクだろう。
「うわぁ、すごぉい……!!」
初めて訪れたエンテブルクの街を見て、俺は驚いた。
その街は、まるで湖の上に建っているように見えるのだ。
「街中に水路が張り巡らされていて、ほとんど水上に街があるようなもんらしいぜ」
「へぇぇ……」
街の入り口で馬車から降り、あたりを見回す。
祭りの期間中ということであちこちの建物がにぎやかに飾り付けられ、着飾った人たちが出歩いている。見ているだけで楽しい気分になってくるようだ。
街の中央には、三つの尖塔が特徴的な大きな城がそびえ立っていた。
驚いたのは、その城の上部が半透明の蒼い硝子で作られていたことだ。太陽の光を浴びて、蒼い硝子がきらきらと光っている。
うひゃー、割れたら破片が降ってきそうでちょっと怖い。
「あれって壊れないの?」
「細かい修理はしてるでしょうが……大きく破損したという話は聞いたことがありませんね」
「それだけ安全な場所っていう誇示だろ。水の精霊に守られし蒼の『硝子城』……。有名な話だぜ」
その幻想的な光景を眺めていると、俺たちとは別の馬車でここまでやってきたマティアスさんが近づいてきた。
「ここからは小舟に乗り換える……まったく、面倒だ」
マティアスさんはどこか機嫌悪そうな様子で楽しそうに通りを歩く人たちに視線をやった。
彼のように生真面目で物静かな人は、こういった雰囲気はあまり好きじゃないのかな。
「それと、お前たちもくれぐれも羽目を外すなよ。……ここには各地から人が集まってきている。どんな奴が潜んでいるかわかったものではない」
マティアスさんにそう言われ、思わずきょろきょろとあたりを見回してしまう。あたりの人たちの中にはとても悪意があるような人はいないような気がするけど……気がするだけなのかな。
「問題さえ起こさなければ俺は何も言わん。あとは好きにしろ」
……これは、彼なりに遊んでもいいって許可をくれたのかな。
その不器用な優しさに感謝しつつ、俺はまずは何しようとか、と頭を巡らせた。
俺たちはブラウゼー家に招待され、硝子城近くのブラウゼー家所有の屋敷に滞在することになるらしい。
そこまでは小舟に乗っていくということで、俺はさっそく浮足立っていた。
広い水路に視線をやれば色とりどりの小舟が行き交っている。水夫が歌い、乗客が楽しそうにこちらに手を振ってくれた。
……なんか、別世界って感じだ!
やがてブラウゼー家の使いの者がやってきて、俺たちを小舟へと案内してくれた。
他の舟よりもひときわ大きく、豪華な船だ。黒を基調に金の装飾が施されており、先端には金でできた人魚の船首像が飾られている。
一人ひとり乗り込んでいき、俺もおそるおそる足を進める。
だが、俺が小舟に片足を付けた途端小舟が大きく揺れ、思わずバランスを崩してしまった。
「ひゃぁっ」
そのままみっともなくこけるかと思った俺の体は、力強い腕に支えられていた。
てっきりヴォルフだと思って礼を言おうと顔を上げて、俺は固まった。
「お怪我はありませんか? 麗しいレディ」
そこで微笑んでいたのは、帽子を目深にかぶった水夫の青年だったのだ。
帽子の下から覗く端正な顔立ちの、湖のように澄んだ蒼い瞳に見つめられ、一気に顔が赤くなるのがわかった。
「ははははいぃぃ……ありがとうざいますっ!!」
慌てて立ち上がろうとするとまたバランスを崩してしまう。
今度は、背後から支えられた。
「……気を付けて」
「は、はい……!」
ヴォルフはそのまま俺の手を取って座らせてくれた。
ちょっと怒ってるような気がするのは……気のせい、だと思いたい。
その光景を見ていたらしいマティアスさんが大きくため息をついた。
そして、鋭い視線を水夫に向けた。
「それで……何のつもりだ、ヘルムート・ブラウゼー」
「え……?」
マティアスさんの呟きに、俺とヴォルフは驚いて水夫を凝視した。
彼はどこか困ったような笑みを浮かべていたが、やがて降参だとでもいうように両手を上げた。
「おぉ怖い怖い。マティアス、そんなに怒るなよ。ブラウゼーの男は自分で舟の一つも漕げなきゃ始まらないんだぜ」
「そういう問題ではない」
「へぇへぇ、相変わらず手厳しいねぇ。ちぇ、ばれないと思ったんだけどな」
彼はにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべると、俺とヴォルフの方へと向き直る。
「なるほど、そちらが噂の弟くんね……。俺はブラウゼー家のヘルムートだ。よろしくな!」
そう言って、水夫の格好をした貴族の青年は俺たちに向かって片目を瞑って見せた。




