44 はじめてのお化粧
いよいよ今日は祝賀会の当日だ。実際に始まるのは夜なので、それまではこの街の観光をしてもいいとのお許しが出た。
ホテルで寝ていたいなどと抜かしたヨエルを引っ張り出し、街へと繰り出す。
「ったく、ガキみたいにはしゃぎやがって……」
「まぁいいじゃないですか。何か面白いものがみつかるかもしれませんよ」
ぶつぶつ言いながら欠伸を繰り返すヨエルをヴォルフが諫めている。
そんなものも気にならないほど、俺は初めて訪れた街の散策に夢中になっていた。
「あっ、ジャムの店だって! ヴォルフ、行こう!!」
お嬢様へのお土産は何にしようかな。そうだ、師匠やニルスにも買っていかないと……。
俺にとっては祝賀会よりもどっちかっていうとこっちの方が今回のメイン行事だ。
お土産買って、おいしいもの食べて……やばい、時間がない!
ヴォルフの腕を掴んで走り出すと、ご主人様は笑った。
「おい、あんま飲むなよ。お前一応護衛として来てんだろ」
ヴィルエールは葡萄酒の名産地でもある。
あちこちで試飲がされており、ヨエルは昼間っからちびちびと飲み続けていた。
「別に平気だ」
「あっ、ちょっとふらふらしてる!」
「してねぇよ」
まったく、こいつは仕事だという自覚はあるんだろうか。俺が言えたことじゃないけど。
大通りを歩いていると、ふいにヴォルフが立ち止まった。なんだろう、と前方を確認すると、随分と人が集まっている場所がある。
その中で、昨夜も目にした艶やかな黒髪の女性が目に入った。
あれは……皇太子の寵姫テレーゼだ。
おそらく昨日のように、彼女が知り合いを見つけたのだろう。にぎやかな笑い声が聞こえる。
「……ここは避けましょう」
ヴォルフが小声でそう合図し、俺たちはすぐ横の路地裏へと進路を変えた。
「……別に逃げなくてもよくない?」
「ないと思うが変ないちゃもんでもつけられたら嫌だろ」
「……あんなに堂々と愛妾として振舞ってる女ですよ。腹の底では何を考えてるのかわかったものじゃない」
ヴォルフはどうやらあのテレーゼがあまり好きではないらしい。
綺麗な人だと無条件にドキッとする俺とは大違いだ。
なんとなく街中は避けて、郊外のブドウ畑が広がる道を歩く。
ちらっとヴォルフの横顔を確認すると、どこか険しい顔をしているような気がした。
◇◇◇
夕方になり、いよいよ祝賀会の会場へと出発することになった。
会場は街の中ではなく郊外に立つ城だということなので、またそこまで移動しなければならない。
ヴォルフとユリエさんは礼服に着替え、俺も持ってきた上等な服に着替える。
ヴォルフのお付きの俺は実際に祝賀会に出なくてもいいけど、その間不審な人物がいないか見回ってくれと言われた。使用人とはいえ適当な格好をしていてはヴァイセンベルク家が舐められかねない。普段よりも気合を入れて身だしなみを整える。アストリッドに泣きついて髪もまとめて、何とか見苦しくない程度にはなったと思う。
大丈夫かな……と一人で鏡で確認していると、コンコンと部屋の戸が叩かれた。
「はーい!」
扉を開けると、そこには既に礼服に着替えたヴォルフが立っていた。
いつもとは違う雰囲気に、思わずどきっとしてしまう。
……ていうか、終わったら手伝おうと思ってたのにご主人様の方が先に終わってた!
「準備はどうですか?」
「え、あ……大丈夫、だと思うけど……どうかな?」
馴れない格好にそわそわしてしまう。
後頭部で結われた髪がちょっと重い。アストリッドに手伝ってもらってちょっと化粧もしたし、大丈夫……だとは思うんだけど。
……変だと思われたらどうしよう。
ちょっと不安になってうつむくと、ヴォルフが一歩近付いてくるのがわかった。
そして、優しく引き寄せられる。
「綺麗ですよ…………誰にも見せたくないくらいに」
そう囁かれて、かっと顔が熱くなる。
恥ずかしくて顔を上げられない。髪をあげて露わになった耳をくすぐられ、小さく吐息が漏れる。
なんだか二人ともいつもと違うからか、変にどきどきしてしまう。
いやいや、いつから俺はこんな風になったんだ……!
「でも困りましたね。ますます皆があなたの魅力に気づいてしまう」
「……何それ。ジークベルトさんに習ったの」
「ばれましたか」
「やっぱりそうか!」
思わず距離をとると、ヴォルフはおかしそうに笑った。
くそっ、余裕ぶりやがって……!
悔しくて睨み返すと、ヴォルフがまた一歩近づいてきた。
「……誰にも見せたくない、は本当ですよ」
「…………うそつき」
「本当ですって」
顎に手を添えられ、優しく上を向かされる。
目が合うと、途端に動けなくなってしまうようだった。
そのまま顔が近づいてきて触れ合う寸前……はっと我に返って押しとどめる。
「ま、待てって!」
「なんで」
「口紅……取れちゃうから……」
そうしたらまたアストリッドに直してもらわないといけない。
こんな短時間で何で取れたかなんて……聡い彼女なら気づいてしまうだろう。
「いいじゃないですか、少しくらい」
「だめだって……」
「……クリス」
言い聞かせるように囁かれ、思わず抑える手が緩んでしまう。
そしてもう一度顔が近づいてきて……触れ合う寸前──
ドゴォ、とドアの外から壁を殴るような音が聞こえた。
「うっっっぜーんだよ!!! 言っとくけど全部丸聞こえだからな!!」
ヨエルの声だった。
……危ない、聞かれたのがあいつでよかった。
「ヨエル、穴開けたりしたら弁償ですよ」
「お前のせいだお前の!!」
キーキーわめくヨエルをヴォルフが宥めている。
……なんだか気が抜けてしまった。
「ふふ、にぎやかね。もう準備はできたかしら?」
廊下の向こうからユリエさんとお付きの侍女がやってくる。
普段から綺麗な人だけど、淡い銀のシックなドレスに身を包んだ姿は、はっとするほど美しかった。
「綺麗です、義姉さん」
「あら、ジークに似て口が上手いのね。……あなたも素敵よ。きっとフリジアの女性が放っておかないわ」
ユリエさんが口に手を当てて上品に笑う。
その視線が、ヴォルフの後ろにいた俺に注がれる。
「でも……あなたの隣はもう予約済みね」
「ぃえ……あの、その……」
「お似合いよ。ジークにも見せたかったわ」
そのままヴォルフとユリエさんはこれからの段取りを確認し始めた。
俺は、恥ずかしくて顔を上げることができなかった。
……お似合い、か。
いかんいかん。油断すると頬が緩んでしまう……。
◇◇◇
ヴィルエールの街から少し離れた小高い丘の上に、その城は立っていた。
いくつもの豪華な馬車が城へと向かっていく。
「……ここからが本番ね」
馬車を降りたユリエさんは、まるでこれから戦場に向かうような顔をしていた。
いや……ここは彼女にとっての戦場なのかもしれない。
思わず俺もごくりと唾を飲み込む。
城の前には、何人もの警備兵と思われる人が立っていた。
結構厳重だ。これじゃあヨエルとアストリッドの出番はないだろうな。
ユリエさんとヴォルフを先頭に、ヴァイセンベルク家の一行が城の中へと進んでいく。
俺とヨエルはそれに続きながら、自分たちもディナーのおこぼれに預かれるだろうかと小声で話をしていた。
何人かの警備兵の前を通り過ぎ、城の入り口に差し掛かった時だった。
「……おい、そこの女」
低い、男の声が聞こえた。
反射的に振り返ると、帽子を目深にかぶった警備兵の一人が、俺の方へと体を向けている。
……そこの女って……まさか俺!?
ちょっと待て、俺は何もしてない!!
「は、はいぃ!?」
びっくりしすぎて声が裏返ってしまった。
どうしよう、なんか企んでると思われて逮捕とかされたら……!
警備兵がこちらへと近づいてくる。ヨエルが俺を庇うように前に出た。
警備兵は俺たちの目の前で立ち止まると、ゆっくりと口を開く。
「……化粧、濃くないか? 君はもっとナチュラルの方が似合うと思うけど」
「…………ぇ?」
……聞き覚えのある声だった。
戸惑う俺に何かを察したのか、警備兵がかぶっていた帽子をとる。
そこに現れた顔を見て、心臓が止まるかと思った。
「お前……レーテ!?」
そこにいたのは、俺のかつての仲間……
人々が今も探し求めている、勇者様その人だったのだ……!!




