41 冬の落とし子
「……はぁ」
美しい庭園を歩きながら、ユリエは物憂げなため息をついた。
ヴァイセンベルク家に嫁いで数か月。ユリエ自身も貴族の生まれとはいえ、やはり六貴族の一つであるヴァイセンベルク家は格が違った。
今までの常識では通用しないことも多く。覚えなければならないこと、やらなければいけないことは山ほどある。
夫であるジークベルトは好きなことだけしていればいいというが、そんなことはユリエのプライドが許さなかった。
次期当主の妻として、役目は果たさなければならない。
今の自分の力不足は重々承知している。だからこそ、日々努力を重ねているつもりだ。
つもりなのだが……たまにはこうして息抜きをしたい時もあるのだ。
慣れない生活は精神的にも体力的にも疲労がたまる。
疲れた時はこうして庭園を歩き、美しい花々に癒されるに限る。
息を吸い込めば、色とりどりの花々の甘やかな香りが鼻をくすぐった。
ひと時の安らぎの時間に、しばしユリエは浸った。
「……あら?」
気がつけば随分と歩いてきたようで、庭園を抜けてしまった。
戻ろうかと思ったが、その向こうに見えたものにふと足が止まる。
まばらな木々に囲まれた小さな池。その向こうに、ひっそりと小綺麗な館が建っていたのだ。
ここはなんだろう、と頭を巡らせ、ユリエはすぐに気が付いた。
その途端、思わず緊張してしまう。
隠されたようにひっそりと建つ館。目の前には小さな池。
ここは、以前ジークベルトに聞いた、当主の妾が居住していた館ではないのか……?
慎重にあたりを見回し、ユリエは思わず息をのんだ。
池のほとり、木々に隠れるようにして……小さな少年が座り込んでいたのだ。
そのまわりにガアガアとアヒルが集まっている。
ユリエは、その少年を知っていた。
婚礼の時をはじめ、何度か顔を合わせたことがある。
特徴的な白に近い銀髪に、整った顔立ち。
彼は、普段は離れたところで暮らしているジークベルトの異母弟だったはずだ。
きっと何かの用事があって、ここに戻ってきているのだろう。
──ジークベルトが、愛した女の子供……
浮かんでくる複雑な感情を押さえ、ユリエは一歩足を踏み出そうとした。
今の自分はあの子の義姉になるのだ。会話らしい会話も交わしたことはないが、ここで無視するべきではないだろう。
だが、その途端聞こえてきた声に思わず足が止まってしまった。
「……ほんと、気持ち悪いわね」
「何を考えてるのかわかったもんじゃない」
「あの色狂いの母親の話を聞いた? 真夜中に歩き回って、やっぱりあいつは化け物だったのよ!」
「その子供だ。あれも化け物に決まってるんだろ」
ユリエは信じられない思いでその声の方へと視線をやった。
そこには、意地の悪そうな顔をした使用人が二人、声を潜めることもなく件の少年の方を向いて堂々とそんなことを言っていたのだ。
聞こえていないのか……いや、この距離で聞こえないはずはないのだろうが、少年は微動だにせず、振り返ることもせず池を眺めていた。
彼の母親……インヴェルノは素性が不祥な者であり、一部からは化け物や不幸をもたらす存在だと噂されていたとはユリエも聞いたことがある。
だが、まさかこんなに堂々と騒ぎ立てる者……しかも使用人という立場でそんなことを言う者がいるとは思わなかった。
件の少年──ヴォルフリートは妾腹とはいえヴァイセンベルク家の血を引く人間だ。
それを貶めるようなことを言うなんて、どんな処罰があってもおかしくはないのに。
……何よりも、まだ小さな子供をいびるような真似は虫唾が走る。
ぐっと拳を握り締め、ユリエは一歩足を踏み出した。
「……あなたたち、口を慎みなさい」
怒鳴り散らしたいのを押さえ、ユリエは努めて冷静にそう口に出した。
今のユリエはジークベルトの妻。ヴァイセンベルク家の一員である。
こんな行いを、許すわけにはいかないのだ。
使用人たちはまさかユリエに見られていたとは思わなかったのだろう。
一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに意地の悪い笑みを浮かべた。
その悪意のある表情に、思わず足がすくんでしまう。
そんなユリエの動揺を見透かしたように、使用人は口を開いた。
「これはこれは、若奥様ではないですか」
明らかに馬鹿にしたような口調だった。
思ってもみなかった展開に、思わず体が震えそうになってしまう。
ユリエはジークベルトの妻、ヴァイセンベルク家の次期当主の妻なのだ。
心の奥底では自分のことを気に入らない人間がいるのはよくわかっているつもりだった。だが、嫁いできてから今まで、城の内部の人間にこんな態度をとられたことはなかった。
皆、形だけはユリエを敬うような態度をとっていたのに……。
真正面からぶつけられる悪意に、どうしても身がすくんでしまう。
「いえいえ、よく聞いてくださいよ若奥様。奥様はここへ来られたばかりだからご存じないでしょうけど」
「よく言うじゃないですか、火のないところに煙は立たないと。……ねぇ?」
「そうですよ。あの子供の母親は……」
「……災いを呼ぶ氷姫、ですか」
ユリエがそう口にすると、使用人たちは笑みを深くした。
氷姫──インヴェルノが城に現れた頃から、ヴァイセンベルク地方で様々な天災や不運な出来事が相次いだという。
だが、ジークベルトはすべて偶然であり、インヴェルノは関係ないと言っていた。
……そうだ。そうに決まっている。
「……そんなものは迷信です。彼はれっきとしたヴァイセンベルク家の人間。彼や彼の母君を貶めることは、ヴァイセンベルク家を貶めることと同義と思いなさい」
ユリエはぴしゃりとそう言い放った。
その途端、使用人たちの顔がゆがむ。
……そして、彼らはその言葉の刃の矛先をユリエに向けてきたのだ。
「……ふふ、魔女同士庇い立てですか」
「なっ!」
あけすけのない言葉に、思わず言葉に詰まってしまう。
使用人は勝ち誇った顔で醜く口元をゆがめている。
「知っていますよ? 奥様は以前あの魔術師の国へ行かれていたとか」
「一体どんな妙技を会得されたんでしょうねぇ……」
確かに、ユリエは以前魔法の研究が盛んな隣国フリジアへ留学していた。ユグランスの民の中には魔術を未知の邪悪な術だと嫌う者がいるのも知っている。
だが、まさかこんな短絡的に結び付けられるとは……。
「ジークベルト様を言いくるめ惑わせる技……是非ともご教授いただきたいものですわぁ」
「ご心配なさらずに。これは我々だけの秘密にしましょう」
まさか、これで脅しているつもりなのだろうか……。
ユリエは思わず唇を噛んだ。
……悔しかった。自分は精一杯、ヴァイセンベルク家に嫁いだ身として努力しているつもりだったのに。
妙な魔術を使いジークベルトを誘惑し、ヴァイセンベルク家に乗り込んだ女だと思われていたのだ。
そう見られる可能性も考えなかったわけじゃない。だが、真正面からそう言われると……どうしても、心を抉られるようだった。
……馬鹿みたいだ。
こんな、何も知らない者たちに誹られただけで、傷つくなんて。
何も言い返せず、ぎゅっと掌に爪を立てたその時だった。
ひゅん、と風を切る音がしたと同時に、何かがものすごい勢いで使用人たちの方めがけて飛んできたのだ。
「ひぃっ!」
使用人たちが情けない悲鳴を上げる。
彼らの目の前の地面には、何故か農作業用の鎌が突き刺さっていた。
……当たっていれば、怪我では済まなかっただろう。
「ごめんごめん、手が滑ったよ」
聞きなれた声に、ユリエは信じられない思いで振り返る。
そこには、夫であるジークベルトがどこか冷たい笑みを浮かべて立っていた。




