39 馬車に揺られて
今日はヴィルエールに出発する当日だ。
門の前では、大勢の人が見送りに訪れていた。
「ママぁ……ちゃんとかえってきてね……?」
「もちろんよ。ステラを置いてどこかに行くわけないじゃない」
いつもは元気いっぱいのステラお嬢様も、母親であるユリエさんと離れるのが不安なのか、今にも泣きだしそうな表情を浮かべている。
「それにしても心配だな……ユリエ、やっぱり僕も」
「何言ってるのよ。あなたには大事な会議があるじゃない」
「あんなむさくるしいおっさん達に囲まれても楽しくないんだよ」
「はいはい。マティアス、頼んだわよ」
「えぇ、お任せください義姉上」
さりげなく一緒に馬車に乗り込もうとするジークベルトさんは、あっけなくマティアスさんに制止されて引きずり出されていた。
それにしても、あの曲者兄弟を口先一つでコントロールするとはさすがジークベルトさんの奥さんだ……。
次期当主の奥方の出立ということで、随分と大きな馬車が用意されている。
ヴォルフのお供は俺とヨエルの二人だけだが、ユリエさんの方にはもっと人数がいるんだろう。
きょろきょろとあたりを見回して、俺は見覚えのある姿を見つけた。
「あれ、アストリッド?」
そう声をかけると、一人の女性が振り返りにっこりと笑った。
「はい。お久しぶりです、クリス」
女性にしては高めの身長によく似合う騎士装束。腰に佩いた剣はもちろん飾りじゃない。
凛とした立ち姿の彼女──アストリッドは珍しく女性でありながら正式な騎士であり、以前俺の用事でフリジアを訪れた時に、ヴァイセンベルク家が護衛としてつけてくれた女性だった。俺にとっても馴染みがある相手といってもいいだろう。
「アストリッドも一緒に行くの?」
「えぇ、奥様の護衛の任を授かりましたので、全身全霊で全うさせていただきます」
アストリッドはそう言って気取った礼をすると、くすりといたずらっぽく笑って見せた。
彼女は基本的に真面目な人物だが、別に堅苦しいといったことはなく、たまにこうやって茶目っ気のある部分を見せてくれる。
うーん、ヴォルフがいなかったらちょっと惚れてたかもしれないな……。
とにかく見知った相手が一人増えたことで、随分と安心した。
「頼んだぞ、ヴォルフリート」
「少しでもユリエに危害を加えようとする輩がいたら即刻消してくれよ。後で揉み消すから躊躇するな」
「…………はい」
二人の兄に激励され、ヴォルフは微妙な顔をしていた。
ジークベルトさんがとんでもないことを口走った気がするけど、特に誰も止めようとはしていなかった。
……ヴァイセンベルク家って、みんなこんな感じなのかな。
「クリス、ママのことよろしくね……!」
「はい、お任せください!」
泣きそうなステラお嬢様が俺のところにもやってきた。
安心させるようにしっかりと頷くと、お嬢様はやっと笑顔を見せてくれた。その姿にちょっと心がほっこりする。
うん、余裕があればお嬢様にお土産を買ってこよう!
「ほら、そろそろ行きましょう!」
ユリエさんの声に、今回出立する者たちが馬車に乗り込んでいく。
最後にお嬢様と抱き合っていたユリエさんが乗り込み、いよいよ出発だ。
ゆっくりと馬車が進みだす。
振り返ると、城のみんなが手を振っていた。
遂に泣き出したお嬢様がジークベルトさんに抱き上げられる姿がだんだんと遠くなる。
少しの間だけ、さようならだ。
「はぁ、眠ぃ……」
「普段の生活がだらけてるからだぞ」
「しばらくは馬車の旅ですからね。別に寝ててもいいですよ」
がたごとと馬車は進んでいく。
俺たちが乗っているのは比較的小さな馬車で、乗っているのも俺とヴォルフとヨエルの三人という随分と気楽なメンバーだった。
よかった。他の誰かがいたら使用人としての態度を徹底しなきゃいけなかったかもしれないけど、これなら素のままでもいいだろう。
普段寝ている時間に叩き起こされたヨエルはさっそく何回も欠伸を繰り返していた。
……緊張感のない奴め。
「クリスさんもゆっくりしてください。普段は働きづめでしょう」
「おいおい、こいつお前がいない所で結構さぼってんぞ」
「ちょっ、ばらすなよ!」
ヨエルがとんでもないことを言い出したので俺は慌てて立ち上がった。
その途端馬車が揺れ、思わず前につんのめってしまう。
「うひゃあ!」
「あぶなっ!」
なんとかヴォルフが支えてくれて事なきを得た。
ふぅ、危ない危ない。
「……はぁ、いちゃつくなら外でやれよ。俺の気まずさも考えろ」
「今のはよろけただけで! 別にそういうんじゃないから!!」
ヨエルがわざとらしくため息をつく。
うぅ、恥ずかしい……。
ぎゃあぎゃあとやかましい声が響く中、馬車はゆっくりと進んでいく。
◇◇◇
「さて、グリューネヴァルト家の本拠地は?」
「えっとぉ……」
現在、俺は窮地に陥っている。
うんうんうなっていると、ヨエルの冷たい視線がびしばしと突き刺さる。
……シュヴァンハイムを出て数時間。
暇を持て余したらしいヨエルが唐突に授業を始めると言い出した。
何故かヴォルフも賛成して、こうして俺が集中砲火を浴びる羽目になったのだ。
くそ、おとなしく寝てればいいのに余計なことばっかり言いやがって……。
「ヴォルフぅ、ゆっくりしていいっていったじゃん……」
「甘えんな馬鹿メイド。お前みたいなやつは本で読んで頭に詰め込むより実地で覚えた方が早い」
「そういうことです。いい機会なので、今だけ我慢してください」
ご主人様は爽やかな笑顔で俺を突き放した。
仕方なく、手元の教本に目を通す。
「えぇっと、グリューネヴァルト家の居城……オイレンドルフ……?」
「正解……ってほどでもないな。常識だ」
正解したというのにヨエルは鼻で笑いやがった。
くそっ……なんかむかつくな!
「俺たちはシュヴァンハイムを出発してフリジアへ向かっている。今はこの辺だ」
ヨエルは地図を取り出し、とある地点を指差した。
山のふもとを抜け、そろそろ森に差し掛かるようだ。
「ほら、外見てください」
ヴォルフが窓の外を指差す。
木々の向こうに、しっかりと雪の残る白い山々が見えている。
「あれがこのあたり、そしてこれから差し掛かる森があっちですね」
窓から顔を出し進行方向を確認すると、確かに遠くに木々の生い茂る森が見えた。
「あの森を抜ければもうグリューネヴァルト地方だ。グリューネヴァルト地方の特徴は?」
「うーん、森の国、グリューネヴァルト……緑豊かな大地に恵まれ、農業が盛ん、だっけ」
「そうだ。ヴァイセンベルクみたいな不毛の大地とは違う。恵まれた場所だな」
「……不毛の大地で悪かったですね」
ヴォルフがちょっとむっとしたような声を出したが、ヨエルは気にせず続けた。
「ヴァイセンベルク地方は広いが、人の住めない場所も多い。グリューネヴァルトはヴァイセンベルクに比べると面積小せぇが、フリジアへの公路もあり人の行き来は多いし交易も盛んだ」
「なるほど……」
一つ一つ言われるとよくわからないけど、実際に目で見て、訪れて、そういうつながりを考えれば頭に入りやすいかもしれない。
ヴァイセンベルク地方の西がグリューネヴァルト地方で、そこをさらに西に進むとフリジア王国にたどり着く。
……グリューネヴァルトか。
六貴族の一つグリューネヴァルト家には、俺の数少ない貴族の友人であるお嬢様がいる。
彼女は元気にしてるかな……。
「……オリヴィアさんなら、いろいろと話を聞きますよ。忙しい毎日を送っているようですね」
俺の心を見透かしたようにヴォルフがそう言った。
その言葉にちょっと安心する。
……よかった、オリヴィアさんは元気なんだ。
「さすがに今回は立ち寄っている時間はないですが、今度またゆっくり来ましょう」
「……うん」
いつの間にか窓の外には優しい緑が広がっていた。
その空気がどこかあの優しい友人を思い出させて、俺はちょっと懐かしさに浸るのだった。




