40 ユリエ・ヴァイセンベルク
夕方には、グリューネヴァルト地方の比較的大きな街に到着した。
さすがは大貴族の一行。泊る場所も俺が知っているような安宿ではなく、かなり豪華な宿だった。
料理はおいしいし、きっとベッドもふかふかなんだろう。
「えぇと……先生の長年の功績が認められ、栄えある受章をされたこと…………」
夕食が終わると、ユリエさんは本を見ながら何やらぶつぶつと呟いていた。
時折おつきの侍女がそっと口を出している。
なんとなくその様子を見ていると、ヴォルフがそっと囁いてきた。
「祝辞の練習ですよ。公の場での言葉は結構気を遣うんです」
そう言ったヴォルフの手元にも小さな本が開かれていた。
ちらりと覗くと、どうやらそういったマナーに関する本のようだった。
……なるほど、貴族ってのも大変なんだな。
「なんか貴族って生まれた時から自然にそういうものが身についてるかと思ったけど、そうでもないんだな」
「そういう人もいるにはいますけど、僕や義姉さんは違うようですね」
視線の先のユリエさんは必死な表情でひたすらぶつぶつと呟いている。
以前ガーデンパーティーで見た落ち着いた貴婦人、といった雰囲気からは想像もつかない姿だ。
でも、案外みんなこうやって見えない所で努力してるものなのかな。
「……一緒に来たのがジーク兄さんだったら、うまく義姉さんをフォローできたんでしょうけど」
「確かに、あの人はなんかどこにいてもうまく振舞いそう」
どこに行ってもジークベルトさんは人々の視線を集め、心地よい言葉であっという間に虜にしてしまう。きっとあれは天性のものなのだろう。
「他人をうらやんでも仕方ない。凡人は努力あるのみだ」
ちびちびエールを煽っていたヨエルがそう呟く。
こいつもたまにはいいこと言うじゃないか。
◇◇◇
予想通り清潔でふかふかなベッドに横になることができた。
なのに、どうしてか眠気がやってこない。
なんどかごろごろと寝返りをうってみたが、よけい眼が冴えるだけだった。
ヴォルフの部屋……は行けないよな。一緒に来たヴァイセンベルク家の人に見られたら変な勘繰りをされるかもしれない。
でも、どうしても眠れそうにない。
ちょっと歩くくらいなら大丈夫だよな……。
見苦しくない程度に身だしなみを整え、そっと部屋を出た。
食堂の方からはまだ起きている人がいるのか楽しげな笑い声が聞こえる。さすがにあそこはやかましすぎるな。
暗い廊下を歩いていると、中庭に出る扉を見つけた。
外に出るわけじゃないし、ちょっと中庭を散歩するくらいならいいよな……と言い訳しつつ扉を開く。
そこは、ヴァイセンベルク家の城には遠く及ばないけど、なかなか綺麗に整備された庭園となっていた。
建物から漏れる明かりに草花が照らされている。
昼間とは違った独特の、どこか静謐で美しい雰囲気だ。
そのままふらふら庭を歩き、なんとなく噴水の前で足を止める。
その時、突如背後から声を掛けられた。
「あら、あなたも眠れないの?」
「うひゃあ!?」
まさか他に人がいるとは思えなかったので、とっさに変な声が出てしまった。
慌てて振り返ると、そこには驚いた表情で口に手を当てたユリエさんがいたのだ!
「ごめんなさい、まさかそんなに驚くとは思わなくて」
「い、いえっ! おおお奥様に気が付かなかったお……私が悪いんです!!」
うぅ、恥ずかしいし申し訳ない。どうしよう……。
いたたまれなさで下を向いていると、くすりと笑い声が聞こえた。
「ふふ、奥様なんてやめてちょうだい。ジークのことは『ジークベルトさん』って呼んでるじゃない」
「し、知ってたんですか!?」
どうしよう、無礼な奴だって怒られないだろうか……!
冷や汗をかく俺とは裏腹に、ユリエさんは優しく笑った。
「私のことはユリエでいいわ。……あなたとは、一度ちゃんとお話ししてみたかったの」
「え……?」
「ふふ、あなたのことはステラやジークからよく聞いているわ」
ユリエさんはゆっくりとこちらへやってきて、俺の隣に並んだ。
そして、俺の方を見てにっこりと微笑んだのだ。
「まずは礼を言わせて。いつもステラに付き合ってくれてありがとう」
「そんな……お、私の方こそお嬢様にはよくしていただいて……」
たかが一介のメイドの分際でお嬢様のお茶会に呼ばれるなんて身に余る光栄だ。
なんとかそう言うと、ユリエさんは慌てたように手を振った。
「いいえ、あの子のわがままには困っているでしょう。でも……あなたさえよければこれからもたまにでいいからあの子と遊んでやってくれないかしら」
「もちろんです!」
力を込めてそう返事すると、ユリエさんは嬉しそうに笑う。
「……ありがとう。あの子には寂しい思いや辛い思いをさせることも多くて……あの子はあなたに懐いているから、そうしてくれると嬉しいわ」
「は、はい!!」
俺にとってもお嬢様は、ちょっと図々しいかもしれないけど妹のように可愛い存在だ。
これからも気兼ねなく会えるのならばそれ以上のことはない。
秘かに喜んでいると、俺の方をじっと見ていたユリエさんがふっと笑った。
「……ジークの言っていた通りの人ね。ヴォルフが好きになるのもわかるわ」
「はぇっ!?」
ユリエさんがとんでもないことを言ったので、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
え、えぇぇぇ………!!?
それがツボに入ったのか、ユリエさんはくすくすと笑っている。
「あら、別に隠さなくてもいいじゃない。あなた、ヴォルフの恋人なんでしょう?」
おぅ……まさかこの人にまで知られていたとは!
でも、たかがメイドが義弟の恋人なんてけしからん!……っていう雰囲気でもない。
これは、大丈夫なのかな。
「でも……私とヴォルフじゃあ、釣り合う訳がないんです」
自然と、口をついて出てしまった。
俺はヴォルフが好き。ヴォルフも俺のことを好きだと言ってくれる。
でも……どうしても不安が消えない。
俺は元々何のとりえもないような冴えない普通の男で、誰かを惹きつけるような女らしさなんて全く持ち合わせていない。
出身はド田舎の平民だし、仕事で失敗することも多いし、頭もよくない。
性格も可愛げはないし、取り柄の容姿だって元々俺のものだったわけじゃない。
……俺自身が誇れるものなんて、何もないんだ。
そう考え始めると、普段は封じ込めている不安がどんどん溢れ出してきてしまう。
今のヴォルフに乞われれば、きっとどんな女性だって振り向くだろう。俺なんかより、ずっと高貴な生まれで美人で性格もいい人だって。
……あいつを信じていないわけじゃない。でも、どうしても……怖くなってしまう。
黙り込んだ俺を見て何を思ったのか、ユリエさんは小さく息を吐いた。
「……同じね、私と」
「え……?」
思わず顔を上げると、彼女はどこか懐かしむような顔をしていた。
「私の実家は、貴族と言ってもヴァイセンベルク家とは比べ物にならないくらいの小さな家だったの。それこそ、ほとんど平民と変わらないような。それをひっくり返せるような器量も才能もなかった」
「えぇっ……?」
初めて知った。俺はてっきり、ジークベルトさんの奥さんなんだからヴァイセンベルク家にも引けを取らないような大貴族の令嬢かと思っていたのに。
「不思議な巡りあわせで私とジークベルトは出会って……色々あって結婚することになったの。……不相応にもね」
ユリエさんは、どこか自嘲するように笑った。
「自分でも不釣り合いだってことはわかっていたわ。でも、ジークベルトは私を選んで、私たちは夫婦になった。……本当にいろいろ言われたわ」
嫌なことでも思い出したのか、彼女の顔は若干強張っていた。
「恥知らずの馬鹿女、卑しい下女、金目当ての女狐、ヴァイセンベルク家を陥れようとする魔女……なんてのもあったわね」
「そんな……」
俺から見て、ジークベルトさんたちは理想の家族のように見えていた。
仲の良い夫婦、かわいい娘。
何の悩みも、一点の曇りもないような家族に。
それなのに……
「ジークベルトさんは、何も言わなかったんですか……」
「気になるなら今すぐ黙らせると何度も言ってきたわ。あまりに度が過ぎたものは、私が言わなくてもきっと彼が対処していたんでしょうね……でも、私からジークに何とかしてと頼んだことはないわ」
「……どうして、なんですか」
ジークベルトさんなら、きっとユリエさんが頼めばそんな戯言なんて一切耳に入らないようにしてくれただろうに。
「……なんとなく、悔しかったのよ。負けたみたいで。ただのくだらないプライドね」
ユリエさんはあっさりとそう言った。
絶句する俺の前で、彼女はそれでも笑っていた。
「今でも、気にならないと言えば嘘になるわ。でも……そんな人たちのくだらない言葉よりも、私を選んでくれたジークの決断を信じてみようと思ったの」
彼女はそっと左手の指を撫でていた。
美しい指輪のはまった、左手の薬指を。
「ジークは私を選んでくれた。だったら私もそれに応えなきゃいけない。……どれだけ自信がなくても、うまくいかなくてもね。きっと、それが彼のために私ができることだから」
ユリエさんは俺の方を向いて、にっこりと笑った。
確固たる芯をもった、美しい笑みだった。
「その思いだけで、今までやってこれたのよ」
がつんと頭を殴られたような気がした。
……俺は、ヴォルフを信じきれていただろうか。あいつの決断に、応えようとしていただろうか。
「きっと……ヴォルフもそうなのよ。あの子、随分と変わったわ。昔は心を閉ざして、感情を押し隠すような子だったのに」
「え……」
思わぬ言葉に顔を上げる。
今のヴォルフからは、そんな姿は想像がつかなかった。
戸惑う俺を見て、ユリエさんは小さく息を吐く。
そして、彼女はゆっくりと口を開いた。




